腐敗の森

 アステルの屋敷は人里離れた森の中にあり、屋敷と人族の村、一番近い魔族の村へと続く道以外には、樹齢を重ねた大樹しかない。

 しかも、普段から誰も踏み入らないようなような深い森ばかりで、そこから魔獣を見つけ出すのは骨が折れそうだ。

 さらにトリスはこの地へと来たばかりで、方角さえわからないほど土地勘がない。


 しかし、トリスとシェリアーの抗議は受け入れられず、結局ふたりで魔獣の討伐へと向かうことになった。

 しかも、即日の出発に悲鳴をあげるトリスとシェリアー。


「村人が困っているんだ。さっさと行ってこい」


 アステルは言ったが、本気で村人の心配などはしていない。

 出発が翌日になれば、不満を爆発させるシェリアーと夜のうちに喧嘩になるからだ、とはトリスでもわかった。


 ぶつぶつと文句を言いながら、本当に嫌そうではあったが、シェリアーはトリスについてきてくれた。

 ついてきただけで、助勢してくれるかはまた別の問題だが。


 出発する際に、アステルはトリスにひと振りの中剣と盾を渡した。

 今回も、いつの間に準備したのかわからない物を渡されて、トリスは驚いた。

 シェリアーとルドーも驚いていたが、それぞれに違う理由からだった。


「まさか、お館様にあんなに簡単に武具を出していただけるとは」


 過去にも何度か、アステルから武具を借りたことがあるらしい。だが、代償に違う用件を言われるなど、毎回大変だったらしい。


「はやり、トリスは特別なんだろうなあ」


 別れ際に、ルドーが言っていた言葉を思い出すトリス。

 そんなルドーとは違い、シェリアーの驚きはまた別のところにあった。


「まさか、人族に神剣しんけんを渡すのか!?」


 シェリアーの声音こわねには、わずかな苛立ちさえあったように、トリスも感じた。

 しかしアステルは気にした様子もなく、中剣と盾をトリスに渡した。


 シェリアーが驚きと苛立ちを見せるのもわかるような気がする。

 神剣とは、神族しんぞく神力しんりょくを込めて鍛えた武器だ。


 神族とは、魔族が支配する国々の南方に支配圏を持つ種族。魔族と同等の力を持ち、世界の覇権を争う、魔族にとっては油断ならない敵対勢力になる。


 アステルは、敵対する種族の武器を人族のトリスに渡した。

 場合によっては、自分たち魔族の命を脅かすかもしれない代物。

 人族が神剣を振り回しても、上位魔族のシェリアーや公爵位のアステルにはさほどの危険性はない。しかし、他の魔族には十分すぎるほどの脅威であり、嫌悪されるものなのだ。


「なんで、アステルはお前には甘いんだ」


 屋敷を出てからというもの、シェリアーはわざとトリスに聞こえるような声で愚痴ぐちを漏らし続けていた。

 いい加減うんざりとしてきたトリスは、状況を打開しようと思考を巡らせる。

 そういえば。

 何も持っていないはずのアステルが、酒や武具を突然手元に出すのは何なのだろう。魔族であれば、炎を生み大地を割り、風を起こす魔法を使う。ならば、アステルが使う魔法は、召喚魔法しょうかんまほうなのだろうか。


 本人に聞いても、屋敷で働く使用人たちに聞いても、答えを教えてはもらえなかった。

 いわく、有名なのに知らないのか、と。

 だが、これまで他の魔王が支配する国の辺境の隠れ里で、魔族に見つからないようにひっそりと暮らしてきたトリスには、他国の魔族の使う固有の魔法についてなど、有名であっても知るすべはなかった。


