四章 不忘蔵王と少女の笑顔 3


「……も……、や……よぅ……」

 

 ずずずず。ぶちゃ。

 

 じゅずずず。ずる。ずずず。

 

「……すけ……ぅ。……ぅやだよぅ……」

 

 だって、その何かを啜る様な声と共に聞こえてくるのは、誰かに助けを求めるような声だったから。


 気づけばあたしの足は、その音の発生源である一年F組の前に辿り着いていた。


 尚も音は断続的に聞こえてくる。

 

 あたしが教室の前に居る事には気づいていないのだろう、声の主は、何度も、何度も、嗚咽を漏らしながら、それでも、何度も、何度も、何かを潰しては、何かを啜っていた。


 くり返すが、その時のあたしは、きっと、心が、麻痺していたんだと、思う。

 

 だって、そのパンドラの箱を、何の躊躇いもなく開けてしまったんだから。


 

 


 


 空間に充満するのは錆びた鉄にも似た匂い。窓の外には鮮やかに照らし出されたまあるく大きな白い満月。

 

 そこに、怪物がいた。

 

 

 窓から差し込む月光に照らされたその姿は、神話に出てくる悪魔さえも凌駕する。それはもはや人間の領域に存在しない生命体。

 

 眩いほどの白銀の髪は、背後に移る巨大な満月よりも尚眩しく光り輝き、その白い裸身を流れるように覆っている。

 

 

 その瞳は血よりも赤いピジョンブラッド。口元から垂れる一筋の赤い液体と共に目を惹くそれは、その怪物の白くきめ細やかな肌にあまりにも不似合いで、そして何よりも美しかった。

 

 

 悪魔が居た。何者よりも醜悪で、何者よりも淫靡で、何者よりも弱い悪魔がそこに居た。

 悪魔はその口元を赤く染め、両手の掌で作られた皿に口をつけて何かを啜っていた。

 

 

「ごめんなさい……。ごめんっ、なさ、い……っ」

 

 

 そして悪魔は謝っていた。謝りながら……泣いていた。

 

 それはきっと、周囲に散らばる《誰か》に対してだろう。眼下に散らばる《何か》に対してだろう。


 悪魔の周りには、《誰か》だったものと、《何か》だったものが、あるいは四肢を引き千切られ、あるいは内臓を掻き出されてそこにあった。

 あたしがドアを開けた事にも気づかず。悪魔はただ、泣いていた。


 

「も……やだっ……!」

 

 

 悪魔がだだをこねる赤子のように頭を振る。拍子に、手の中に溜まっていた液体が零れ落ちた。


 悪魔はそれを、地面にはいつくばって啜る。

 ぺろぺろと、まるで、皿に注がれたミルクを舐める子猫のように。


「たすけて……」


 悪魔は呟く。何かに懇願するように。

 


「たすけてよぅ……。ねえ、たすけて…………」


 

 やがて悪魔は、うな垂れるように下を向く。長い白銀の髪で悪魔の顔が隠れた。

 その中から、嗚咽のような、嘆きのような声が聞こえる。

 


「ねえ、たすけて……。たすけてよぅ……ざおー…………」

 


 そして神ヶ崎ユイガは足を重そうに引きずりながら血の池を歩き、やがて窓の外へと、満月が世界を覆う宵闇の世界へと消えていった。



 


「あはは」

 

 おかしい。可笑しくて仕方が無い。

 

「あはははは」

 

 だから笑おう。笑えばいいんだ。

 

「あはははははははっっ!」

 

 だって夢だし。よく解らない夢を見たときは、とりあえず笑っておけって姉ちゃんが言ってたし!

 

「はっ。あはっ。あはははっっ。あははははははははっっっっ!」

 

 夜の学び舎に誰かの笑い声が響き渡る。

 

 変なの。わざわざ夜中に学校に来て、一人で大笑いする女なんて気色悪いったらありゃしない。少なくともあたしはお近づきになりたくないね。

 

「あぁーーはっはっはああぁぁぁーーがっはっ! ごほっうぇっほっげほっ!」


 息つまった!

 

「あー……うん。ああ可笑しいよ。ああ楽しいねはっはっはー」

 

 よしよし。少し冷静になったね蔵王クン。

 

 さて……。

 

「なぁぁぁあああああ――――んじゃ――! ありゃぁぁぁあああああっっ!」

 

 ちっとも冷静になれないよ! っていうか何なのあれ!? 血飲んでたよ血!

 

 吸血鬼!? バンパイア!? ドラキュラ!? 後ろから読むとアーカードなの!?

 

 いやそこじゃなくて! そこも大事だけどそこら辺に落ちてるなんか肉片ぽいのとか白い骨っぽいのとかそれよりもさっきのユイガなの本当にユイガなのっっ!? 素っ裸でちょっとエロスだったよ抱かれたいぜっっ!

 

「待て! 落ち着けあたしぁいたいっっっっ!」


 自分の頬にグーパン一発。ファイト一発。

 

「お、おーけー兄弟。マジで落ち着いたぜ……」


 頬痛いけど。

 なんか色々ありすぎた上に精神的にも肉体的にも自分痛めつけて疲れてそりゃーハアハアと肩で息もしますよこれって変態さんがちっちゃい子見て興奮してる時の擬音に似てるよねバカ言う余裕ぐらいは生まれましたか?

 

「……でもなぁ」

 

 冷静になった頭は、先ほど目の前で起こっていた事柄を再生していた。

 白磁のような美しい白い肌と、対照的な紅の鮮血が脳内に映し出される。

 

「あの子泣いてたな」

 

 どうしてあの子がこんな場所に居るんだろう?

 

 どうしてあの子があんな事をしていたんだろう?

 

 どうしてあの子は、泣いていたんだろう?

 

 そう思う反面。その疑問に意味が無い事も解っていた。

 

 そんなの、決まっているじゃないか。

 だって、あの子が《食べていたもの》と《飲んでいたもの》が目の前に転がっているんだから。

 

「……蔵王」

 

「ひぃゃぁっふぅぅっっ!」

 

 びっくりした! 今のすごいびっくりしたよ!

 

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