五章 不忘蔵王と蒼極天の神 2

「――っっっ!!」

 

 

 背中を地面へ強く打つ痛みと、地面に転がった石か何かに大きく背中を裂かれる痛み。

 だがその痛みを認識する間もなく、怪物の牙があたしの頭に向かって振り下ろされる。

 

 

「こわいっ! こわいこわいこわいこわいぃぃぃ――――っっっっ!」

 

 

 叫びながら、あたしはその顎に無理矢理木の棒をねじ込んだ。

 

 棒を真横にしてつっかえ棒にしながら、必死に怪物に抵抗する。

 

 四肢を地面につけ、あたしに乗りかかり襲い来る怪物。あたしの鼻の数センチ先には嫌な臭いのする牙が並び、怪物の興奮した鼻息が目に当たる。

 

 

「やだ! もうやだ! むりむりむりしんじゃうしんじゃうっっっっ!」

 

 

 誰も助けるものなど居ないそこで、恐怖で飛びそうな意識を必死で保ちながら、あたしは泣き叫ぶ。

 

 あたしの体を組み伏せた怪物の爪が、腕に、足に、ギリギリと食い込み血を滲ませる。

 

 背後から、それを見た彼女の悲鳴があがった。

 

 その時、怪物の涎があたしの頬に当たる感触に気味の悪さを感じながら、あたしは視界の隅にそれを見つけた。

 

 彼女が姉と呼んだ不恰好なぬいぐるみ。それがもぞもぞと動いている。

 あたしは木の棒を支えながら、死にそうな思いをしているその横で、それを捉えた。

 

 子供だ。

 

 

 小さな二匹のおもちゃのような子犬が、彼女が姉と呼んだぬいぐるみをがじがじと齧っていた。

 

 

 その子犬の体は痩せ細っていて、今にも倒れてしまいそうで

 

 

『グォゥゥゥンンッッッッ!』

 

 

 ひときわ大きくあたしを組み伏せていた怪物が鳴く。

 

 怪物が咥えた木を砕く音が聞こえた。その牙があたしの頬に食い込む感触がする。あたしが本気で死を覚悟したその時

 

 

「こんのおおおぉぉぉぉぉおおおっっ!」

 

 

 急に圧しかけられていた重みが無くなった。

 

 

「はっはぁっっ……! ざおー! だいじょうぶっっ!?」

 

 

 ミガサキが渾身のタックルで野犬を突き飛ばしてくれたのだ。

 

 

「たす、た、た、たすかった!」

 

 

 呂律の回らない口をどうにか回し、彼女に手を取られながら身を起こす。

 

 突き飛ばされた野犬はなかなか起き上がらない。それどころか、気のせいか苦しそうな息が聴こえてくる。

 

 

『ゥゥゥウウウウゥゥゥ……』

 

 

 あたしは彼女の手を引き野犬へと背を向け、

 

 

「うん。大丈夫! 姉ちゃんを助けるよっっ!」

 

 

 軒下から外へと足を向けた。

 

 振り向く間際、野犬がふらふらとした足取りで立ち上がる姿が目に映った。

 

 

「……ごめんな」

 

 

 去り際、あたしの口からそんな言葉が自然に漏れた。





「お腹が空いてたんだねー」

 

 

 軒下から出て、陽の光の降り注ぐ神社の境内で、彼女がぬいぐるみを力強く抱き締めながら、満面の笑顔で嬉しそうに笑う。

 

 

「ほそっこい子供がそれを齧ってるのが見えたからね。そんな気がしたんだ」

 

 

 あの後、あたしと彼女は一度神社から出て、ありったけの小遣いを持って商店街にある精肉店へと足を運んだ。

 

 ソーセージやら骨付きカルビやらを、お店の人にお手伝い偉いねーと褒められて(傷だらけのあたし達を見て驚いてはいたけど)むず痒い気持ちになりながら買うと、それを持ってあたし達は再度あの神社の軒下へと向かったのだった。

 

 

「ママは赤ちゃんの為にご飯を持って来ようとして、お姉ちゃんを食べ物と勘違いしちゃったんだね……」

 

 

 ギュっと、ぼろぼろになったぬいぐるみを抱き締めて呟く彼女。

 

 あたし達はその肉をあの子犬達の所へ持っていき、彼等がそちらへ意識を向けている間にぬいぐるみを救い出したのだった。

 

 

「しかし、街中まであんなでっかい犬が出てきて。よく誰にも見つからなかったなぁ」

 

 

 終わってしまえば簡単な事。つまりあのママ犬は、外敵たるあたし達から子供達を守ろうとしていたのだけであり、彼女から見ればあたしたちは餌を食べる子供を脅かす悪者だったのだ。

 

 

「犬さんたち、かわいそうかな……」

 

 

 優しい子だ。

 

 自分の大切なものを傷つけられたのに、それでも、その相手の境遇を知ることで自分の身になって心配する事ができる優しい子。

 

 あたしも死にそうな目にあったけど、それでもこう思える彼女の為に動く事が出来て、彼女に笑顔を取り戻す事が出来たのだから、何も後悔は無い。

 諦めなくて良かった。死ぬかと思ったけど。ほんと。

 

 

