第3話 茜色の想い

 それから数日が過ぎた。街があの有様であり、探偵としての仕事はまだあまり多くないようで、和太は買ったはいいが読めていなかった本を次々と消化していた。

 幸喜も同様で、守希が家事を手伝うようになった事で負担が減り、暇に飽かして始めた事務所の大掃除も大概終わったため、読書の時間は増加。

 また、守希が合気道やキックボクシングをしていると聞くと、護身の為にと指導を受けるようになり、和太から冷やかされながらも練習に励んでいた。

 守希は出入りしていた出版社が建物の損壊などでしばらく休業になったこと、空白の6日間に関して調べて回りたいが、まだ立ち入り禁止区画や危ない場所が多く、司からあまりあちこち歩き回らないよう釘を刺されていることなど、様々な理由で少しの間仕事は控えており、こちらも事務所にいる時間がほとんど。

 幸喜と分担して家事をし、たまに当てもなく外に出ては、近くをぶらぶらと散歩して帰ってくる。

 そんな守希は幸喜と根っこの部分が似ているのか、それとも似たような苦労をしているからか馬が合い、よく気が利くことやサバサバした性格もあって、和太とも打ち解けてきていた。

 司は相変わらず被災地支援を含め仕事が忙しく、帰りは遅い。疲れて帰ってきては食事、入浴を済ませると酒を飲んで寝る、という社畜生活を送っていた。


 ある日、和太の事務所に厄介になってからバス通勤になっていた司の元に、たまには散歩がてら迎えに行くよ、今日何時ごろに帰れそう?という守希からの連絡があった。

 羽星市は交通網が荒れ果てており、臨時のバスが運行していた。バス停から事務所までは数分。歩くのも億劫とは言え、交通手段が機能しているだけでも有難いとさえ言える状況だった。


 その日の夕方。

 司は疲労も考慮されたお陰か退勤が普段より早く、鮮やかな夕陽に照らされる街を横目に見ながらバスに揺られていた。

 あの事件を引きずっているのは、和太だけではない。司もまた、夕焼けを見て思い出していた。

 朱に照らされ、狂気と絶望に染まった世界で、守希と共に過ごした最後の時の事を。




 ――――守希。私、あいつと一緒に行くから。賭けはあんたの勝ち。あんたもいい男見つけて、ちゃんと幸せになりなさいね。


 戦闘の音が響く司令室の一角、隠れるように建てられたシェルターの入口で。司は最後の戦いに赴く間際、笑顔で守希に告げた。

 炭と化して動かない右腕はだらりと力無くぶら下がったまま、左腕で優しく抱き寄せ、頬を寄せる。

 待ってるからね、と。いつもの司ならきっと大丈夫だと、待ってなさいと言ってくれると、守希は何でもないはずのお願いをしたつもりだった。

 そんな期待とは全く別の、これではまるで、今生の別れのような。

 思いもかけない司の反応に、守希はただ呆然とすることしかできなかった。


「なに、それ……司姉、大丈夫、なんだよね?帰って……くるん、だよね?」


 守希がやっと絞り出した言葉は、ひどく震えていた。


「何言ってんの。あんたさっき言ってくれたでしょ?私が男見つけて出てくんなら、むしろ幸せだって」


「それは――――」


 守希が言うが早いか、司はまた守希を抱きしめる。お互い顔が見えないように、深く、ぎゅっと強く。

 守希の今にも泣き出しそうな顔に、司は耐えられなかった。そして、彼女自身の泣きそうな顔も、守希には見せたくなかった。

 もちろん司にも、そういう意味ではない事は分かっていた。司の胸には、自身の幸せを願ってくれた言葉をこんな風に利用してしまった事に、後悔の念が押し寄せていた。


「ごめんね守希、ずるいこと言っちゃった。でも、今更逃げたりなんて出来ないの。正義の味方とか、柄じゃないんだけどね。それでも手の届く人たちを守れるかもしれないなら、私は……」


