大下の悔恨(2)

「どうなのですか? 見たのですか?」


 工藤は、なおも聞いてくる。大下はうつむき、かぶりを振った。もっとも、これは嘘だった。


 ・・・


 あの日……鈴原と酒井が、知らない誰かを連れて大下の住むアパートにやって来た。ガリガリに痩せこけており、腕などは棒きれのように細い。テレビなどで観る海外の難民のような痩せ方である。足取りもおぼつかず、見ているだけで不安になった。

 その知らない男は、室内で注射器を取り出し覚醒剤を打ち始めたのだ。

 もう、見慣れた光景だった。鈴原も大下も薬をやらなかったが、酒井は完全なる覚醒剤依存症だ。この部屋で、注射器を取り出し静脈に突き立てている姿を何度も見た。その後は、鈴原が何やらひそひそ話しかけ、酒井がギラついた目でウンウン頷く……その異様な行動が、数時間続くのだ。もっとも、それだけなら彼女には何の害もない。

 だが、その日は違うことが起きた。突然、男がブルブル痙攣し始めたのだ。唖然となる大下らの前で、男はバタバタともがき苦しんでいる──

 やがて、その動きは止まった。と、それまで無言で見ていた鈴原が、すっと立ち上がり近づいていく。


「こいつ、死んだよ」


 事もなげに言ってのけた。

 実のところ、覚醒剤で突然死するケースは少なくない。覚醒剤が効いている間は、食事も睡眠も取らない。薬物で己の感覚を狂わせ、ひたすら目の前の何かに没頭し続けさせる。ただし、当然ながら体にはダメージが溜まっていく。

 腹が減る、眠くなるというのは体の自然な反応だ。その反応を覚醒剤で消し、活動を続けていれば、いつか体は限界を迎える。この男のように、体が薬物に耐えきれず突然死してしまうのだ。

 もっとも、当時の大下はそんな事情を知らない。ただただ愕然となっていた。ようやく、事態の深刻さに気づいたのだ。このままでは、自分も犯罪者の仲間入りだ。もはや、普通の人生を歩めない人間になってしまった……。

 そんな大下の前で、鈴原は何事もなかったかのように指示を出す。


「こいつ、バスルームに運ぶよ。だから手伝って」


 そんなことを言ってきたのだ。何をする気だ……と聞くつもりとだったが、鈴原はなおも言ってくる。 


「早くして」


 有無を言わさぬ様子である。大下は、彼の言う通りにするしかなかった。

 酒井が男の両手を持ち、大下が両足を持って運ぶ。男はガリガリに痩せていたが、異様に重たく感じた。ふたりがかりでどうにか運び込んだが、直後に彼女はへたり込んでしまう。わずか数メートル、五十キロあるかないかの人間を運んだだけなのに、フルマラソンを完走したような疲労に襲われていた。

 すると、鈴原はニッコリ笑う。


「ありがとう。後のことは、俺たちに任せて」




 嫌な予感がしたから、大下はすぐにその場から離れた。 

 そのため、後に起きたことを直接見たわけではない。だが、何があったかは知っている。男は、バスルームでバラバラに解体されたのだ。幾つものゴミ袋に詰められ、鈴原と酒井によって運び出されてしまった。

 あの時、バスルームから漂ってきた血の匂いは今も忘れられない。


 ・・・


「本当に、見ていないのですか?」


 工藤は、なおも聞いてくる。だが、これだけは言えなかった。


「見てない……」


 今にも消え入りそうな声で答えた。

 工藤の方は、無言で彼女を見つめる。何もかも見透かすような、鋭い目つきであった。大下は、思わず目をそらす。あれだけは、絶対に知られてはならない。

 それ以前に、あれは鈴原と酒井がやったことだ。自分は何もしていない。

 ややあって、工藤が口を開いた。


「わかりました。念のため言っておきますが、私は私立探偵です。警察ではありません。私の仕事は鈴原健介を探すことであり、犯罪の摘発ではありません。したがって、あなたがどのような罪を犯していようが、それを公の場にて暴く気もありません」


 その声は、先ほどまでとはうって変わって優しい。全てを見抜いているかのようだった。

 大下は、そっと顔を上げた。だが、続けて放たれた言葉に表情が一変する。


「では、質問を変えましょう。鈴原に触れられた時、何か感じませんでしたか?」


 この男、何を聞きたいのだろう。まさか、この後はネットのエロ記事のような話を聞きたいのだろうか。鈴原とのセックスで、どう感じたのか? というようなことを言わせようとしているのか。


