第22話 おぎゃーーーーっ!! おぎゃーーーーーーっ!!

「おぎゃーーーーっ!! おぎゃーーーーーーっ!!」


 分娩室に新生児の大きな泣き声が響いた。


 待合室に座っていた町田和彦は、やっとだというように安堵の表情を浮かべた。なにせ六時間、ズーッとやきもきしていたのだ。


 待ちに待った瞬間、だけど、分娩室の中からお呼びがかからない。

 

 何か非常事態が……。あれこれ考えていると時間が永く感じる。


「お父さん、どうぞお入りください」


 分娩室の扉が開き、看護士さんが声を掛けてきた。時計を見ると泣き声を聞いてから五分も経っていないことに気が付き、和彦は頭を掻きながら、バツが悪そうに看護師さんの後から分娩室に入った。


 裕子はベットの上で上半身を起こして、赤ちゃんを抱いていた。少し疲れた顔をしていたが、生まれてきた子を見る目は慈しみに溢れている。


 そんな裕子は目の端に愛する人を捉えたのか、視線をドアに向けた。


 和彦の顔を見ると、誇らしそうに裕子の笑顔が輝いた。


「あなた、生まれてくれたの! できちゃった婚なんて恥ずかしかったけど、痛いし、辛いし、何でこんなに苦しまなきゃいけないのなんて考えたのに、そんなの全部どっかに行っちゃって、嬉しさだけしかないの!」


(かなわないな……、ここは女性たちの戦場だ。男は取り残されて、オタオタと祈るだけだ。僕にできることは、裕子の笑顔に向かって労いの言葉を掛けることだけだよ)


「お疲れさま、頑張ったね」


「ええっ、子どもを産むのがこんなに大変だったなんて、人類の神秘に触れたかも」


「ああっ、この子はどこから来たんだろうな?」


「そんな生命の神秘を解き明かすのも素敵なんでしょうけど……、男の子なんだから、あなたに与えた宿題の解答が聞きたいんだけど……」


 裕子の瞳には期待が溢れている。


「いいのか? 僕がこの子の名を付けて」


「うん。素敵な名前をお願い」


「うん。ずーっと考えていたんだけど、朔(さく)って名前はどうかな? 漢字で書くと月が逆さになるって書くんだ。

 意味は新月の次の月を朔月と云って、再び満月になる始まりって云う意味なんだ」


「真っ暗闇(どん底)からの始まりか……、私たち夫婦に相応しい名前ね。早く、日本中のみんなが望月の欠けるところがないような人生を謳歌したいわね」


「藤原道長の詠んだ和歌だね。さすが文学部」


「社会に出るとなんの役にも立たない教養だけどね」


「その古典の基礎があったから、あのファッションのアイデアがあったんだよ。ほんと、今の都知事のお陰だよ。その人と同じ名前って云うのが気にかかるんだけど……」


「ううん。良い名前だわ。知事に肖(あやか)るのだって賛成。だって、あの人、なにか他人とは思えなかったの。選挙の時にハローワークで握手しただけなんだけど……」


「裕子もそうのか? 僕も同じ苗字なんで、とても他人には思えなかったよ。(僕の経験した絶望の未来を言い当てて、僕と同じように未来から来たなんて真に迫った演説にシンパシーを感じたなんて裕子には言えないけど……)」


「和彦も!! わたしなんてそれだけじゃないのよ。、この子を前にも一度抱いたことがある気がするの。いえ、もう少し大きい三歳くらいの子だったんだけど……、あなたに会う少し前に不思議なことがあったの。公園で見かけた子が道路に飛び出して、必死になってその子を追いかけて、抱きしめたところに車が突っ込んできて……。


 車は信じられない軌道を描いて電柱にぶつかって……。悲惨な光景に目を背けて、再び目を開けたら、抱いていた子どもも事故を起こした車も消えていて、折れていた電信柱も元通りだし、夢を、白昼夢を見ていたのかって……。

 でも、あれは事実だったにちがいないの。だって、あの時の子供の匂いとこの子の匂いは同じだって、母親の勘が訴えてくるの」


「僕と出会う前にそんなことが……」


 和彦は背中に冷たいものが流れた。裕子が事故に会いそうになったその状況は、僕が死んでこの世界に飛ばされた状況とそっくりじゃないのか?!


 あの時、死んだことで人生をやり直せた?! それはラッキーだったけど、ひき殺しそうになったのが、裕子と朔だったなんて……、裕子と朔に導びかれるように……。死んだ僕の魂はこの世界の僕に憑依した。


 ありえない。神が仕組んだと言われたほうが納得がいく話だ。 絶望しかない未来から希望に溢れた現代に生まれ変わった。きっと神は存在する。


「だとしたら僕は朔に伝えなければならないなあ」

「えっ、なにを」

「僕と君との運命的な出会いだよ」


 未来に何があったかなんて、誰も知ることなんてできない。なんの因果か、僕はそれを知る者として朔を託されたんだ。誰もが夢見る未来に導くために……。

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