一章 不忘蔵王と正義のミカタ 7


「とぉうっ!」


 

 窓を一足飛びで飛び越えるユイガ。眼下に広がるは広大なグラウンド。小さく見えるは人差し指程の少年少女達。

 

 肌に感じるのは地球が与える少しの重力と、経験した事の無い大きな浮遊感。

 

 

「あ、落ち――」

 

 

 『る』と言い終わるより先に、あたしは妙な感触を味わった後、再び空へ飛び上がっていた。

 

 まるでトランポリンの上に落ちたような感触。あたしはその見えないトランポリンの上で何度か飛び跳ね続けた後、空の上に浮かんでいた。

 

 何も無い空の上にあたしは立っていた。真下からはグラウンドに点在する幾人もの人々が、あたし達の姿を何事かと見上げている。

 

 

「ふふー。びっくりしたしたー?」

 

 

 その空の上を、ユイガが陽気な声を出しながら歩いてくる。

 

 そうか、そういう事か。

 

 

「これ、タイフォンね」

 

 

 何も無いはずの空の床。足元に触れているそれに目を凝らすと、うっすらと眼下の景色がぼやけていて、そこには弾力のある何かが存在しているのが解る。

 

 校庭を覆うほどの巨大飛行魚。浮遊城タイフォン。今あたしはその背中の上にいるのだ。

 

 

「そだよー! じゃ、いこー!」

 

 

 ユイガの声に呼応するように、巨大魚は悠然とその体を大空へと躍らせた。

 

 うん。で、行くってどこに?

 


 


 

 

 空飛ぶ巨大魚は珍しいのか、地上の人々の頭は皆こちらを向いていた。

 

 

 だが、警察が出てきたりなんだりという事が無い事を考えると、学校から事前に通達でもあったか、あたしの予想以上に神災という存在が《こういうもの》だと広く世間に認知されていたのかどちらかだろう。

 

 ……たぶん前者かな。あの爺さんならそこらへんは抜かりが無さそうだ。

 

 出来ればユイガが来る前にクラスのみんなにも伝えておいて欲しかったけど。

 

 

「で、あれがここら辺じゃ一番大きいスーパー。自炊するなら……あんだけの料理が作れるならするか。なら、あそこで材料集めるのが一番かな」

 

「その隣にあるのがヘリオポリス。なんていうんだろ。総合娯楽施設的なもの? ゲームセンターとかプールとかスポーツジムとか入ってる。他県からのお客さんも来るぐらいに色々あるらしいけど」


「あっちの山は未開発地だね。狸とかも出るらしい。迷い込むと危ないかもだから、気をつけること。ユイガならそんなの関係ないかもしれないけど」

 

「あの辺のマンションが学生寮ね。学生寮って言っても、先生とかも居て、うちの学校とあっちの学校の関係者は殆どあの辺りに住んでる」

 

 

 そんなあたしの説明に、律儀に首肯しながら聞き入るユイガ。

 

 

「他。なんか聞きたい事ある?」

 

 

 いわゆる一つの地元紹介である。

 

 上空ン十メートルを飛行する謎の生命体の背中からという、それなりにレアな状況からではあるが。

 

 

「なつかしいねー」

 

 

 懐かしい、ですか。

 

 ……さて、参ったねこりゃ。

 

 

「ざおーと会ったここも、もうこんなになっちゃったんだね」

 

 

 その声には郷愁の情というよりも、寂しさのような後悔のような不思議な色を感じた。

 

 

「正義はね。ずっと忘れなかったよ。ずっとずっとここを覚えてた。だからね」

 

 

 そう感じたのもつかの間。ユイガは笑顔であたしに向き直り

 

 

「だから正義はここを守りたいんだ。ざおーが居るこの街を守りたい」

 

 

 言いながら、地上の様子をじっと見詰めるユイガ。

 


 彼女は、あたしが彼女の事を覚えていると思っている。そう思って、話している。

 

 あたしは、だからあたしは、そんな彼女を悲しませてはいけない。

 

 ……そして出来る事なら、何よりも早く彼女の記憶を呼び戻すのだ。

 

 

 その為にも、きっとこれが一番大事なことなのだろう。今の彼女がもっとも強く思っていること。昔のあたしとの繋がり。これが見えれば、きっとあたしの記憶は――

 

 

「……なあユイガ。どうしてそんなに正義に拘るのさ?」

 

「……うん」

 

 

 下を見やっていたユイガは、あたしの言葉に対して、顔を上げあたしを真っ直ぐに見つめ返し

 

 

「初めて教えてもらった事だから」

 

 

 そう答えた。

 

 

「ざおうが教えてくれた事だから。正義の味方。正義の味方は困っている人を助けて、悲しむ人の涙を無くしてあげられる人。みんなが笑顔で居る為に必要な人。それを、教えてもらったから」

 

 

 正義のミカタ。

 

 

 なんて陳腐な言葉。なんて稚拙な言葉。なんて……悲しい言葉。

 

 

「ざおうは言ったよね。自分は正義の味方だから、もう大丈夫だって。あの時のざおう、格好良かったな」

 

 

 邪気の無い笑み。ただ一つの自らの信じるものを迷い無く躊躇無く信じきった瞳。

 

 

「正義の味方に助けてもらった正義は、だから自分も正義の味方になりたいなって思ったんだ」

 


 照れくさそうに笑うユイガ。

 

 過去に彼女と出会った時のあたしがそんな事を言っていたと、彼女は言う。

 

 

 なら、あたしはその時本当に《子供》だったんだろう。

 