「はい?」


 よく聞こえなかったという体を装い、もう一度聞き返してみる。

 工藤は、すぐに察したらしい。ペコリと頭を下げた。


「あっ、すみません。これは性的なものではありません。鈴原に触れられた時、体調に異変がありませしたか?」


「だから、どういうこと?」


「先ほどあなたは、鈴原は喧嘩最強だと聞いたとおっしゃっていましたね。私は、鈴原と実際に喧嘩をした人たちと話をしましたが、口を揃えてこう言っていたのです。彼に触れられた途端、体がおかしくなった……と」


 聞いている大下は唖然となった。工藤が何を言っているのかわからない。理解不能だ。

 しかし、続けて語られた話は驚くべきものだった。


「ある人は、内蔵がキュッと絞め上げられるような感覚に襲われたと言っていました。また、ある人は心臓がバクンと跳ね上がるような感触を覚えたと言っていました。鈴原は、得体の知れない力の持ち主であったことは間違いありません。彼は、その力で数々の喧嘩に勝ってきたのです」


 工藤の話に、大下は背筋が寒くなる……いや、電流が走るような衝撃を感じていた。

 この探偵の言っていることは、普通の人間ならバカバカしいと一蹴しているような内容である。だが、大下にはわかっていた。これは、オカルト系のメディアや陰謀論のようなものではない。彼女自身、鈴原に支配されていたのだ。あれは、単に恋は盲目などという言葉で片付けられるものではない。

 当時はわからなかった。しかし、今ならわかる。あの男は、本物の怪物なのだ。その力で、出会った女を虜にしていった……。


「あなたにも、その力を使った可能性があります。もちろん、具体的なことは言わなくて構いません。ただ、イエスかノーか言うだけで結構ですので、答えてください。鈴原に触れられた時、何か体に異変を感じましたか?」


「イ、イエス」


 そう答えるしかなかった。

 確かに、鈴原に触れられた時の感覚は異様だった。心臓がガクンとか、内臓がギュッとか、そういう感覚はなかった。しかし、今から考えるとおかしくなっていた気はする。

 おそらく、自分の体にも何か異変が起きていたのだ。その異変を感じさせず、気がつくと虜になっている……それが、鈴原の能力なのではないか。工藤と話していて、ようやくわかってきた。

 でなければ、あんな男を好きになるはずがない。


「やはり、そうでしたか。答えづらい質問をして、申し訳ありません」


 工藤は、ペコリと頭を下げた。だが、直後にもっと強烈な質問が放たれる。


「最後に、もうひとつお聞きします。あなたと鈴原が付き合っていた時、妊娠したことはありますか?」


「えっ?」


 ドキリとなった。なぜ、それを知っている? という言葉が出かかる。

 だが、工藤は構わず語り続けている。


「すみません、あなたにとって言いたくないことでしょう。しかし、これは大事なことなんです。もう一度聞きます。あなたと鈴原との間に、子供はいましたか?」


「いたといえば、いた」


 そう、ふたりの間に子供はいた。いたといえば、いた……そんな言い方しか出来ない。

 曖昧な答えにもかかわらず、工藤は頷いた。


「そのことを、鈴原は知っていましたか?」


 何もかも、見透かしているかのような問いだ。いや、予め答えの予想は出来ていて、確認のために大下に質問をしているのではないか……ふと、そんな気がした。


「知ってたよ。というより、言う前にあいつが気づいた」


「鈴原は、どんな反応でした?」


「凄く喜んでた。普段クールなあいつが、その場で踊り出しそうな勢いではしゃいでたよ」


 答える大下の脳裏に、当時の記憶が蘇る。

 鈴原は、本当に嬉しそうな顔をしていた。ノトーリアスのメンバーから密かに恐れられ崇められている男が、目の前で子供のようにはしゃいでいる……その事実が、大下に何とも言えない感情を抱かせた。

 当時は、それが真実の愛なのだと思っていた──


「その子は、どうなりました?」


「堕ろしたよ。鈴原がいきなり姿を消して、連絡も来なくなった。ひとりで育てていける自信もないし、堕ろすしかなかったんだよ」


 それだけではなかった。本音を言うなら、あんな男の子供など産みたくなかったのだ。

 当時の鈴原は、自分を完全に支配していた。おぞましい罪を犯しておきながら、その後も平然と家にやって来る。何を考えているのか、全くわからない。

 そんな怪物のような男であるにもかかわらず、大下は鈴原から離れることが出来なかった。もし、鈴原が姿を消さなかったら……大下は、確実に子供を産んでいただろう。

 そして、今も鈴原の命ずるままになっていたのだろう。さらに恐ろしい犯罪の片棒を担がされていたのかもしれない。

 鈴原が消えてくれて、本当に良かった──


「そうでしたか。大変でしたね」


「今のあたしには、旦那と娘がいるんだよ。平凡な生活だし、嫌なことだって時にはある。けどさ、一応は幸せだって言える人生なんだよ。もう、鈴原みたいな奴とはかかわりたくない」


