矢口の話
コツコツと足音が聞こえてきた。
途端に、矢口はガバっと飛び起きた。ようやく、誰か来てくれたのだ。
彼は、工藤と名乗る何者かの手により、この暗い部屋に閉じ込められてしまった。それから、どのくらいの時間が経ったのだろうか。スマホも腕時計も取り上げられており、確かめる術がない。本人の体感時間では、もう数日は経ったような気がしていた。
その間、わかったことがひとつある。ここは、かつて病院だったのではないだろうか。自分は、凶暴な患者を収容するための部屋に閉じ込められてしまったのかもしれない。
いや、ここが何であるかなど今さらどうでもいい。この部屋に閉じ込められてから、何も食べていないし何も飲んでいない。人が通りかかる気配もないし、車のエンジン音すら聞いていない。このままでは、確実に死んでしまう。
「誰かいるのか!? いるなら助けてくれ!」
あらん限りの声で叫ぶ。だが、扉の向こうにいるはずの者は何も答えない。ただ足音が響くだけだ。
もっとも、その足音は徐々に大きくなっている。つまりは、こちらに近づいているということだ。
「おい! 頼むから出してくれ!」
もう一度、叫んだ。すると、足音はピタリと止まる。
「まだ、丸一日しか経過していませんよ。落ち着いてください」
冷たい声だった。おそらく、先日来た工藤という男だ。
「あんた、工藤さんか?」
「そうです。あなたに、いくつか聞きたいことがあるのですよ。正直に答えてくださいね?」
「わかった。何でも答える」
そう言うしかなかった。今の矢口は完全にまいっていたのだ。監禁されてから飲まず食わず、しかも外の情報は入ってこない。することが何もないし、時間の経過を知ることも出来ない。このままでは気が狂いそうだ。
暇潰しの手段を全て取り上げられ、狭い部屋に監禁される……たったこれだけのことが、人間の精神には恐ろしいダメージを与えるのだ。この事実は、体験したことのない者には理解できないだろう。特に矢口のような遊び好きには、効果が大きい。
今の矢口なら、組の秘密ですらベラベラ喋ってしまうだろう。
「では質問します。あなたは、酒井清人と共に渋谷で違法薬物を売っていましたね?」
「ああ、売ってたよ」
「これは確認ですが……当時、渋谷での薬物売買はあなたたち銀星会が一手に
「そうだ。最初は、俺たち銀星会の人間だけがシャブを売ってたんだ」
矢口が答えた通り、一九九八年の時点では銀星会だけが渋谷の薬物売買を仕切っていたのだ。当時はネットが盛んではなかったため、センター街の裏通りに外国人を立たせていた。もっとも、この外国人はあくまで窓口のような役割である。
薬物が欲しい者は、裏通りに行き道端に立っている怪しげな雰囲気の外国人に接触する。ネタある? というような声をかけるのだ。
言われた外国人は、そっと紙を手渡す。携帯電話の番号が書かれたものだ。その番号に電話すれば、晴れて売人と取り引き出来る……というわけだ。
矢口ら銀星会は、外国人や売人たちを動かしていた。当然ながら、彼らが直接薬物を売ったりはしない。全ては、下の人間に任せている。顔を合わせて取り引きするのも、いざという時に逮捕されるのも下の人間だ。仮に売人が逮捕されたとしても、しょせん彼らは末端の人間である。矢口らにまで捜査の手が及ぶことはない。
「そこに、酒井が割り込んできたわけですが……おかしいですね。当時の酒井は、ただのチンピラだったはずです。そんな人間を、商売に加えるメリットはあったのでしょうか?」
工藤の問いに、矢口は顔をしかめた。ここから先は、誰にも喋ったことのない話だ。墓場まで持っていかねばならない秘密だった。
だが、言わないとここから出られないだろう。この工藤という男は普通ではない。まずは、ここから出るのが最優先だ。
「あの頃、渋谷の商売を仕切ってたのは酒井と俺だよ。確かに、酒井はただのチンピラだ。けどな、あいつのバックには鈴原って奴がいた」
「どういうことです?」
「そ、それは……」
矢口は言い淀んだ。どこから話せばいいのか。また、何を話せばいいのか。あの時、起きたことは自分でも理解不能な事態だった。間近で見たはずなのに、現実とは思えない……そんな出来事だったのだ。鈴原が消えた今となっては、あれは夢だったのかもしれないとさえ思うこともある。
その時、溜息を吐くような音がした。続いて、声が聞こえてくる。
「言わないなら、非常に困ったことになりますよ。このまま私が帰れば、あなたはどうなりますかね?」
「わ、わかった! 言うよ!」
こうなった以上、どんなに信じられない話でも言うしかない。
