四章 不忘蔵王と少女の笑顔 5
「……」
あたしが最後に言えなかった言葉を彼女は理解したのだろう、イルカは真っ直ぐにあたしを見据え
「……殺している」
なに?
「……姉さんは人を殺して、その血を、肉を食べている」
待て。そんなはずは無いだろう。だって、先ほど彼女が食べていたのは
「……そう思ってる。自分は、人を殺している。自分が生きる為に人を殺し、食べていると、姉さんはっ、そう勘違いしている……っっ!」
それは始めて聞いたイルカの叫びだった。
「……どういうことだ?」
「……姉さんは」
イルカはそれから、神ヶ崎ユイガと自分の姉についてあたしに話してくれた。
「……姉さんは、ボクの神。それはエジプトにおいて、《陽蝕》と呼ばれたエイピスという悪神。悪神エイピスは本来、エジプトの民を贄とし、人々を脅かす悪の象徴だった。その巨体をもって幾人もの神を打ち滅ぼし、数多の人々を殺し、幾多の大地を蹂躙した」
「象徴は混沌。役割は太陽を落とす蛇。生産を否定し、破壊を肯定する闇の化身。でも、ボクがエイピスに望んだのは《正義の味方》で、そして《姉さん》が望んでいたのもまた《正義の味方》だった」
「エイピスはボクと姉さんの望みを叶える為に、姉さんと同化し、《姉さんの記憶を持った一人の人間》――ユイガを生み出した。……もともとエイピスは、いくつもの神の起源として伝えられる、神が生まれる前の神。その中には人を救済する力を持つとされる、本来のエイピスとは正反対の属性を持つ神も存在した」
「だから、エイピスにとってそれは難しくなかった。エイピスは、ユイガが望む正義――自分が望む正義を行使させる為、更に新たな神を作り出し、それをユイガの神とする事で、ユイガを《正義の味方としての力を行使することが出来る人間》にした」
イルカが静かに言葉を紡ぐ。
あたしは彼女の言葉のひとつひとつに意識を向け、その告白に意識を向けていた。
「……そうしてエイピスは、《彼女の記憶と自分の理性》を、神ヶ崎ユイガという人間の形にし、《自分の持つ力の大部分》を、タイフォンという神として生み出した。そしてその神をユイガに従えさせる事で彼女を正義の味方にした。エイピスは力を持つ《神》と、その力を行使する《人間》を作る事でボク達の望みを叶えた」
「エイピスもそれでいいと思っていた。自分は悪神だが、悪神だからと言って必ずしも人を殺し、貪ることがしたいわけではなかったから。大地を枯らし、海を燃やす事がしたいわけではなかったから」
「知識と力の大部分をユイガとタイフォンに渡したエイピスの最後の欠片は、神であり、悪神でありながら、力を持たないただの白蛇として生まれた」
「だけどユイガの《正義》は、力を持つだけでは足らなかった。彼女は自分が正義の味方である為に《悪》を必要とした。彼女の望みはエイピスの望み。エイピスの最後の欠片は、彼女の望みを叶える為に、自らの望みを叶える為に、《悪》という獣となった。獣の正体を知らないユイガは、ずっと、自分を襲ってくる獣を何の疑問も無く殺している。ユイガにとって、獣は自分を襲い人の平和を脅かす敵だから。《正義の味方》である彼女にとって、それに何の抵抗もなかった」
「それがユイガと悪。それがボクの神。ユイガは正義の為に、自分の分身を、エイピスと言う悪を殺し続けている。悪を殺す事が、自分を殺す事だと言う事に気づく事も無く」
それが、イルカが語った《彼女》の話だった。
「……ユイガによって殺され続けるエイピスに、力は殆ど残っていない。生来悪神であるエイピスにとって、人を殺し、人を貪る事は自分を神として存在を維持する為に大きな意味を持つが、ユイガが望む《人を傷つけない悪》である事は、エイピスの存在の否定にこそなれ、彼女の力の維持には意味を持たない」
それが、イルカが語った自らの《神》の話だった。
「……だからエイピスは、人を殺し、人を食べている。……そう、思い込んでいる。そう思い込む事で、自分の存在をどうにか維持している」
彼女は顔を伏せ、それをあたしに見られまいとしている。……それが、彼女がこれまでどれだけ悩み、苦しんできたかを表していると言ってもいい。
「……今までここに居た《悪》は、ユイガの体にエイピスが戻った事で現われたボクの姉さん。それは、本当のユイガ。それがエイピスと同化した《彼女》」
イルカの背後に聳える満月に雲がかかり、教室内に影を落とす。
彼女の話は、つまりこういう事だ。
イルカの神、悪神エイピス。そしてイルカと《彼女》の望みによって、《彼女》と同化したエイピスが生み出した分身が、あの神ヶ崎ユイガと浮遊城タイフォン。