「そうですね」


 そこで、大下の表情が変わった。


「ねえ、もし鈴原を見つけたら、どうするの?」


「気になりますか?」


「気になるよ。もし、あいつがあたしの人生に踏み込んできたら……そうなったら、あたしはどうすればいい?」


「鈴原をどうするかは、依頼主が決めることです。私の決めることではありません。ただ鈴原は、もう亡くなっている可能性があります。十三年もの間、行方不明になっていれば、そう見るのが自然でしょう。法的にも、七年以上ゆくえがわからない場合は死亡したものと見做しても構わないことになっていますしね」


 その言葉に、大下はくすりと笑った。無論、おかしくて笑ったわけではない。

 この探偵は、何もわかっていない……という思いから生まれた笑いだった。


「悪いけど、あいつは死なないよ。殺されたって、生き返るんじゃないかな」


「彼のことを知ってる人間は、皆そう言っていましたよ」


「そうだろうね」


 大下は頷いた。

 かつての鈴原を知っている人間なら、誰もがそう言うだろう。あの男は、銃で撃たれても死ぬような人間ではない。

 鈴原は、今もどこかで生きているはず。その事実を思い出すと、言いようのない恐怖に襲われるのだ。

 むしろ、死んでいてくれた方がありがたい。


「恐ろしい人だったのですね。もっとも、私の予想が正しければ、仮に生きていたとしても、彼があなたの前に現れることはないでしょう」


「なぜ、そう思うの?」


「確かな根拠はありません。勘です。ただ、私の勘はよく当たりますよ」


 その言葉に、大下は苦笑した。この探偵と会ってから、初めて笑えた。


「あんた、意外と適当なんだね」




 大下が去った後も、工藤はひとり室内に残っていた。

 鈴原の子を孕んでいたのは、これで三人。鈴原は、全員に産むよう言っていた。十七歳の少年が、三人の子持ちになるつもりだったのである。

 いや、工藤の仮説によれば……鈴原の子供は、四人いたかもしれないのだ──


「やはり、鈴原健介で間違いない」


 工藤は、ひとり呟いた。


 ・・・


 その頃……都内に建っているマンションに、怪しげな男らが入っていった。

 彼らは、半グレ集団『真幌会』に所属するチンピラである。前回、工藤と接触したのも、この男たちだ。それなりに趣向を凝らして脅したはずだったが、工藤はビクともしない。よほど度胸があるのか、あるいはこちらをナメているのか。

 いずれにせよ、このままにはしておけない。東野の命を受けた山下は、ふたりの手下を連れ事務所に乗り込んだ。誰もいないのはわかっているし、今はまだ工藤に手を出すつもりはない。

 まずは、無人の事務所を荒らす……そのつもりで、彼らはここに来た。ピッキングでドアの鍵を開け、中に侵入する。

 だが彼らは、入るなり唖然となっていた──


「おい、何だよこれ」


 思わず呟いたのは山下だ。

 部屋の中には、何も置かれていなかった。机や椅子はもちろんのこと、照明器具すら付いていないのだ。無論、生活の匂いもない。

 まるで、不動産屋の用意した空き部屋のようである。


「ここ、本当に事務所なんですかね? 人のいた気配がないですよ」


 ややあって、手下のひとりが言った。続いて、もうひとりが口を開く。


「何にもないですね。どうします?」


 聞かれた山下は、チッと舌打ちした。こんな部屋を荒らしても、何にもならない。


「仕方ねえな。こうなりゃ、工藤を病院送りにするしかねえ」


 言った時だった。手下が、袋に包まれたものを突き出してきた。


「すみません、これどうします?」


 見た途端、山下は思わず舌打ちした。その中には、切り落とした馬の生首……のようなものが入っている。一見すると本物だが、よく似たレプリカだ。警告のため、ここに置いていくつもりだった。

 しかし、これでは意味がない。

 

「仕方ねえ。持って帰れ」


「わかりました」



 



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