23作品目「あの日、僕は異世界の扉をあけようとしていた」
連坂唯音
あの日、僕は異世界の扉をあけようとしていた
一九九六年の夏、横浜市鶴見区で僕が体験したことを話そう。現在、僕は妻と幸せに暮らしているが、あの日の僕の行動次第ではまったく別の生活を送ることになっていたかもしれない。異世界での暮らしを………。
「あ。バイク盗まれた」
雑貨屋で買い物を終えた僕は、駐車場にとめたはずのバイクがなくなっていることに気づいた。自分への誕生日プレゼントに十五万円で購入した中古のバイクである。鶴見区の治安の悪さに今更どうこう言うつもりはない。ただ、バイクを盗まれたのはこれで三回目になる。一応、盗難届を出すけど、今まで戻ってきた試しがない。
「おまえ、運ねえなぁ。『カワサキ』なんかに乗るからだよ」隣にいる友人Sが言った。
「もうバイク買わね。なあ、今度からお前のバイク貸せよ」
「バカヤロ。俺のはスクーターだ。二人乗りできねえよ」
「俺が壊れるまで使い倒してやるから、その心配はねえ」
当時の高校生だった僕は、学生のヤンキー率七十パーセントの学校に通っていた。僕はそちらの人間ではなかったものの、とんがった性格だったと思う。友人のSは、いわゆる音楽オタクで、スピッツのCDを爆買いするような奴だった。
「おい岡。そういえば『小松みゆき』の写真集を返してくれねえか。この前、お前に貸したやつ」
『岡』とは当時の僕のあだ名だ。『小松みゆき』とは、うちの学校でなぜか毎朝話題になっていたグラビアアイドルのことだ。その写真集を僕は貸してもらっていた。用途は人によって様々だが、僕は写真集の画像をネットに違法アップロードするためだった。
「ああ、家にあるから安心してくれ。明日の登校時間に渡せばいいか?」
「いや、できれば今日、俺の家にきて渡してくれ」
「ぇぇえ、面倒せえな」
「頼むよ」
「分かったって。家に帰ったらすぐ行く。PHS《ピッチ》(当時の安い携帯電話のこと)で連絡するかも」
「おっけー。早く持ってきてくれよ」
僕はそのまま、Sと別れた。そのときの彼は、いたって穏やかな様子だった。
家に帰り、畳の下から写真集を出した。『小松みゆき』が腕を前に組んで、胸を強調している構図の写真だ。畳の下に隠すのは、親に見つからないようにするためだ。
プルルルルとPHSのコール音が鳴る。電話番号は、Sのものだ。電話に出る。
「ねえ、まだ来ないの? 俺の『小松みゆき』はまだ?」
「おまえのじゃないけどね。もう家出るからもう少しの辛抱だ。頑張ってくれ」
「早くしろよな」
電話が切られる。『小松みゆき』の裸体をSがどんな目的に使用しようと、僕には知ったことではない。しかし落ち着きのないSの声を聞いて呆れる僕がいた。
Sのマンションに来た。彼の家の玄関前で足をとめる。念のため、表札を確認してからインターホンを押す。
「おおおああっ。めえっ。おいいい、なんんんんん。殺すぞっ。くあああされれえれえれ」
僕は一瞬自分の耳を疑った。インターホンから鳴り響くのは、日本語と呼べないほどの叫び声だった。Sは興奮しているのか。聞き取れた単語は「殺す」のみ。僕はできるだけ落ち着いた物言いで、
「なあ俺だよ。例のアレ返しにきたよ。大丈夫か?」と言う。
「んまんまんまああああ。おおおし。てめえは殺すっ。まってやがれれれれれええ」
僕は足早に玄関から去った。身の危険を感じたからだ。インターホン越しに伝わるSの剣幕ぶりに、僕は恐怖したのだ。冷静さを保っていたものの、狂乱した人間と対峙するには勇気がいる。ましてや、Sとそこまで仲がよかったわけではないので、とりあえず逃げることにした。
『小松みゆき』は魅力的なグラビアだと思うが、人を狂乱させるほどの力があったのか。Sの言動も含めて、まったく度し難かった。
マンションから去って、たばこを喫っていると電話がかかってきた。Sだ。
「おーい。まだか? 遅くない? はやく持ってきてよー」
Sの声だ。先ほどの言葉遣いは一体なんだったのか。Sは穏やかな口調だった。
「さっき、お前んちのインターホン押したんだけど………」
「え? ぜんぜん気付かなかったな」
「確認しておくけど、お前の家って、201号室だよな?」
「そうだけど」
「そうか、ていうかお前の家に他に誰かいる?」
「俺だけだよ。だったら何なんだよ。『小松みゆき』をはやく返せって」
「お、おう」
電話を切る。僕はマンションでの出来事を思い返していた。部屋番号はあっていたのに、つながったのは別人のようだった。とてもSの言葉遣いとは思えなかった。しかし正真正銘、あれはSの声だった。
マンションの階段を上り、廊下を歩く。立ち止まって、もう一度インターホンを押す。部屋番号も確認済みだ。
「のおおおおおお。めえええっ。いつまえええまあああ。殺す! おおんんんん」
僕は二回目の退場を余儀なくされた。もうだめかもしれないと思った。電話越しの彼と、インターホン越しの彼は別人だった。
マンションから見える彼の家の玄関を、僕は近くのコインパーキングから見張っていた。顔を真っ赤にしたSが金属バットをもって、玄関から登場すると思っていたからだ。そして警察に連絡する準備をしていた。
PHSからコール音が鳴る。Sからだ。
「おい、おまえいつまで待たせんの? はやくしてよー」
「た、頼むから僕を許してくれ。こ、殺すのは勘弁してください。絶対に渡すから、他のグラビアの写真買ってあげますから」
僕は半泣きで、彼に命乞いをした。
その後、彼に直接ブツを渡すことにした。マンションの外で彼と会ったが、いたって彼は穏やかだった。玄関前での出来事を彼に話す気は起きなかった。そのまま、無事にSは「小松みゆき」を受け取り帰宅した。
アラサーになったいまでも、僕はこの事件を鮮明に覚えている。しかし、まったく理解の範疇を超えている。もし玄関をあけていたら誰がいたのか。僕はどうなっていたのか。まったく見当もつかない。あの扉は異世界にでも繋がっていたのかもしれない。もしかしたら、僕は全く意図せず異世界の扉をあけようとしていたのかもしれない。Sは異世界の住人だったのか。
23作品目「あの日、僕は異世界の扉をあけようとしていた」 連坂唯音 @renzaka2023yuine
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