「俺も、何が起きたのかわからねえんだが……あいつが触れた人間が、みんな死んじまったんだよ」
「死んでしまった? どういうことです?」
声の調子が変わっていた。どうやら、興味を惹かれたらしい。
普段の矢口なら、もっともらしい嘘をつき誤魔化そうとしていたはずだ。しかし、監禁されていることに加えて飲まず食わずの状態である。その嘘を考えるだけの余裕がなかった。
「あの日、俺たちは酒井をシメるつもりだったんだ。あいつが、渋谷で俺たちに断わりもなく勝手に商売してるって聞いてな。事務所に連れ込んで、きっちりと教えてやろうと思ったんだよ」
「商売とは、薬物のことですか?」
「そうだ。俺たちは、酒井を見つけた。その時、横に鈴原もいたんだ。けど、俺たちは気にしてなかった。当時は、オタクっぽい変なガキがいるくらいにしか思ってなかったんだよ。後で警察を呼ばれても面倒だから、ふたりまとめて車に押し込んだ」
「ふたりというのは、酒井と鈴原ですね? 抵抗はしなかったのですか?」
「全然しなかったんだよ。俺たちは、てっきりビビッてるんだと思って散々に言ってやった。けどよ、あいつら平気な顔をしてた。妙に冷静で、不気味だったよ。途中で手錠をかけたんだが、何も言わずされるがままだったよ」
「その後、何が起きたのです?」
ここから先は、誰にも言っていない話である。矢口は、神妙な顔で語りだした。
「あいつらを、事務所に連れ込んだ。その時、急に鈴原が動き出したんだよ。手錠をかけられたまま、そばにいた奴らに触れたんだ。そしたら、立て続けにふたりが倒れた」
「どのように倒れたのですか?」
「いきなり胸を手で押さえて、苦しそうな表情になったんだ。そのまま、バタリと倒れたんだよ」
そう、あれは異常だった。十年以上経った今も、はっきり覚えている。
まず手下のチンピラふたりが、車から鈴原と酒井を降ろした。それから、突き飛ばすようにして事務所に押し込んだのだ。力任せに押され、鈴原と酒井は床に倒れた。そんなふたりを見ながら、矢口は事務所のソファーに座る。
その時、いきなり鈴原が立ち上がった。それを見た手下のひとりが、何やら喚きながら鈴原の襟首を掴む。勝手に動くんじゃねえ、とか何とか言ったことも覚えている。
すると、鈴原の手が動いた。手錠をかけられた両手が、手下の胸に触れた……少なくとも、それしか見えなかった。
直後、手下は仰向けに倒れたのだ。体を震わせながら、胸で両手で押さえ呻いている。突然の出来事に、矢口らは唖然となり何も出来なかった。
そんな中でも、鈴原は動いていた。もうひとりの手下に近づき、軽く触れる……途端に、その手下も倒れた。床の上で、バタバタ痙攣し始めたのだ。
ふたりの動きは、一分も続かなかった。やがて、ピタリと停止する。どちらの顔にも、苦悶の表情が浮かんでいた。
「それを見たあなたは、どうしたのです?」
「わけがわからねえから、俺はその場で突っ立ってたよ。そしたら、奴は俺の前に来て、手錠を外せと言ったんだ」
「で、あなたは言われた通りに外したのですね?」
「あ、ああ。外さないと、俺もやられると思った」
そんなものを目の前で見せられて、拒絶など出来るはずがない。矢口は、震える手で鈴原の手錠を外したのだ。さらに、酒井の手錠も外した。
「まあ、そうなるでしょうね。その後、何が起きました?」
「俺の目の前で、鈴原は倒れてる奴の体をまさぐり、携帯電話を取った。で、いきなり電話をかけたんだよ。後からわかったんだが、あいつは救急車を呼んだんだ」
「救急車?」
「そうだよ。サイレンが聞こえた時、俺はどうしようかと思ったよ。そしたら、鈴原が俺に言ったんだ。話を合わせるんだ。でないと、あいつらと同じ運命を辿るってな」
あの時、矢口は鈴原の目を見た。途端に、思考が停止してしまったのだ──
矢口とて、ヤクザの世界にいる男だ。これまで、いろんな人間を見てきた。業界ではカリスマと言われている大物組長、これまで何人も仕留めてきたプロの殺し屋、戦争帰りの外国人マフィアなどなど……本当に恐ろしい人間が、裏の世界には蠢いている。
だが、鈴原だけは勝手が違っていた。何とも表現のしようがない暗い瞳だった。無理やり例えるなら、深さが数百メートルはある闇に包まれた地割れを覗き込んだ……そんな恐怖を感じたのだ。
以来、矢口は鈴原に逆らえなくなった。あの時のことを思い出すだけで背筋が寒くなるのだ。はっきり言うなら、今も鈴原が怖い。
もっとも、工藤はこちらの不安など気にも留めていないらしい。なおも、細かいところを聞いてきた。
「話というのは?」
