追走
ひどく蒸し暑い日、私は夜に沈む巨大都市の底で安物の自動車を乗り回していた。日中は常に混みあう片側三車線の大通りも、夜半となると反対車線を対向車がまれに通り過ぎていくだけだ。渋滞のその予感すらも感じ取ることができない快適な路上で、私は目的地に向かってアクセルを踏み続けていた。不思議なことに、平時は何度も捕まる信号に、その折はまったくひっかかることがなかった。私は気分が大きくなって、いつも以上の速度で街を駆けていく。窓を開けて、今宵の風の涼しさを感じながら、留まることのない高揚に任せてアクセルを踏み続けていた。
しかしながら、尋常ではない躁の気分は、次第に私の理性を呼び覚ましていく。明らかに普通ではないし、なんだか脳が煮えたぎったように熱い。それに、おかしなことに、車に乗る前の記憶がどこにもない。私は、自分が何か大きな間違いを犯している気がして鳴らなかった。
大通りを左折する刹那、言葉に化けないよう押さえつけていた不安の塊が、はっきりと形となって脳裏をついた。
私は、酒を飲んだのではないか。
その疑念は、私の中で徐々にではあるが着々と膨張を続けて、やがて確信へと遷移する。飲酒の記憶はない。それでもその確信は、確定事項のように心にどしりと腰を下ろして動かない。
警官に捕まれば恐ろしいことになる。早く車を停めて逃げ出したかったが、いつの間にか車は片側一車線の隧道を走っていて、後ろには一台の車がぴたりとつけている。停車する由を失った私は、脇を流れる大量の冷汗を感じながら、ただひたすらにアクセルを踏み続けるしかない。手汗が止まらずに、ハンドルのグリップも危うくなる。しばらく走り続けても、なぜだろうか、いっこうに隧道を抜けることがない。不安の中で、私はただひたすら、自宅のベッドで寝転ぶ自身の姿を仮構した。その想像の安らかさに憂患の気が少しでも和らぐことを期待したが、ほとんど効果はなかった。
ようやく隧道の終わりが見えた。光が見え、見たことのない街へと抜けた。しかし、ここで道幅は狭まっていき、いまや車一台が通るのにやっとになっていた。後ろには相変わらず車が着いてきている。バックミラーを見ると、黒光りのワンボックスに若い男が乗っている。彼は私が酒を飲んでいることを知っていて、付いてきているのではないだろうか。恐ろしい疑念に体をむしばまれる。その疑念が確信へと変容したのは、ようやく差し掛かった四辻で右折した私の車の後を彼が付けてきたときのことである。ここまで付いてくるのは、彼が私の罪を糾弾しようとしているからに違いない。
いたく狼狽した私は、とにかくどこかで彼をまかなければならないと決意し、次の信号の手前の道で、ウインカーも出さずに左折した。さすがに後ろの車も付いてこれなかったのか、私が入り込んだ細い道には侵入せずに、まっすぐと来た道を抜けていった。
あるいは、最初から私の思い込みであったのかもしれぬ。安堵した私は、ブレーキを徐々に踏み込み、路肩に車体を寄せて一時停車した。それまで張りつめていた緊張の糸は薙がれていた。あたりを見回すと閑静な住宅街のようで、街灯もほとんどなく、静寂としている。ここがどこなのか見当も付かなかったが、いずれどうにかなるだろうと高をくくった。
その時、前方から前照灯が差し込んで、私は目を覆った。それは先ほどまで私を追ってきた車だと、私は合点した。彼は先回りをして前から私を追い込む算段であったのだ。もうだめだと思った。おまえの人生はここで潰えたのだと心のうちで男の低い声がした。だんだんと近づいてくる黒いワンボックスを私はただ見つめていた。すれ違う刹那、運転席の男はこちらを一瞥して、そのまま通り過ぎて行った。
私はしばらく息を止めていたが、恐ろしくなってドアを開けた。もはや車のことはどうでもよかった。とにかく、ここから逃げなければならなかった。見知らぬ街を、自分の脚で駆けていく。遠く向こうでは、かすかに空が白み始めていた。
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