 出来るだけ普段通りに、気を抜けば震え、裏返りそうな声を必死で抑え、言葉を紡ぐ司。黙って聞いている守希の身体は小さく震えていた。

 顔は見えないが、司には分かった。守希もまた、声を殺して泣いている事が。

 何も言葉を返さない妹分の身体を抱きしめながら、司はあやす様に優しく頭を撫でる。


「……ほんとに、ずるいよ。そんなのないよ。司姉のばか」


 守希が自分を抱きしめる司の腰にやっとの思いで手を添え、声を絞り出す。普段のはつらつとした声からは想像もつかない、か細くて力のない声。


「司姉いっつもそうだよ……後先考えずに突っ走ってさ。1回決めたら聞かないし、今だって、こんなタイミングでさ。行かないでって言ったって、どうせ聞いてくれないじゃん……」


 自分勝手、わがまま、嘘つき、酒クズ、と。

 消え入りそうな声で司にぽつりぽつりと悪口を呟く守希。震える声に、嗚咽が混じる。司に抱きしめられて行き場なく腰に回した手は、守希の気持ちを伝えるかのように、司の上着の腰元をぎゅっと握っていた。

 反論することもなく、うん、うん、と寂し気な声で相槌を打つ司。ひとしきり悪口を聞き終えた司は寂しさを押し殺すように目を瞑り、大きく息を吐いた。


「うん、ごめん」


 司の口から出たのは謝罪の言葉。その一言を聞くや否や、守希は顔を伏せるようにして、自身を抱きしめていた司を両手で突き放し、少しの沈黙の後、顔を上げてキッと司を睨みつけた。


「ダメだからね、そんなの。帰って来て、また口喧嘩しようよ。私まだまだ言いたいことあるんだからさ、勝手に居なくなったら絶交だからね。だから……しっかりしてよ、司姉」


「守希――――」


 しっかりしてよ。その言葉で、司の心には守希の思いが痛いほど伝わった。不器用だが、と言っているのだ。

 ほどなくして司は気付く。難しく考える必要など無かったのだ。非日常などというものは今となっては存在せず、それは知った瞬間に日常へと変わった。

 それなら、司自身が変わる必要は無い。全て受け入れて、普段通り好きにすればいいだけだった。少なくともここに1人、自分を信じてくれる人が居るのだから。

 暗いもので押し潰されそうになっていた司の心は、ふっと軽くなった。そもそも、これでお別れと決まったわけではない。それならば、司と守希にこんな話は似合わないのだ。


「……ふふ、そっか。らしくなくて、悪かったわね。じゃあ、さっき言ってくれた分の仕返しは覚悟しときなさい」


 司はわしゃわしゃと強く守希の頭を撫でる。その表情には何か吹っ切れたような微笑みが浮かんでいた。それは、守希をいじって遊んでいる時に見せる顔そのものだった。


「うん。いってらっしゃい、司姉」


 涙の跡が消えない顔で、守希はいつものように眩しく笑う。それを見た司の心は、今まで心を覆っていた黒雲が正に掻き消えたように晴れやかだった。


「うん、いってきます。安心して待ってなさい」


 ありがと、と。心の中で呟き、司は駆け出す。灼けるような夕陽の中に聳える異形を消し去り、この悪夢を終わらせる為に。

 それは街のため、ではなく。人々のため、ではなく。大事なもののため、ではなく。ただ、自分自身のために。自分のやりたいことをやると決めた。


「変身!!!」


 高らかに叫ぶ司の瞳には、もう絶望は映っていなかった。






「――――さねぇ――――司姉?」


「えっ?あ、守希……あれ?」


 不意に名前を呼ばれて肩を揺すられ、司はハッとして声の方を向く。視線の先では、守希が不思議そうに司の顔を覗き込んでいた。

 司がもう一度窓の外に目をやると、今ではすっかり見慣れたバス停が。気づかない間に着いていたらしく、司が降りてこないことを不思議に思った守希が運転手に声をかけ、車内まで様子を見に来たようだ。


「もー。ぼーっとしちゃって、どしたの?ほら早く、降りるよ」


 言われるがまま、守希に引っ張られてバスを降りる司。何がなにやらと言った様子の司を他所に、守希は運転手にすみません、と頭を下げる。2人が降りたバスは、すぐに走り去っていった。

 茜色の空か、遠ざかっていくバスか。司がしばらくぼんやりとバスの方を眺めていると、守希が司に声をかける。


「司姉、大丈夫?」


 その声で司は横に立つ守希に視線を移し、大丈夫、と答えて大きく伸びをする。

 それを見て、あははと楽しげに笑う守希。

 なんでもない日常の景色。あの時の司と守希が求めていたものは、確かにここにあった。


「疲れて寝ちゃったりした?声掛けても反応無かったから心配したよー」


「ああ、いや、ちょっとね。色々あるのよ」


 そっかー、色々かぁー、と、深く聞く様子もない守希は、さぁ帰ろ、とくるりと向きを変え歩き出す。嘘や誤魔化しが下手な司だったが、何かあると思っても追求することはない守希の距離感と信頼は心地よかった。