 現実を知らない子供は、いつか選ばれたヒーローになれると信じている。人に感謝される存在になれると信じている。悪人を罰する力が手に入ると信じている。

 

 そんな子供の誇大妄想。

 

 それが、正義の味方。

 

 

「あのね。ユイガ」

 

 

 それはだから、夢なのだ。


 絶対に成立しない方程式の解法に時間を費やす学者など居ない。

 

 それは、《見つけてしまった》ユイガであっても例外ではない。人を救う力がある。ただそれだけでは正義の味方にはなれない。

 

 

「うん!」

 

 

 そんな彼女は、しかしあたしに何の疑いも持たずに見つめてくる。

 

 

「……やっぱいいや。なんでもない」

 

 

 記憶をなくしたあたしが、彼女に対して何を言うのか。

 

 お前の正義は間違っている。そんなものは存在しないと、不可能な事だと言う気なのか。

 

 自分が言った言葉を、今まで信じてきた彼女の全てを否定するつもりなのか。

 

 

「うん?」

 

 

 少し不思議そうに首をかしげるユイガ。

 

 

 だからこの問題は棚上げだ。あたしはあたしの記憶を呼び覚ませ。全てを思い出して、それでも同じ事を思うのなら、その時はちゃんと言ってあげればいい。

 

 『正義の味方なんて存在しない』と。

 

 

 あたしはそれを守ろう。自分の言葉にぐらいは責任を持つのだ。

 

 そう、あたしが決心したところで。

 

 

「ね、ところでー。ざおーはーそのーー……」

 

 


 少しばかり頭を下げ、あたしの瞳から逃げるように目を動かすユイガ。

 

 ふむ? なんだろう、彼女にしてはらしくもない、少しばかり遠慮気味というか、戸惑うような仕草だが。

 

 

「その、ね」

 

 

 歯切れの悪い言葉は、何かを躊躇するような、聞いてはいけない事を訊ねようとしているような。

 

 

「その、こ、怖くないのかなーって」

 

 

 ――ああ。

 


 なんだ。そんな事か。

 

 

「どうして? なんで怖がるんだ?」

 

「え……?」

 

 

 あたしの答えに、大きな目をさらに大きくするユイガ。

 

 

「う、うんっ!」

 

 

 ぱぁっと、まるで先ほどの仕草がウソのように、周りに花が咲いたような笑みをあたしに返す。

 

 彼女が恐れていたのはあたしがこの神様――タイフォンに恐れを抱くのではという事だ。

 

 

「まあ珍しいものじゃない……事はないけど、あたしもそれなりに慣れてるから」

 

 

 そうである。あの時もそうだったし、神災やってる姉ちゃんだっているあたしには、それほど珍しいものではないのだ。

 

 

「あ、ありがとー!」

 

 

 さて、再び抱きつかれましたよ。

 

 自己主張が過ぎるおっぱいの弾力が、心地よいけどとっても悔しい。

 

 

「あのね。正義は怖かったの。正義がたいふぉんをつれて来て、それで、それでざおーがたいふぉんを怖がったりしないかなって」

 

 

 そう言ったユイガの声は、これ以上ないというぐらいに弾んでいた。

 

 ……ユイガがこう思うのも無理からぬことだ。

 

 

 彼女は実際、上手くやっている。上手くやっているが、しかし本来神災とは人の身にありながら神の力を行使するもの――凶悪な力を持つものである。

 

 科学者の中には人の枠を越えた超越人類だとか言うヤツも居るが、それはつまり『人ではない怪物だ』と言外に言い含めているようなものだ。

 

 

 その神災が使役する《神》は呼んで字の如く神そのもの。

 

 現世の理を操り。人類の計り知れぬ知と力を持つもの。

 

 

 この地球を支配した気になっている《人間》にとって、人智を超える力を持つ《神》とその使役者神災は、信仰と畏怖の対象であると同時に、排他と排斥の対象としても十分だった。 

 

 彼女がここに来る以前、エジプトではその名の通り神のような扱いを受けていたと水奈から聞いたが、そこに至るまでにどれだけの問題があったかは想像に難くない。

 

 

 だからたぶん彼女のセリフは、真実その通りなのだろう。

 

 彼女にとって、自分とタイフォンは人から《恐れられる》か《畏れられる》対象でしかだったのだ。

 

 

「それに、このコだってそんな怖いもんじゃないだろ? ほら、クラスのみんなも最初は怖がってたかも知れないけど、よく見ると可愛いとか言ってたし」

 

 

 ぺしぺしと足元――タイフォンの背中を軽く叩く。

 

 

「う、うんっ! 怖くないよ! ねっ! たいふぉんっ!」

 

 

 だから彼女は笑っていた。笑いながら、少しの涙を流していた。

 

 気のせいか、そのタイフォンからも歓喜のような声が聞こえる。

 

 

「良かったよぅーー!」

 

「いいから、泣くんじゃないの。もう」

 

 

 本当に一喜一憂の激しい、喜怒哀楽に全力全快な正義の味方のお嬢様だ。


 

 

 

「むむっ!」

 

 

 さて、空中ドライブにもそれなりの時間を費やし、昼休みももう残り一〇分程度。

 

 『そろそろ帰らんと色々マズいよー』と切り出そうかと思い出した矢先である。

 

 

 神ヶ崎ユイガは直立した。

 

 

「正義アンテナに反応ありありっ!」

 

 

 意味不明な事をのたまいながら、正義の味方は大きな瞳で眼下を見つめ、

 

 

「正義の味方しゅっぱつしんこーー!」

 

 

 その身を大空へと投げ出した。

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