五章 不忘蔵王と蒼極天の神 11
空を覆う暗雲もそこには存在しない。
天蓋のように周囲を覆うのは、ただ何よりも青い大気の色。
人の届く事の無い、空の上の空とは異なる、大地よりも宇宙に近い空の果て。
その星の極地で、彼女は天を仰いでいた。
「ユイガ」
「……」
あたしの声に、しかしユイガは背を向けたまま黙っていた。
「見つけた」
ここまであたしを乗せてきてくれた鷹は、この地面――タイフォンの背に吸い込まれるように消えていった。
「……ここはね。ざおう」
背を向けたまま、天を仰いだまま、ユイガがあたしに語りかける。
「ここは星の空。空の神様が住む、天にあって空では無い蒼極天」
彼女はあたしに語りかけながら、同時にそれは空にかける願いのようでもあった。
「だからね、正義の最後はここなんだ。正義もほら、神様だから」
彼女の声から感情は読み取れない。
それは、いつもの明るく天真爛漫な明るい彼女とは結びつかない声だった。
「知ってたのか……?」
自分が神だと。
自分が神でありながら、タイフォンという神の力を扱う神災だと。
「思い出しちゃった」
くるりとターンをし、長い髪を翻しながらこちらを振り向くユイガ。
「《悪》の事も。ママ――エイピスの事も。みんな、思い出しちゃったんだ」
それでもね。と、彼女は続ける。
「いいかなって思った。ざおーがいて、いるか君がいて、きのみやがいて、ギョクトがいて、ランドーがいて、クラスのみんながいて。みんな楽しくて、みんな……ううん、この街の人たちは、誰も正義の事を怖がったりしないで話しかけてくれて。楽しかったな」
その話をする彼女の笑顔は、それはそれは可愛らしくて、見るものに幸せを与えるようで。
「だけどね。それでもダメだったよ。正義はね、《悪》を望んじゃうんだ。だって、みんなが笑ってくれるのは、話しかけてくれるのは、正義が正義の味方だったからなんだもん」
その話をする彼女の笑顔は、儚くて、手を触れたら消えてしまいそうで。
「ユイガ……それ……」
そんな彼女の姿が時折ブレるのは、あたしの怪我と出血による意識の失調のせいだと思っていた。
けれど。
「うん。もう無理みたい。ママがね、苦しいって。正義がね、ママを殺しすぎたから」
ユイガの姿が、まるでテレビのノイズのように歪む。腕が不可解な方向に捻じ曲がったかと思うと、足が瞬きの一瞬のうちに大気に消え、次の瞬間には再びそこに出現する。
「ざおうは、だから正義の味方をやめさせたかったんだよね。正義が正義の味方をやめれば、ママを殺さずにすむから。だからあんな事を言ったんだよね」
ユイガが笑う。けれど、その笑みも風に散らされるように形を歪めていた。
「ありがとう。ざおう」
けれど、ありがとうと言う彼女の笑顔は、普段の覇気のある笑顔ではなく、何かを諦めたような諦観の笑み。
「それで正義は悩んじゃった。悩んじゃったから……あの子達を助けられなかったんだ」
あたしはそれを、何も言わずに聞いていた。
「あの子達はね、正義が殺したの」
「正義が悪を望んだから、誰よりも、何よりも強い悪を望んだから、正義の味方に負けないような悪を望んだからっっ!」
彼女の気持ちを、確かめるために。
「雷が落ちたんだよ。その雷は子供たちの中に落ちると、そのまま犬みたいな形になって、子供達を殺して回った」
「たすけてって声が聞こえたよ。ばけものーって声も聞こえたかな。それを見ててね。思ったんだ」
「『もう。あの子達は助けられない』って。だからあの子達は殺されたの。正義が悪を望んだから。正義が助ける事を諦めたから」
彼女の口から零れたのは、彼女にはあまりにも似合わない笑みだった。
自分を呪うような、自分を嘲るような笑み。
「正義が辿り着いたとき、もう誰も生きてなかった。そこにあったのは、子供たちだったモノと、正義だけ」
『正義だったんだよ』と、ユイガは言いたくない事を搾り出すように、懺悔をするように唇を動かした。
「それはね。正義だった。正義と同じ形をした悪だったんだ。正義がね、逃げ回る子供たちを、遊ぶように殺して、弄ぶように殺したんだ」
音にならない音を立てて、彼女の姿がひときわ大きく姿を歪める。
「あの悪は正義。あの悪は正義が望んだ正義の姿。あの子は、ママは、正義が望んだ事をいつものようにやっただけ。正義の望む悪の姿になっただけ」
自分が望んだ正義の姿。自分が望む正義の為の悪。
「だからね。正義は正義を殺した。正義は正義の姿をしたママを殺したの」
「正義よりも強くて、正義にも負けない悪は、だけど簡単に消えたよ。いつものように、正義が悪を倒した。正義は悪を殺した」
「いつもと違うのは、ただ正義が悪だっただけ、正義があの子達を殺したという事だけ」
『たったそれだけの違いなんだよ』と、彼女は笑顔でそう言った。
「そうか、たったそれだけか」
「……え?」
ユイガがそこで、初めて笑顔をやめた。
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