《彼女》の娘であり分身でもあるユイガは、《彼女》の望みを叶える為に《正義の味方》となった。神ヶ崎ユイガは、《神に作られた人間》だったのだ。
その正義の味方――ユイガは、しかし敵の居ない世界で敵を求めた。そして作られた敵が《悪》。そしてその悪は、エイピスの欠片、《彼女》の欠片でもあった。
そう、ユイガが幾度と無く倒してきた《悪》。あの黒犬も、あのシマウマも、そしてユイガがここに来る前まで倒してきたであろう全ての悪は、その全てが作られた《悪》。
ユイガを生み出し、同時にユイガ自身でもあるエイピスが、《ユイガを正義の味方にする為だけに生み出した悪》だったのだ。
ユイガはそれを知らない。それを知らないユイガは、しかし悪を倒している。《自分で自分を殺し続けて》いる。
ユイガとタイフォンに大部分の力を与え、残されたエイピスの欠片でもある白蛇――《悪》は、言うなれば彼女の影。ユイガの知らない自分を知るユイガだ。その白蛇エイピスは、ユイガが望む悪を生み出し続けてきた事でもう力は残っていない。
その白蛇エイピスが本体であるユイガに戻った時だけ、先ほどあたしがここで見たユイガになる。
そう、あの《人を殺し、食べていると錯覚しているユイガ》は、彼女が自分の力を取り戻す為――いや、自分を維持する為に動いている本当のユイガ――《彼女》なんだ。
それはだから、あのユイガの言葉はつまり――
「……ユイガは。《彼女》は。ここに来れば助けてもらえると、助けてくれる人が居ると、そう思っている」
『助けてくれる人が居ると。そう思っている』
いくらあたしだって、その言葉の意味が解らないわけはない。
……さて。
あたしのやらなきゃいけない事もそれなりに見えてきたよ。
「解った。それなりにね。イルカがどれだけユイガの事が、エイピスの事が好きなのか。よくわかった」
「……ボクは、別に」
言いながら、戸惑うような表情を見せるイルカ。
「だって、さっきのユイガ。いや、《彼女》に、《人を食べたと錯覚させる》為に食材を準備したのはイルカでしょ? そこまで消耗して、自分のやってる事も把握できないエイピスが、自分でそんな事をするはずが無い。となると、誰がやっているかなんて考えるまでも無い」
そして、きっとこれが一番大事なのだろう。
「でも、そんな事で誤魔化していてもエイピスが自分を維持する力はもう残り少ない。エイピスが消えてしまう事は、ユイガとタイフォンが消えてしまう事でもある。だからここ、九王ノ宮へ来た。それは何故か? 彼女を助ける手立てがここにあるから」
「……」
こくりと頷くイルカ。
「このまま《悪》を生み出し続けるエイピスには、もう《人を殺して悪神としての力を取り戻す》か《この世界から消えてしまう事》しか残ってないってとこか。余計な事を教えたくないって気持ちはありがたいけどね。でもさ、ちっちゃい頃からの友達にそんな隠し事はやめて欲しいな」
イルカが大きな瞳をより大きくし、あたしの顔を見た。
「……ざおー?」
「思い出したよ。全部。ね」
そう、今まで忘れていた《彼女》の事も思い出した。
あとはただ、あたしが動くだけ。あたしが動いて。彼女を助ける。たったそれだけだ。
「姉ちゃんの事はあたしに任せなさいって。《正義の味方》は困った人を放っておけないんだから」
ニカッっと、歯を見せて笑う。
一人で背負い込んでんじゃない。あたしにだって押し付けろ。自分ばっかり不幸になるんじゃないさ。そんな意味を笑顔に込めて。
さてさて、やっぱり姉ちゃんの予測は当てになりすぎて困っちゃうなー。
なんて、そんな事を思いながら、あたしは不謹慎にも少しだけ楽しみになっていた。
負ける事なんて考えちゃあいけない。失敗を想像するなんてもってのほかだ。
《正義の味方》はどんな時でも《正義の味方》にならなくっちゃだめなんだから。
「……正義の味方」
あたしの言葉に、イルカが《あの時》ぶりの笑顔を返す。
なんだい、無表情なクールビューティーよりも、笑顔の方が百万倍可愛いじゃないか。
そうだよ。昔のように笑ってくれって。そうすりゃ、あたしはきっと。もっともっと強くなれる。そう、初恋の人も悪の神様も、なんでもかんでも救ってやれるぐらいにさ。
……もちろん、本当の正義の味方だって。ね。
「……蔵王。足、震えてる」
「武者ぶるいっさー! こんちくしょー!」
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