もしもし才野です

島丘

もしもし才野です

「もしもし才野です」


 自分はイカれているのやもしれないと正しく正気を疑えたのは最初の一月だけで、後はもう自分はそういう生き物だとばかりに決まって電話をかけていた。


 午前二時二十一分になると俺は決まって電話の前に立ち、今や目を瞑っても誤ることのない番号を順に押す。きっかり二コールのあとに電話は繋がった。


 始まりはもちろん俺からで電話の挨拶に馴染み深い「申し申し」と口を開くが、その後に続く才野という名字は俺のものではない。母親の旧姓だとか十年来の友人だとか忘れられない初恋の少女のものでもない。

 俺の本当の名字は生江といって、才野とは欠片すら合わぬ名前なのだ。


 ではなぜ才野と名乗っているのかというとこれがさっぱりわからない。

 このマンションに越してから、まだ荷解きも終えてない一夜目より始まったこの寄行は、他ならぬ俺自身の行いとはいえ、何か目に見えない第三者に強要されたものだということは想像に難くなかった。


 この部屋は事故物件だ。だから駅から徒歩五分圏内でありながらも家賃はうんと安い。生来霊など見たことも聞いたこともない俺は、出れるものなら出てみろと霊感なしゆえの煽りと少しの期待を込めてこの部屋に越してきた。


 引っ越して早三ヶ月。未だに霊を見たことも聞いたこともない。代わりに毎晩、決まって俺はどこぞの誰かに顔も知らぬ何者かの名字を名乗るために電話をかけている。


 もしもし才野です。

 その後に続く言葉はない。それきりだ。


 相手も電話に出こそすれ何も言わず、十秒ほど経てばあっさり切れる。

 その日もまたしばらくもしない内に電話は切れ、ツーツーと無愛想な機械音が耳に届いてきた。受話器を下ろし、しばらくその場に立ち尽くす。カッチカッチと時計の音がうるさい。


 その場で地団駄を踏みたくなったが、何とか押しとどまった。以前我慢しきれず暴れ回ったところ、右隣の部屋からドンっと壁を叩かれ、左隣からは「うるせぇぞ!」と怒鳴られた。さらに翌日大家より、こういうクレームが届いているのだと注意された。


 はい、はいと肩を落として頷く俺に、大家は不愉快に思うどころか憐れみの目を向けてきた。

 この部屋に越してきた人は全員そうなるのだと教えられ、続けてどんな怪奇現象が起きるのかと尋ねられた。

 これが例えば髪の長い女の霊がクローゼットに立っていたり、そこかしこからラップ音がしようものなら意気揚々と語れるものを。

 まさか毎晩知らぬ番号に電話をかけて知らぬ名字を名乗っているのですとは言えない。お前の頭がおかしくなったのかと疑われるやもしれないのだ。


 だから俺は何も言わずに、「大丈夫ですよ」と答えになっていない返事だけを返した。大家は腕を組んで、皆きまって教えてくれないと嘆いている。同じ心境だったのだろう。

 以前の住人が誰かは知らないが、毎晩電話をかける相手と異なり、人間であることは確かなはずだ。いつか一杯やりたいものだと無責任でふわふわとした願望を胸に部屋へと戻った。


 ちょうど右隣の部屋から住人が出てくるところだった。髪の短い暗そうな女性だ。目が合うやぺこりと会釈だけして足早に去っていく。この人が昨日壁を叩いたと思えなかったが、友人や彼氏が来ていたのかもしれない。


 俺もまた部屋に入ろうとドアノブを握るも、鍵を閉めていたことに気付きポケットを漁った。色の剥がれた茶色いくまのキーホルダーが鍵に当たってガチャガチャと音を立てる。黒目も白目もなくなったくまは見ようによっては無惨なものだが、経年劣化という明確な理由がある以上怯える必要もない。


 部屋は暗かった。明かりを消していたから当然なのだが、それにしたって暗すぎる。

 カーテンを開けても、自然光を遮断するべく漂う厚い雲によって光はちっとも入ってきやしない。

 窓を開けると、遠くで聞こえていたサイレンの音が少し大きくなった。再び閉める。毛玉だらけの灰色の靴下を脱いで放り投げると、起きたときと変わらぬ様子のベッドに寝転がった。


 もう掃除も洗濯も随分していないせいで、室内は埃っぽく、シーツには短い毛がいくつも落ちている。

 仰向けに寝転がり枕を両手の上に乗せ、上に飛ばしてキャッチ。そういう意味のないことを繰り返しているときだけが、俺の心に安らぎを与えてくれた。けれどそれも長続きはしない。