「あの犬達はうちの姉ちゃんに言っとくよ。あの人ならどうにかしてくれる。姉ちゃんはあたし以外には優しいんだ」

 

 

 彼女達が、お腹を空かせて人に追い立てられるようなリスクを犯してまで街中まで出てきたという事。

 

 そして今にも死んでしまいそうなぐらいに衰弱していたという話。

 

 きっとあの人なら、あたしなんかには思いもよらない方法で解決してくれる事だろう。あたしは、姉ちゃんのあたしに対する対応以外には全面の信頼を寄せている。

 

 

「ありがとう! すごいねざおー! 正義の味方すごい!」

 

「よせやい」

 

 

 照れくさいったらない。あたしのした事といったら、あのママ犬に襲われて泣き散らした事ぐらいだ。それも結局彼女に助けられちゃったし。

 

 

「ううん! すごいよ! ざおーは私の正義の味方!」

 

 

 正義の味方正義の味方と連呼されるのは悪い気はしないけど、なんかちょっと格好つけた割にはいまいちな最後だったなぁ。主にあたし個人が。

 

 

「でも、ボロボロになっちゃったな。姉さん」

 

 

 あたしは彼女が抱き締めた人形に目をやる。

 人形の手足は所々が裂け、中から綿がはみ出している。目にあたる青いボタンは片方が取れ、かろうじて糸数本によって繋ぎ止められていた。

 

 

「そんなこと無いよ。お姉ちゃんもざおーにありがとうって言ってる!」

 

 

 彼女のその言葉は嘘でもなければ我慢しているわけでもないように思えた。

 傷つけられたのは事実でも、取り戻せないと思っていた《姉》が戻ってきた事による嬉しさの方が大きいのだろう。

 


「ならいいんだけど。でもなんで姉さんなんだ?」

 

「それはね……」

 

 

 彼女にとって、このぬいぐるみが姉である理由。

 

 それは彼女が生まれる前に、姉も兄も居らず、母親も父親もあまり家に居られない事で彼女が寂しくならないようにと、彼女の母親が彼女の為に作り始めた大事なぬいぐるみ。

 けれど、彼女の母親は仕事で時間がとれず、またあまり裁縫が上手でもなかったのだろう、完成までに実に数年の歳月が掛かった。


 そして、その苦難の末についこの間完成したのが、この《彼女より先に生まれながら、彼女より後に出来た姉》だった。


 きっと彼女の母親は、このぬいぐるみを作るのに長い時間悩みに悩んだのだろう。

 外国人である自分の娘にとって、この日本で友達を作るのは難しい事かもしれない。だから、兄弟も居らず自分達もあまり一緒には居られない娘が、少しでも寂しくならないようにと願いを込めて作られたぬいぐるみ。


 彼女にとってこのぬいぐるみは、自分より後に出来た《妹》でもあり、そして母親の愛情の詰まった何よりも大事な《姉》でもあるのだ。

 

 

「だからね、ママにもパパにも助けてって頼めなかったの。ママが私の為に頑張って作ってくれたから、それをなくしちゃったって知られたくなかったから」

 

 

 きっとそれを知っても彼女のママは笑顔で返してくれたと思うと彼女は言う。

 

 けれど、それはやりたくなかった。自分の為に、ママが長い年月をかけて作ってくれたものだから。

 きっと笑顔で笑ってくれても、ママは悲しい気持ちになるからと。

 

 

「うん。偉いな! ミガサキは!」

 

 

 だからあたしはそう言った。

 彼女の判断はどこも間違っていない。彼女の優しさは、何も間違ってはいない。

 

 

「ならあたしが直す! 任せなって! お裁縫にはちょっとばかし自信があるから!」

 

 

 『ほんとに……?』と、そう言ったあたしに、彼女はよりいっそうの笑顔を向けてくれるのだった。

 

 

「ざおー! すごいすごい! 正義の味方は何でも出来るんだね!」

 

「まーかせなさいって!」

 

 

 あたしの頭の中ではその時、姉ちゃんにとりあえず今日のことを謝ってひっ叩かれて、ぶん殴られて、その後に土下座して頼んで裁縫を教えてもらっている自分の姿が浮かんでいた。

 

 でも良かったんだ。彼女の涙を止める事が出来たから。彼女の笑顔を取り戻す事が出来たから。

 

 その後、無事にというかどうにか必死で彼女の《姉》を直したあたしは、彼女にぬいぐるみを返した。

 

 あたしの血(主に姉ちゃんにぶっ叩かれて)と汗(姉ちゃんに追い立てられて)と涙(姉ちゃんにド厳しい指導を受けながら流した)の結晶ともなったそのぬいぐるみは、あたしが彼女に手渡す間際、あたしにお礼を言っていた気がした。

 『助けてくれてありがとう。正義の味方さん』と。

 ……きっと気のせいだけどね。



 その一週間後、神ヶ崎イルカは引っ越していった。


 あたしは泣いた。別れたくないから。


 彼女も泣いていた。きっと別れたくないから。


 去り行く間際。彼女は彼女の姉を抱き締めながら言った。


 『ざおー。ざおーは私の友達。私の一番の友達。そして、私にとって一番の正義の味方だよ』と。


 


 ● ……recollect end


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