「ありがとね、守希」


 表情も変えずに、司が言う。信頼、迎えに来てくれた事、あの時励ましてくれた事。色々な事に対しての、口をついて出ただけの、なんでもない感謝の言葉。

 しかし、それを聞いた守希は素早く振り返り、驚きと戸惑い、怪訝さが入り交じったような顔で固まってしまった。


「……司姉、大丈夫?まだ寝ぼけてたり?熱とかない?本当に大丈夫?歩ける?あっ、明日お休みだよね、朝起こさないからゆっくり寝ると良いよ」


 勢いよく司の両肩を掴むと、矢継ぎ早に、心底心配そうに、気遣う言葉を口にする守希。

 最初は驚いていたものの、それを聞くにつれて司の表情はしらっとしたものに変わっていく。

 ただありがとうと言っただけで、ここまで心配されるのか、と。眉をひそめ、言おうとするが言葉が出ない。ただ口には出さなくとも、不満は顔にありありと浮かんでいた。


「……はぁ。そうね、確かに……ちょっと疲れちゃったかも」


 面白くなさそうにひとつため息をついた司は、守希の横に立つとその腕にすっと自らの腕を通す。そして、腕を組んだまましなだれかかるようにくっついて、守希の肩に頭を置いた。


「え……どっ、え?つ、司姉、どうしたの……?」


 普段滅多に口に出さない司の弱音と、今まで見たこともなかった、甘えるような仕草。慣れないものを一気にぶつけられ、守希の心臓が跳ねる。

 どぎまぎしながら、どうしていいか分からずあうあうと動揺する守希。その反応を見ることも無く、守希の声に答えるでもなく、司は更に身体を寄せて腕を抱きしめるような体勢になっていた。

 守希の肩に頭を乗せたまま黙っている司。反応出来ずに固まっている守希。

 しばしの沈黙の後、口を開いたのは司だった。


「守希」


 潤んだ眼で守希を見つめる司。数瞬の後もう一度目を伏せ、決心したように守希を真っ直ぐ見やると、司はゆっくりと顔を寄せていく。

 司の左手が守希の右手を優しく握り、やがて、あたふたする守希を気に留めることなく、その唇が守希の耳元に触れるほどに近づくと、司は身を強張らせる守希にそっと囁いた。




 ――――らしくなくて、悪かったわね


「うぇっ?」


 その瞬間、ハッとしたように守希が司の方を向く。司は目を細め、ニヤリと口元を歪めていた。

 守希は知っていた。この顔は、時の顔だ、と。

 守希の武道家としての本能が、考えるよりも疾くその身体を動かす。しかし先程まで強張っていた身体にはいつも程の切れはなく、ましてや彼女の実力をよく知る司がその反射を許すはずもない。司は掴んだ腕を押し上げると同時に右手で肘を極め、肩を上ずらせて固める事で先んじて守希の動きを制した。

 完全にしてやられた守希はならばと片足を引き、姿勢を正して肩が極まるのを防ごうとするが、足を引く間際に崩しを入れられ、不覚にも一瞬姿勢が崩れてしまう。

 その隙が見逃されることはなく、一瞬で守希の手首が捻りあげられる。司は繋いだ左手で右手首を曲げ極めると同時に守希の右脇に左腕を通して前腕で引き付け、上腕で支え腰を浮かせ、身体を制御するために残った右手で肘を抑えて固める。

 合気道では三教連行法、かけられた相手の腕が鎌のような形になるため、鎌手首連行法とも呼ばれる技術である。

 強ばった身体で不意打ちを受け主導権を渡してしまっては、流石の守希も返すことは出来なかった。


「あ痛い痛い痛い痛い!!ちょっ待っ痛い!!司姉何で!?痛い痛い!!司姉!!痛い!!折れる!!ギブギブ!!ごめんってば!!あぁぁぁぁぁぁ!!!!」


 時間にして数秒の攻防。夕陽に照らされる街に、守希の悲鳴が木霊した。







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