第5話 言葉にできるように
「はぁ…」
ほっと力が抜けて、どさりと体重を預けた先は、鏡の前の椅子だった。
濁流に浸かったはずの靴と服が、日光を当てたようなサラリとした感触に、どこまでが現実だったのか…分からなくなる。
何より、鏡に写った自分を見て驚いた。
ゴワついて膨らんでいた髪とは思えない。
鏡に写った三海は、黒と言うより、赤みを抑えた深い青紫の髪をしていた。
光りの角度で、黒に見えたり青紫に見えたりする毛先を、ふわふわと遊ばせ、まるでベル型に咲く
手入れをしなくなった母の庭にも、毎年咲いていた
三海が出て行くときには、腰まである草に埋もれていた庭で、今年の秋も、青や紫の可憐な花を咲かせていたのだろう…。
帰りたい…。
今まで、そんな事思いもしなかった。
帰った所で、誰もいない。
じゃあ、どうして…帰りたいと思ったのだろう?
昨日まで、生きている事さえ面倒だと思っていたのに。
「おい、屈折した若者。そんなに、この世は生きにくいの?」
「えっ?」
一瞬、誰が、誰に言ったのかさえ理解できなかった。
すると三海の前を、赤いとんぼが、すいっと水平に飛んできたかと思うと、空中停止したのだ。
まさか…トンボが…喋った?
だが季節外れの赤とんぼは、大きな目をグリグリさせたかと思うと、ホバリングをやめて後退し、すっ…と三海の頭上を通り越す。
その先を追いかけて身体ごと振り返ると、そこには、十歳前後とおぼしき少年が三海を睨みつけていた。
どこか人ではない雰囲気を漂わせた少年は、先程のトゲのある声で続ける。
「理解しがたいですね。僕には。欲しいものを、欲しいと言うのに何をためらう? 生きたいという人間の生命力を、なぜもっと爆発させない?」
「困ったアキ坊やね。人は考えなしに行動できない生き物なのよぅ」
戸惑う三海に助け舟をだしたのはセキだ。しかし、浮世離れした少年は返って怒りを露わにする。
「考えなくても、身体が欲するでしょ? どう生きたいか? 何を手に入れたいか? 何が一番大切か? うじうじ悩んで、いったい何が生まれるの?」
少年の怒りに呼応するよう、鼈甲の髪飾りが揺れる。
「何かが変わるのを待った所で、何も変わらなければどうする?!」
すると、三海の横で優雅にティーカップを傾けていたオーナーが優しく笑った。
「立ち止まる事は、悪い事じゃないのよ。全ての思い出を、水に流せるわけじゃない。でもね、考える事まで手放しちゃだめ。どんなにカッコ悪くても、考えて…足掻いて…信じて…その先にキミは、何をしてるの?」
オーナーが、三海を見た。
僕は…何か変わるのを待っていたのだろうか?
母の突然の死。
なぜ、母は死なねばならなかった?
一分。いや、一秒、車が突っ込むタイミングがずれていたら…。
そんな事、考えても過去は変わらない。
それなのに恋しい母の顔も、懐かしい風景も、全てにふたをして生きてきた。
「うっ…」
三海の口から嗚咽が漏れる。
オーナーは、ただ黙って三海が顔を上げるまで待っていた。
「僕…まだ、やりたい事があります」
「ふーん。何を?」
オーナーはいたずらっぽく形の良い眉を上げる。
父親の事をいっさい話さなかった母。
だが、祖父が遺した家と庭で、裕福ではないが幸せだった。
「あの季節の花々が咲き競う庭を…、もう一度、この手で復活させたい」
「ふふ。いいわね。じゃあ、その為には?」
「まずは仕事を探します。今は、地元に帰るお金もないので」
「それなら、一つ解決ね。近くの民謡居酒屋がアルバイトを募集してるわ。歌える子は大歓迎でしょ」
「ええ?! 本当ですか?!」
「あら、あそこ、住み込みOKだったわよねぇ?」
「ええぇ――?!」
ガタン…と、勢いよく立ち上がり、鋭い眼差しを向ける赤毛の少年に気づいて、あわてて座り直す。
「じゃあ、二つ目も解決かしら?」
何もなかったようにオーナーは、
そうして可愛らしく唇をつぼめた仕草は、驚くほど可愛らしい。
生き生きとした表情は、とても幽霊とは思えなかった。
「あの…」
「ん?」
「ありがとうございます! 本当に、本当に、何もかも…」
頭を下げた三海にオーナーは、素晴らしい笑顔で笑った。
まるで冬の日差しを浴びて咲くサザンカのように。
リン!
木目の扉が開いて涼やかな音が店内に響く。
「やるか、やらないかは、キミ自身。動くか、動かないかも、キミ自身。できるか、できないかは…キミの努力よ」
「はい!」
頬が
今、僕はどんな顔をしているのだろう。
ザラザラだった岩肌が、激流で流されたように、三海の心は穏やかだ。
あの、糸を引いて流れるような白糸の川が、目に焼き付いている。
今、やれるべき事をやろう。
今、努力できる事をしよう。
欲しいと思った事を、言葉にできるように自信をつけよう。
見送るオーナーは、やはり誰よりも輝いて見えた。
後から現れた浮世離れの少年は、よくわからない。
だが、どんな人よりも貪欲で、生に満ちたスタッフ達がいる美容室。
お給与を手にしたら、今度はお金を持って行ってもいいだろうか?
でも、きっとお金は受け取らないな。
じゃあ、違うお代を用意しなくちゃ。
サワサワと、レモンの木が風に揺れていた。
寒々とした風に、たわわに実った黄色の果実は、柑橘系の香りでオーナーの労をねぎらう。
「オーナー、僕をもっと早く呼んで下さい」
先程三海に向けていた顔と違い、今にも泣き出しそうな少年に、オーナーは柔らかく笑う。
「…それで、あの人間に伝えなくていいんですか? 母親の死は、事故じゃない」
「あら? そうなの?」
「「オーナー…」」
珍しく、セキと少年のため息がかさなった。
まったく。知っていたから、三海をすくい上げたのでしょうに。
「セキ」
「もう。なあに?」
「あなたのよさこい節、良かったわ!」
「んー! もうっ。ほんと、何があっても、アタシは離れてあげないからね!」
「ふふふ」
セキに爽やかな笑顔を向けたオーナー。
三海の母親の真相を暴く気はないらしい。
いつか、三海が母の死の疑問に気づいた時、自分の力で真相にたどり着ければそれで良い。
『ヨサコ〜イ、ヨサコ〜イ』
そうね。坊やがまた行き詰まったら、どうぞ夜においでなさい。
『ヨサコ〜イ、ヨサコ〜イ』
おわり
美容室には秘密がつきものでございます【伍】 高峠美那 @98seimei
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