三章 不忘蔵王と黒い獣 7
――何か、その一言には大きな意味がある気がした。
その一言を、信じてはいけない気がした。
「……そんな訳無いだろ。確かに今日のシマウマは、現われてすぐにユイガが城で囲ったから怪我人だって出てないだろうけど、最初の黒犬の時は酷いもんだったぞ、あたし達が居た店の窓ガラスがぶち割れた。あの店はユイガがそのガラスの破片からみんなを守ったからいいものの、他に大怪我してる人が居たっておかしくない」
そうだ、あの悪の咆哮による被害に限って言ったとして、仮にあたし達の居た店の中ではユイガのお陰で怪我人が一人も出ていないと仮定しよう。
だが、他の場所に居た人たちはどうだ、同じ影響を受けていたとしたらただ事じゃ済まなかったはずだ。
二度目の悪、鰐の時は、あの周囲の建物がいくつも半壊していたし、この間の鴉の時に至っては民家の真上に現われていた、どちらもユイガの城が展開するまでにある程度の被害があったはずだ。
「被害が出たのはあくまで建物や車などを含む無機物だけです。そちらの保障と修繕は黄ノ宮で請け負っていますが……。これは間違いのないことです。市内、外の病院も含み調査を行いましたが、間違いなく《悪》によって傷つけられた人間は一人も居ません」
そんなはずはない。と言い返す言葉をあたしは発する事が出来なかった。
考えたくない可能性が、考えてはいけないはずの想像が、頭の中をよぎる。
「《出来過ぎている》んです。この《悪》という存在は」
出来過ぎ。
そう、確かにコイツの言うとおり、これではあまりに出来すぎている。ご都合主義もいい所だ。こんな事をして誰にどんな得があるというのか。誰がどう喜ぶと言うのか。
あたしは最初の黒犬が現われたとき、《悪》はあたしの知らない第三者の神災が作り出したものだと考えていた。敵は、あたしの知らないところに居ると。知らない誰かが、この町を、あるいはユイガを狙っていると。
だが、その前提が違っていたとしたら?
……そして。そしてあたしは一つの解に思い当たる。
しかしあたしはそれでも、その思い当たった解を否定する材料を必死に探し
「待て。怪我人は居る。お前の目の前に居る民間人はあざとかたんこぶとか作ってるし、死にそうな思いも何度もしてるぞ!」
気づけば、水奈の顔からいつもの笑みは消えていた。
「それが二つ目です」
ピッっと、水奈の中指が真っ直ぐに天を指す。
「悪が現われ始めたのは、もう気づいているでしょう。ユイガさんがここに、華桜に来てからなんですよ」
それはあたしが理解していたが、それでもあまり意識したくない言葉だった。
「そして悪が現われるのは、いずれも姫君とユイガさんが居る場所ばかり。貴方たち二人がすぐに認知し、すぐに対処できる場所ばかりに現われるんです。それも昼間のみ、まるで人にその姿を見られたがっているように」
「……何が言いたい」
「僕が話せるのはここまでです」
ぱっと、表情を一変させ降参のポーズのように両手をあげる水奈。
その顔は、いつもの笑みに戻っていた。
「これ以上は僕の口からは言えません。ただ、九王ノ宮の上もその可能性にはもう気づいています。今はまだ対処するか否かの議論に忙しいでしょうが。大人の悪癖に今回は助けられていると言ってもいいでしょう」
「おまえ……っっ!」
ギリギリと、歯が軋むような音が聞こえてくる。気がつけば口の中に血の味が広がっていた。
「ただ、一つ気になることが。上が議論に時間をかけている理由も正しくこれだと思うのですが」
その時のあたしには、もう水奈の言っていることは半分も頭に入っちゃいなかった。
「神災はただ一人の神に愛された者。ですが、彼女には《浮遊城タイフォン》と言う神が既に存在している。二人の神に愛された神災――そんな《人間》は絶対に存在しません。これが、もしかしたら何かの鍵になるのかもしれません」
水奈は至って平然と、その言葉を口にした。
「僕は事実だけを伝えました」
ああ、そうだろうよ。助かったよ。その話は。
知らず、あたしの右手は拳を握り締めていた。それを必死であたしの左手が抑える。
やめろ、こいつに当たるのは間違ってる。こいつはただ、あたしに事実を。ありのまま、今起こっている事を伝えただけだ。
ああ――だけど。だけどあたしは。今のあたしはコイツのにやけた顔をこれ以上見ていられない。
あたしが椅子から腰を浮かせかけたその時。
水奈は、あたしに向けていた視線をあたしの後ろへ向け、いつもの笑みを貼り付けた顔で手をあげた。
「ああ、ユイガさん。こんばんわ」
なにっっ! このタイミングで出てくるのかあの娘はっ!
あたしは勢いよく椅子を押し、立ち上がりながら後ろを振り向き――。
バシャッっと、水がこぼれる様な音と共にあたしに何かが振りかかった。
え、何これポカリくさいよっっ!
「あ、見間違えでした。あとすいません。手が滑りました」
はっはっはーと軽快に笑う水奈の手には、どう見ても手が滑ったようには見えないこちらを向いた缶の口。
「あ、怒りました? もうしわけないぃぃぃいいだだだっっ! 不慮の事故です! 不慮のいたっ! 腕の関節は二つもありまっ! ありませっっ!」
それはもう、盛大にボコらさせていただきました。
■
「わざとらしい事しやがって……」
床に当たる飛沫の音に耳を傾け、あたしは一人ごちていた。
シャワールームに広がる湯気に視界を阻まれながら天井を仰ぎ見る。
相手の思考がある程度推測できてしまうというのも、あれはあれで大変なのかもしれない。
『どうですか? 落ち着きましたか?』じゃねーっつーの。あれじゃあお前は痛い目見ただけじゃんか。
まったく、器用なくせに不器用なヤツだよ。
なんて、そんな考え方だからあいつにツンデレなんて言われるのだ。
……ありがとうよ。気遣ってくれて。――なんて、絶対言ってやんないけど。
蛇口を閉め、シャワールームを出たあたしは、明日からの事を考えながらパジャマに体を通しベッドに横になった。
水奈との話で一つの推測はついた。出来ればそれが答えであって欲しくないけど、それでも、それが答えである事も考えておかなくてはいけない。
何にしろ、あたしはもう一度あの子と話をしなければならない。あの子はきっと、あたしの知らないことを知っている。
あるいは、もしかしたら、彼女はあたしの事を既に知っていたのかもしれない。
《あたしが記憶を無くしている》事を。
だから話さなかった。そう考える事も、出来る。彼女は《あたしの記憶が戻るのを待っていた》と。
鍵はあたしの記憶。あたしの《正義の味方の記憶》。
さあ、話を聞かせてもらうよ。あたしの初恋の人。
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