女王様に物申す
小石原淳
第1話
主要登場人物名の読み方
井口三枝(いぐちみえ) 蒲生勝夫(がもうかつお) 蒲生信江(のぶえ)
~ ~ ~
蒲生勝夫は、緊張で指先が震えているのに気付いた。こんなことではだめだと思い、左手を添えて震えが収まるのを待つ。
一つ、大きく深呼吸をし、勝夫は改めて指を立てた。ゆっくりと、白く小さなボタンを目指す。四角いボタンに触れると同時に、指先に力を込めた。
“ピン、ポーン”
やや間延びした呼び鈴の音が、玄関先に立っている勝夫の耳にも届く。
ほとんど間をおかず、インターフォンのスピーカーから、女性の声が流れてきた。思っていたよりはずっと心地よい声。
「どちら様?」
勝夫はまた緊張してしまい、ごくりと唾を飲み込んだ。そして口を開く。
「あの、井口さんですか?」
「そうと言えばそうだけど……。表札に書いてあるでしょ?」
勝夫の声で何らかの判断をしたのだろう、相手の女性は小馬鹿にしたような返答をよこしてきた。
「僕、井口さん……井口三枝先生のファンなんです。その、お話を伺いたくて、来たんですが……。えっと、お仕事がお忙しいのでしたら、出直します」
「若そうな声だけど、君、学生?」
「はい」
「中学? 高校?」
「高校一年生です!」
さすがにむっとして、勝夫は声を大きくした。いくら何でも、中学生に間違えられるのとは、心外だ。
「怒らないの。どうやら、君は普通みたいだから、いいわ。今から行くから、ちょっと待ってなさい」
一方的に言うと、インターフォンの声は途絶えた。
勝夫は春先だというのに、額に汗の玉を浮かせていた。門前払いされずに、とにかく、会うことはできる。そういう安堵感から出た汗かもしれない。
玄関のドアが開いた。明るい色の服を着た女性が現れる。
彼女だ。と、勝夫は思った。姉さんの卒業アルバムに二人並んでいた写真があったけど……間違いない。
「あら、真面目に学生服なんか着ちゃって。本当に高校生らしいわね。いいわ。さ、入りなさい」
彼女は勝夫の目の前まで近付くと、そう言って、すぐにまた中に入ろうとする。その足取りは自信にあふれていた。
勝夫は慌てて小走り加減に、相手の背中を追った。
「あ!」
廊下を歩いている途中、いきなり、前を行く井口が叫んだ。そして彼女は立ち止まると振り返り、勝夫の全身をまじまじと見つめてくる。
勝夫は足を止め、
「な、何ですか?」
と聞いた。相手の遠慮のない視線に、それだけ言うのが精一杯だった。
「やっぱりぃ。あなた、K**高校の生徒でしょ?」
「そうです」
勝夫のその返事と共に、相手は笑いながら歩き始めた。右に曲がって、応接間のような部屋に入る。
二人掛けのソファが二つ、向かい合わせに置いてあり、その間にはガラスでできたテーブルがあった。その上には、準備がいいことに、オレンジ色の液体で満たされた背の高いグラスが置いてあった。
ソファの片方に座った勝夫は、この家の主と向かい合う格好となった。目の前にいるのが、一部では推理作家の新女王、クイーン井口とさえ称される井口三枝……。
「知ってる? 私もK**高校なのよ、後輩君」
出迎えてくれたときの口調のまま、井口が言った。
「知っています」
勝夫は硬い口調で答えた。
「だからこそ来たんです。それから僕の名前は『こうはい』じゃありません。蒲生勝夫っていうんです」
「蒲生……」
勝夫が期待していた通りの反応を、相手は示してくれた。それによって勝夫自身、ようやく緊張が解け、リラックスできた。自分が言った言葉の、相手に与えた効果を楽しむ余裕さえできている。
「まさか、この名前を忘れてはいないと思います。珍しい名前ですし」
「君、さっき、ファンだって言っていたのは嘘ね?」
三枝がきつい口調で言ってきた。
「嘘じゃありません。姉と同じ時期、高校の文芸部にいた人が作家デビューしたって聞いたから、興味を持って読ませてもらいました。それ以来、ずっとファンです。デビュー作は『エトセトラに隠された死』で、長編第二作が『キャンペーンガール殺人事件』。この題名、出版社から言ってきたんですか? あか抜けてませんけど」
「……」
「さっき、インターフォンで言ってましたけど……。普通みたいだって、どういうことですか?」
井口三枝に黙っていたままでいられても困るので、勝夫は関係ないところから入ってみた。
「さあね。君みたいな子を普通だって言ったのは、撤回したくなったわ」
「何が普通で、何が普通でないのか、教えてくださいよ」
少しばかりふざけた調子で言うと、井口はゆっくりと口を開いた。
「いいわ。二年ぐらい前だけど、ある推理作家の家に、ファンだと名乗る人が来てね。その先生は気さくな人柄だったから、相手の身分なんかをたいして確かめることもなしにその人を家に上げたのよ。そうしたらいきなり、相手が切りつけてきた。訳が分からないことをわめきながらね。困ったものよ。幸い、その先生は軽いけがですんで、切りつけた方は捕まったけど。あとで警察が取り調べても、襲った動機はすっきりしないまま。つまるところ、その人の頭がおかしかったのかしら。まあ、そんな意味で普通だの、普通じゃないだのって言ってるの」
「僕は普通じゃありませんか?」
勝夫は、なるべく声を低くして言ってみた。あまり迫力は出なかった。
「あなた、信江の何なの?」
にらむような顔の井口。最初の穏やかさはとうに消えていた。
「弟です」
勝夫の答に、井口三枝はちょっと安心したらしい表情になった。グラスを手にし、喉を湿してから、相手は言った。
「信江の弟。そうか、どこかで見たことがある顔だと感じていたけど、一度だけ、会ったことがあるのね。信江のお葬式に行ったけど、あのとき、かしこまっていた小さな子がいたっけ」
「きっと、それが僕です。でも、記憶力がいいんですねえ。やっぱり、作家という職業のせいですか? 僕の方は、井口三枝さんの顔なんて、少しも覚えていなかったという有り様なのに」
「単に、君が幼かっただけよ」
つまらなさそうに答える三枝。彼女はいらいらした様子で続けた。
「それで? いったい、何の用なの?」
「井口三枝デビュー作、『エトセトラに隠された死』について、ちょっと聞きたいことがあるんです」
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