 数分もしない内に手は痺れ、空中へと放り投げられた枕は顔面にぶわり落ちてきた。黴臭いそれを床に投げ捨てる。何もかもが嫌になっていた。


 時計を見る。まだ午後の一時にもなっていない。電話をかけるまでにはまだまだだ。

 最近はもう、電話をかけないように覚悟を決めることよりも、電話をかけるまでの時間をどう潰そうかということばかり考えるようになっていた。

 それをおかしいと思うことはできても、ではやめにしようという気にはなれない。他人に相談する気も起きず、最近はひたすら家にこもり、電話をかけるまでの時間を待っていた。


 バイトにも大学にも行かず、友人や親からの連絡にも応えない。不審に思った友人が家を訪ねてきたこともあったが、そのときは何でもないように招き入れた。

 人と話すことが億劫になったわけでも、人との関わりを断絶したいわけでもない。ただ電話をかけたいだけの俺は、実際には会話もできたし通常を装うこともできた。

 さすがに大家のように事情を知っている者からすれば察しがつくのだろうが、久方ぶりに会った友人などは体調不良の一言で納得してくれるのだ。


 そうして部屋に籠もり続けて三ヶ月。最近は飯どころか排泄の回数も減ったが、律儀に電話だけはかけ続けていた。


「もしもし才野です」


 沈黙、停止、機械音。


 俺はまたベッドに寝転び、枕に顔を押し付けて、「ゔううぅぅぅ」と獣のように唸った。

 電話をかけた後はいつもこうやって気が狂うくせに、朝になるとまた電話をかける時間が待ち遠しくなるのだ。これは一種の呪いやもしれぬ。

 恐れながらも行動には移さず、ネットで検索することも他人に相談することもないまま時間だけが過ぎていった。


 ある日家のチャイムが鳴った。ネットで頼んでいた宅配便だろう。最近はもう買い物に出るのも嫌で、もっぱらネットスーパーを利用している。

 いつも外に置くように頼んでいるのだが、担当者が違うのが情報伝達が上手くいっていないのか、その日は家のチャイムが二月ぶりに鳴った。

 家の前に置いてくださいと言うにも、インターホンなどはなくわざわざ玄関まで出向かなければならない。ならば扉を開けても同じだろうと、これまた一月ぶりに外の空気を吸った。


 配達員は若い男性だった。大学生だろうか。高校生にも見える。

 くりくりとした目とウェーブがかった茶色い前髪がいかにも今時の若者らしい。自分とてさほど年齢は変わらないはずだが、この三ヶ月で一気に老け込んだことは鏡と相対する度に実感していた。


 印鑑を押している間、青年は何か言いたげにちらちらと視線を向けてきた。そんなにまずい見た目をしているのだろうか。

 これはもう、次回誰か来たときに誤魔化せないかもしれないなと思いつつ、荷物を受け取る。

 それなりの重さだったため持ち上げ続けることはできず、玄関に置いてしまった。それも上がまちではなく踵の潰れたスニーカーの上に乗せてしまったものだから、更にぺしゃんこになっているやもしれない。

 引きずるように室内に入れると、背後から声をかけられた。


「もしかして、才野さんですか?」


 青年はまだ玄関に立っていた。

 最早自分の名前より親しみ深いその名前を、他人に呼ばれたのは初めてだ。


 俺は後ろを振り返り、どういうことだと尋ねようとした。だが人とろくに話さぬ毎日を送り続けていた弊害で、声の代わりに空咳が出ただけだ。

 青年は「あっ」と今しがた己の失敗に気付いたとばかりに声をあげる。


「いや、すいません。何でだろ、何となくそう思っただけで」


 青年はバツ悪そうに帰っていった。

 ふと思い至り、表の表札を確認する。生江と書かれていた。配達されたばかりの段ボールの宛先も、生江となっている。

 どこをどう見ようと、才野と間違えるはずがない。なのにどうして才野と言ったのか。

 そればかりがわからず、俺はしばらく途方に暮れていた。いつしか電話のことばかり考えるようになり、頭の隅に押しやられたわけだが。


 その日も変わらず電話をかけた。


「もしもし才野です」


 返事はない。

 すぐに電話は切られて、無情な機械音が頭を狂わさんばかりに鳴り響く。

 受話器を下ろし、未だ封も開けていない段ボールを思い切り蹴りつけた。脆弱な足の爪先が痛みを覚えるばかりで、箱は少ししかへこんじゃいない。あんまりだ。俺は才野なのに。違う、生江だ。何を言っているんだ。


 その日は芋虫のように布団に包まって眠った。当たり前のように才野だと思う自分が恐ろしくて、数ヶ月ぶりに涙を流した。夜が明け、朝日を浴びると、やはりもう電話のことしか考えられなくなっていた。

