第2話 満足できる自分を演出

 母は三年前 突然この世を去った。


『お母さん?』


 病院のベッドに寝かされた母を見た時は、なぜ、そんな所で母が寝ているのかと、頭が追いついてこなかった。


『明日は卒業式ね』


 玄関で靴を履いた三海みうみに向かって、にこやかに見送る母は、化粧をしていなくても充分綺麗だった。


『行ってらっしゃい三海みうみ。気をつけてね』


 何もかもいつも通り。そのはずだった。

 

 綺麗な顔で、満足そうに笑ってさえ見える母の死に顔。


 人間の死って、案外あっけないものなんだな…なんて思いながら、病院から提示された手続きの書類を、言われるがままに淡々と記入した。


 だが、たった十五歳の少年に背負わされた天涯孤独の生活。


 中学の卒業式も、高校の入学式も出席できず、やっと決まっていた高校に通い出したのは五月のはじめ。


 手入れをしなくなった母の庭は、気づけば見る影もない程あれ放題になっていた。


 ぽつり…ぽつり…と咲く花さえ辛くて、悲しくて、喪失感そうしつかんに押しつぶされない為に、必死に自分を哀れんで…そうやって一日一日をやり過ごし、バイトに明け暮れた高校三年間…。


 卒業と同時に地元をすてて都会にでても、三海の人生の何かが変わる事はなかった。


 貯金はあっという間に底をつき、アパートを追い出され、ただ都会の片隅で寒空に耐え死を待つのかと…。


「頑張って生きてきた…とキミが思うなら、今は少しだけ、肩の力を抜いてもいいんじゃない?」


 優しい…この声、誰だっけ? 


「そうねぇ。少なくとも、ここで坊やを非難する声は上がらないわねぇ」


 坊や? 僕のこと?


「辛い出来事も、キレイな思い出も、それは全部過去の事よ。今日からキミは、を演出する為に、何をすべきなのかしらね?」


 満足できる自分…?

 何をすべき…か?

 お金も、住む家もないのに?


「キミは不幸を演じたいの?」

 

 違う!!


「そう。良かったわ」


 何もかも包み込むように、柔らかな笑顔で微笑む女が、眩しい。


 温かい…。


 三海の心に突き刺さっていたナイフが、スルリと抜け落ちるようだった。

 

「わわわっ!」


 ドスン!!


 三海みうみはソファーから転がり落ちて目が覚めた。


 窓辺からの陽射しは、すでに夕方近いとわかる。


 こんなにもゆっくり眠ったのは、何年ぶりだろう。 


「ここは…?」


 綺麗に磨き上げられた鏡と椅子。陳列棚の、ヘアケア商品とカットクロス。


 ワゴンの上には使用されるのを待ちわびるように、くしやハサミが準備されていた。


「美容室?」

 

「あら、起きた?」


「わっ」


 あまりに突然、降って湧いた声に振り向くと、和服問屋の若旦那のような男が、腕を袖に入れながら近づいてきた。


「気分はどう?」


 …そうか。朝方、ここのスタッフ達に拾われたんだったな。


 身構えた三海みうみに、やんわり笑みをつくったセキが、意味ありげな流し目を向けてくる。


 ふと、なぜ夜明け前の寒空の下、彼らは揃って出歩いていたのか…と、疑心が湧いた。


 オレンジ色に染めた店内は、三海とセキの陰影いんえいをぼんやりと浮かばせ、この場所が、現実なのかさえ疑ってしまう。


 夢幻的…とでも言うべきか。

 

 だが、不安定な三海の心を読んだようにセキはクスクス笑った。


「うちはね、れっきとした美容室。夕方から店を開けているのよ」


「夕方から?」


 ちょうどその時、リン!と、涼やかな音と共に外からの風が、もぎたてのレモンの香りを店内に運んだ。


「おはよーございま〜す!」


「あら、早いわね。麗奈れいなちゃん、おはよう」


「わ、もうお客様ですか? すぐに準備しますね!」


「急がなくても大丈夫よ。坊やは、ちょっとワケありだから…ね♡」


 美形のセキが、三海、麗奈、二人それぞれにウインクを投げる。

 心得たとばかりに、麗奈は頷き、三海は慣れないオネエの仕草にドキリと顔を赤らめた。


「はい。えーと、じゃあ、皆さんが揃う前に、私、髪をあらいましょうか?」


「そうねぇ。そうしてあげて」


 三海みうみは、とまどいながらも導かれたシャンプー台で、麗奈に髪を洗われる。


 温かいお湯。気持ちの良いシャンプー。

 麗奈の指が繰り返し、三海の髪を梳く。


「大丈夫ですよ。ここではワケありのお客様はしょっちゅうですから」


 しばらく洗ってさえいなかった三海の髪を、麗奈は何度もお湯で流しては丁寧に洗った。


 三度目程で、ようやくシャンプーの泡が立つようになり、ホッとして次は地肌をマッサージするように洗っていく。


 何があったかは聞かない。

 それでも、何があったのだろう…とは思う。

 薄汚れた服。痩せこけた顎。

 こんなになるまで、頼れる人はいなかったのだろうか。

 寂しかった? 辛かった?

 それでも…あなたはラッキーなんですよ。


 視線を感じた三海は、薄目を開いて麗奈を見た。


「僕、お金ないんです」


「はい。それもこの店ではしょっちゅうですから大丈夫です」


「…もしかして、ここは、ボランティア施設?」


「いえ、とんでもないです! しっかりお代は頂いてますよ」 


「なら、さっきから言ってるけど…僕、お金持ってないから」


「はい。聞きました。確かにお金を支払われるお客様もいらっしゃいますが、ここのお代は、娯楽の提供なんです」


「は? 娯楽の提供って…なに?」


「私もはじめびっくりしましたから、驚くのは当たり前です」


 ちょうど一年前を思い出し、思わず麗奈の顔に笑みが浮かぶ。


 麗奈もやりたい事を見失っていた。何もかも、できない、やらないに、いいわけをつけて。

 そんな時、この美容室に出会ったのだ。


「私は人ですが…ここの皆さんは実体をたもてる特別な幽霊さんなんです」


「はいぃ?!」


「別に皆さん隠していないので、そんなに気にしなくて大丈夫ですが」


 幽霊? みんな?


「あ、あの美人のオーナーさんも? オネエのお兄さんも?」


「そうです」


「じ、じゃあ…僕も?」


 不安を訴える三海に、麗奈はオーナー仕込の笑顔でにっこり笑った。




 



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