五章 不忘蔵王と蒼極天の神 1



《あなたが思う正義の味方とは?》


『……もう少しで見えそうだね。あたしも、やっぱりまだまだ夢見る子供なんだなぁ』



 

● recollect

 

 


 彼女の姉を追って、あたしは街の外れにある山の入り口に訪れていた。

 

 目の前には目もくらむような段数の石造の階段がそびえ、その周囲を鬱蒼とした森が囲っている。

 

 

「お姉さんが連れてかれたのって、この上なんだよね?」

 

「……うん。私、ずっと追いかけて、それで……」

 

 

 ハンカチで拭っても、まだ彼女の目には涙が見え隠れしている。

 

 その言葉に間違いはないのだろう。


 彼女は言った。あたしにお姉さんを紹介したくて、いつもの時間よりも更に前に姉と共にあの公園を訪れていた彼女は、そこでお姉さんを連れ去られ、それを必死に追った末にここへと辿り着いたと。

 

 そして一人で姉を連れ去った犯人と戦い、体を傷だらけにし、それでも姉を助ける事が出来ず、一人あたしの待つ公園へと戻ってきたと。

 しかし、それにしてはこの場所は不可解だ。確かこの先には、大きな寺があるだけのはずなのだが……。

 

 

「やっぱり、お父さんやお母さんに言った方がいい。あたし達みたいな子供だけじゃ危ない。それこそあたしの姉ちゃんなら、相手が誰だろうとぶっ倒してくれるから」

 

 

 その時のあたしは、彼女の姉を連れ去り、彼女を傷つけ涙を流させた犯人に、煮えたぎるような怒りを向ける一方で、その年の子供にしては妙に冷静な思考をしていた。

 きっとこれは性格なのだろう。事を急いて失敗する可能性の高い選択肢を選ぶよりも、より成功率の高い方を確実に取ろうとする可愛げの無い子供。

 

 

「だめ。だめなの。ぱぱにもままにもいえないの。おねがい、助けてざおうっっ!」

 

 

 けれど、そう言うと彼女は先ほどよりも更に苦しそうに泣いた。

 

 だから、あたしにはもうそれを強要する事は出来なかった。あたしが何よりも見たくない、彼女の涙をこれ以上流させないためにも。

 

 

「……わかった」

 

 

 そう、あたしが初めて正義の味方になったのは、彼女の涙を止める為だったのだ。


 




 

「むり」

 

 

 正義の味方のあたしは、その彼女の姉を連れ去った犯人を見て迅速に諦めた。

 

 暗闇の中でもギラギラと光る銀色の目。

 

 僅かに射し込む陽光を受けて白く輝く牙と爪は、あたしの皮膚ぐらい簡単に突き破れる鋭さを持っている。

 その体はあたしの体より少し大きいぐらい。けれど、普段街中で見かける彼らに比べれば、明らかに大きい。

 

 

『グルルルゥゥゥゥゥ……』

 

 

 威嚇するように吐き出される唸り声だけで、あたしの小さい肝っ玉がすぐにこの場から逃げろと警告してくる。

 

 階段の上に作られた神社の軒下。その暗闇の中に存在するその黒い生き物は。

 

 

「おねがい! お姉ちゃんをたすけてっ……!」

 

 

 一匹の大きな野犬だった。

 

 あたしと彼女が身を屈めればなんとか入れる高さの軒下。その暗闇に支配された空間で、あたし達とそいつは、三メートル程の距離を置いて対峙していた。

 

 幸いそいつはまだ襲ってこない。襲ってこないが、しかし襲われたらひとたまりも無いだろう。

 

 普通の大人だって怖がってあんなものと戦おうなどとは思わない。

 武器を持っていたって、人間よりも速く鋭い牙と爪を持った獣だ。戦って勝つのは難しい。まして、まだ小学生のあたし達にとっては、それはもはや絵物語に出てくる怪物以上に恐ろしかった。 

 

 そのあたしから見れば巨獣と言っても語弊の無い野犬の足元には、あたしの頭より少し大きいぐらいの不恰好な金色の髪をしたぬいぐるみが、泥だらけになって転がっていた。

 

 

「お姉ちゃんってもしかして……」

 

「お姉ちゃん……! お姉ちゃんっっ……!」

 

 

 野犬の事など眼中にないように、その人形のもとへと駆け出そうとする彼女。

 

 あたしは彼女の腕を掴み、それを必死で押し止める。

 

 

「待てって! あんなの相手に敵うわけない!」

 

「離してっっ! 離してようっっっっ! お姉ちゃんっっ! おねえちゃんっっっっ!!」


 

 そのあたしの掴んだ手を必死で振り解こうとする彼女。彼女はあの人形のために泥だらけになって、傷を負って、あんな怪物と戦って――。

 

 

「よせ! ……あたしが行くから。正義の味方が助けるから!」

 

 

 あたしにとって、あれがどんなものかは解らない。

 

 少しお小遣いを溜めれば、そこらへんのデパートでももっとしっかりとしたものが買えるだろう。あたしにとってはその程度のモノでしかなく、正直、彼女が《姉》と呼びそこまで大切にしようとする理由は全く解らない。


 解らないが。


 けれど、あれは彼女にとっての姉。あれは彼女にとって、自分が傷つけられる事よりも大事なもの。彼女の涙を、笑顔に戻せるもの。

 

 

「せいぎのみかた……?」

 

 

 今にも駆け出そうとしていた彼女が、あたしの顔を不思議そうに見る。

 

 

「ああ。正義の味方。悪を倒し正義を守り、みんなを笑顔に出来る人。姉ちゃんは、あたしが助ける!」

 

 

 だからこれ以上傷つく必要は無い。後はあたしに任せろと。彼女の目を見てあたしは言った。



 膝の震えが止まらない。

 

 心臓が普段の倍以上のスピードでドクドクと唸りをあげる音がする。

 

 近くの森から拾ってきた少し太めの木の枝を武器に、あたしはその怪物へと向かっていった。

 

 怪物との距離はもう一メートル半ほどしかない、ミガサキには先ほどよりも更に遠くの場所に離れてもらっている。

 彼女はもう傷だらけな上、姉を奪われた事で冷静な判断が出来ない。彼女は戦えない。だからあたしがコイツをどうにかしなくちゃ。正義の味方のあたしが彼女の涙を止めるんだ。

 

 

『グルオオオウゥッッッッ!』

 

 

「ッッ……!」

 

 

 怪物の咆哮に尻餅をつく。

 

 怖い恐い無理だ逃げたい助けて誰かダレカタスケテ。

 

 考えうる限りの恐怖があたしの体を包む。

 

 それでも、後ろには彼女が居る。

 あたしの恐怖なんてそんなもの。恐いけど逃げたいけどもう無理だけど、それでも、あたしが彼女の笑顔を取り戻すんだ。

 

 じりじりと少しずつ怪物との距離を詰める。

 怪物が一歩、あたしの方へと歩みを進めた。

 

 あたしが木の枝を構え、怪物へのけん制の為に振りかぶろうとし――

 


「が、はっっ――――っっ!」

 

 

 怪物の姿が掻き消えたかと思ったその時、あたしの腹に強烈な痛みが走った。

 

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