「それは、これから話すよ。事務所に救急隊員が入って来たんだが、その時に鈴原は泣き出したんだよ。この人たちが、いきなり倒れた……なんて言ったんだ。俺は、目が点になってたよ。やったのはお前だろうが、ってな」
「倒れたふたりは、結局どうなっていたんですか?」
「死んでたよ。救急隊員が病院に運んでいったけど、意識は戻らなかったって連絡が来た。警察も来ていろいろ聞いてきたけど、すぐに解放されたよ」
「ふたりの死因は何だったのです?」
「急性心臓死だって言ってた。警察も、これは妙だと思って死体を徹底的に調べたらしいけど、体のどこにも外傷がなかった。毒物を飲まされた形跡もない。だから、急性心臓死としか言いようがなかったんだ」
「ということは、鈴原が触れたら心臓が止まったのですね?」
「そうだよ。あいつは、はっきりと言ったわけじゃない。でも、間違いなく鈴原がやったんだよ」
そう、あれは鈴原がやったのだ。理屈ではなく、生物の勘で悟っていた。
同時に、矢口は悟る。この男は、自分ごときが逆らえる人間ではないと──
「その後、どうなったのです?」
「どうにも仕様がねえよ。あんなもん見せられちゃ、何も言えねえ」
「銀星会の人たちには、どう説明したのです?」
「説明なんか、出来るわけねえだろうが。触っただけで心臓が止まったなんて言ったら、俺が病院にぶち込まれるよ。組の人間にも、いきなり心臓麻痺を起こしたそうです、って言い張ったよ」
「なるほど。それもそうですね。で、その後はどうなったのです?」
「俺と奴らは手を組んだんだよ。渋谷で、一緒にドラッグを捌くようになった。酒井は、毎日ネタ食ってたから見てて危なっかしい奴だった。けど、鈴原はしっかりしてたから大丈夫だろうと思ってたんだよ。何より、俺も鈴原には逆らえなかったんだ」
この時を境に、酒井と鈴原が薬物売買に加わるようになったのだ。
とは言っても、このふたりは商売のやり方に口出ししたりはしない。金の配分にも無頓着であった。儲けのほとんどは矢口が受け取っていたが、それについて文句を言われたこともない。
しかも鈴原は、当時の渋谷で最大のチーム『ノトーリアス』に顔が利く。というより、実質的にはリーダーと対等な立場のようなのだ。そうなると、顧客も増える。また、チーマーたちは様々なことに使える。人数を要するような
結果、矢口は渋谷の顔役になったのだ。今にして思えば、あの時が自分の全盛期だった。
「なるほど、よくわかりました」
その声は冷めたものだった。先ほどまでとは声音が違っている。何かが変だ。矢口は、慌てて言った。
「な、なあ、もういいだろ? 俺が知ってることは、全部喋ったよ。だから、出してくれよ」
「申し訳ないですが、それは出来ません」
聞いた瞬間、矢口の顔が歪む。
「なんでだよ! 話したら、出してくれるって言ったじゃねえか!」
「あれは嘘です。あなたを解放する気はありません」
「ちょっと待ってくれよ──」
「あなたは、解放されたら今日のことをベラベラ喋るでしょう。そうなると、いささか面倒なことになるのですよ。なので、あなたをここから出すわけにはいきません」
矢口の言葉を遮り、工藤は淡々と返していく。これは本気なのだ。
ならば、自分は出られないのか──
「そしたら、俺はどうなるんだよ!」
「人間は、三日間飲まず食わずで死ぬそうです。まあ個人差はあるとは思われますが、長くても一週間でしょうね。死ぬまでの間、じっくりと己の人生を振り返ってください。何がいけなかったのかを、よく考えるのです。そうすれば、万が一異世界に転生することが出来た時、今回の反省点をもとにマトモな人生が歩めるでしょう」
芝居の台本を読んでいるかのように、淀みのない口調で工藤は答える。
矢口は、目の前が真っ暗になった。半狂乱で喚き出す──
「ふ、ふざけるなよ……お、俺が消えたら、組の連中が黙ってねえぞ! 必ずお前を探し出す!」
「どうぞ、ご自由に。あなたひとり消えたところで、組には何らダメージがないことはわかっています。あなたの代わりも、いくらでもいます。何の問題もありません。したがって、組の上層部はあなたを探したりしないでしょう」
「な、なあ、待ってくれよ! 俺を生かしておけば、鈴原に会わしてやるよ!」
「それは嘘ですね。では、失礼します」
言った直後、コツコツという音が聞こえてきた。音は、どんどん遠ざかっていく。
矢口は、その場に崩れ落ちた。もう、彼を助ける者はいない。
この暗い部屋の中で、誰にも知られず死んでいくしかないのだ──
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