 早く夜にならないだろうか。早く電話をかけたい。早く、早く。


 この部屋に越して半年が過ぎた。こんなに長続きしたのはあなたが初めてよと、大家さんは驚いていた。

 そして俺の変わりようを見て、まるで自分の息子のように心配してくれた。俺はそれすら面倒で、愛想笑いと会釈だけ返して部屋に引っ込んだ。


 最近はカーテンを開けずに一日を過ごしている。日の光を見ると、いつまでも夜が訪れないことが歯痒くて堪らないのだ。

 一度どうしようもなく我慢ができなくて、早く夜になれ、夜になれと、窓を開け放して吠えてしまったことがある。

 当然近隣住民からは苦情が届き、大家は心配し、俺もまたなぜそんなことをしてしまったのかと自分を恥じるばかりだった。

 早く出ていった方がいいと至極まともなことを言われたが、もう二度としないことを約束に住まわせてもらった。ここを出ていくと、才野になれないからだ。

 いや、ならなくていいはずだ。けれどならなければならない。才野に。俺はそう、今はまだ才野ではなく……何だっけ?


 夜が来た。待ちに待った輝かしい夜が。

 訪れし希望の午前二時二十一分。受話器を耳にあて、ボタンを押し、相手が出てくるのを待つ。

 しかしその日はいつもと違った。いつもなら二コール、遅くとも四コール以内に出てくれる相手が、いつまで経っても出ないのだ。


 七、八と回数を重ねたところで、ようやく止まった。しかし相手が出たわけではなく、一辺倒な機械音声で留守番電話に接続しますと言われただけだった。どうしよう、どうしよう、このままじゃ才野になれない。


 発信音の後に、メッセージをどうぞ。ピーーー。


 俺は繰り返した。


「もしもし才野です、才野です、才野です、もしもし、もしもし才野です、才野です」


 メッセージの録音時間が限界を迎えるまで、名乗り続けた。



 おかしいよと、言ったのは友人の明美だった。

 バイト先で知り合った彼女とは、この部屋に越してからも度々連絡を取り合っていた。

 突然バイトをばっくれた俺を心配して、何度も家に来ようかと言ってくれた。その度に断っていたのだが、根負けして住所を教えてしまったのだ。

 変わり果てた俺を見て、明美は言葉を失い、開口一番「おかしいよ」と小声で叫んだ。


「こんなの絶対おかしいって、ねぇ、何があったの? 話してみてよ」


 俺もおかしいと思う。おかしいとは思うけれど、もう何がおかしいのかもよくわからなかった。


 毎日午前二時まで起きているせいで、そのくせ睡眠時間は四時間ほどしかないせいで、目の下にはくっきりと隈が残っている。

 こんな生活を続けたら死んでしまうと思っていたし、やつれた俺を見て明美も同じ危機感を覚えたようだ。


 明美は必死に、俺から話を聞き出そうとしてくれた。それが本当に有り難くて、またじわりと涙腺が緩んだ。泣き始めた俺を見て、明美は殊更優しい声で、辛抱強く俺から話を聞き出そうとしてくれている。

 彼女になら話せるかもしれない。俺は意を決して口を開いた。


「才野です」


 他の言葉は出なかった。明美は唖然としていた。

 違う、違うと首を振って、懸命に他の言葉を吐き出そうとする。


「もしもし才野です、才野です、もしもし、もし、もしもし、才野です、才野です」


 ひいっと悲鳴をあげて明美は逃げていった。閉まった扉を呆然と見つめながら、俺は口を押さえた。そうでもしないと、また名乗ってしまいそうだった。


 夜が来た。

 一度留守番電話に繋がって以来、相手は必ず二コールで出てくるようになった。もう二度と才野と名乗れなくなったらどうしようという不安は、今やなくなっている。


 その日もまたきっちり二コール。才野です、と言う。電話はすぐにでも切られるだろう。その前に言ってやりたいことがあった。


 昼間の一件以来、俺は猛烈に腹を立てていたのだ。なぜ毎日こんなことをしなくてはならないのかと、今更すぎる不満と疑問が、沸騰寸前の水泡のようにふつふつと沸き上がってきた。

 俺は決意した。何としてでもこの疑問をぶつけてやると。もしもし才野です、以外の言葉を喋ってやると。

 勢いよく口を開いた。不思議と恐怖はなかった。


「誰だよあんた!」


 言葉がきけた。才野以外の言葉が、話せた。

 感動のあまりその場に崩れ落ちそうになる体を何とか奮い立たせ、相手の出方を待った。

 実際のところ返事は期待していなかったのだが、予想は外れ、ほとんど間もなく、女性の声が返ってきた。


「あなたこそ、誰?」


 女性の声は奇妙に歪んでいるでも、寒気を生じる恐ろしさを孕むでもない、どこにでもいそうな平凡な声をしていた。


 体の力が一気に抜ける。なんだ、こんな簡単なことだったのか。こんな簡単なことが終わらなかったのか。

 俺はとうとうその場に座り込んだ。伸びたスプリングコードを見下ろして、やっとの思いで返事をする。


「才野です」


 そこでようやく、電話線が繋がっていないことに気付いた。

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