 シェリアーに質問したところで、答えてはくれないだろう。けれど、話題を振るきっかけにはなるかもしれない。

 不機嫌に文句を口にし続けている今の状況を変えられるかも。

 話しかけづらい雰囲気ではあったが、トリスは勇気を出して声をかけてみた。

 すると、数歩先を歩いていたシェリアーが足を止めて、振り返る。


 睨まれた。


 猫ではなく、虎に睨まれているような恐怖を感じるトリス。


 無言でトリスを睨むシェリアー。しかし、何かを感じ取ったのか、鬱蒼うっそうとした森の方へ視線を向ける。

 トリスは、シェリアーの不意の動きに違和感を読み取ったが、理由を聞き返すことはできない。先程まで愚痴を溢していた雰囲気とは違う。

 シェリアーの、愚痴とため息の混ざっていたやる気のない気配が、何か張り詰めた空気に変わったことを、トリスは肌で感じ取る。


 視線を向けた森の奥へと歩き出すシェリアー。トリスは慌てて後を追う。

 猫の姿をしたシェリアーは、茂みの隙間隙間を軽快に進む。しかし、トリスは生い茂った草木でなかなか思うように進めない。

 それでも置き去りにされないように必死でついて行くと、移動しながらシェリアーが話し始めた。


「お前は、アステルの能力をなんだと思うのだ?」

「うーん、召喚魔法か何かですかね?」


 猫の歩調で進んでいくシェリアーを追いかけながら、トリスは首を傾げる。

 今も、前を行くシェリアーから張り詰めた空気を感じ取っているトリスだが、先ほどの質問に思わぬ返答が返ってきたことで、自分の考えを口にしてみた。そうしながら、シェリアーの後を必死に追う。

 普段なら、猫の歩く速度についていけないということはない。だが、なにせ鬱蒼とした深い茂みのなか。少しでも油断すると、シェリアーの黒い後ろ姿を見失いそうだ。


「召喚魔法なんぞは、その辺の上級魔族であれば誰でも使えるぞ」


 あっさりと否定されてしまったが、トリス自身、正解だとはあまり思っていなかった。


「召喚魔法とは、あらかじめ指定した場所に保管してある物や生き物を別の場所へと転送する魔法だ。アステルの能力は、そんな下等なものではない」


 召喚魔法が下等なのか、と顔を引きつらせるトリス。


 では、どういった魔法なら上等なのか、格付けの基準がいまいちわからない。

 それでも、アステルの使う力は予想していたもの以上の魔法なのだとは感じ取れた。


物質創造ぶっしつそうぞう


 シェリアーが呟く。

 物質を、思いのままに生み出す能力。命が宿るもの以外なら、もしくは、自身の魔力を超えるような物質以外であれば、ほぼ何でも生み出せる。

 建物でも食べ物でも。魔族とは相反する神族の武具でさえも、自在に創れる。


 シェリアーは、後ろから必死に追いかけてくるトリスへ振り返ることなく、淡々とした口調で言う。


「……すげえな」


 それ以上の言葉が見つからない。

 好きな物を自在に生み出す。想像しただけで、心が沸き踊る。


「ふんっ。お前が安易に想像しているような優しい能力ではないぞ」


 シェリアーはいつの間にか立ち止まり、振り返ってトリスを睨んでいた。

 なんで想像していることがわかったんだ。そしてなぜ睨まれる。優しくないとはどういうことなのか。

 色々と、今のうちに聞きたいことがある。だが、シェリアーの気配がこれまでよりも更に鋭いものになっていることに気づくトリス。


脳天気のうてんきで世間知らずの、単なる馬鹿とは違うのだな」


 気配の変化を敏感に感じ取ったトリスを、一応は評価するシェリアー。


「だが、まだまだ認識が甘い。お前は何をしに来ている。集中しろ」


 言われて、トリスははっとする。

 そういえば、自分たちは魔獣を討伐しに来ているのだった。

 シェリアーの機嫌を伺ったり、疑問の解決を優先している場合ではない。


 村人では発見さえできなかった魔獣。

 油断していては、自分たちも見つけることができないかもしれない。もしくは、不意打ちで逆に襲われる可能性もあるのだ。


 トリスが意識を内側から外側に向けると、すぐに具体的な異変に気づくことができた。

 かすかだが、腐臭ふしゅうがする。


「なんか、肉が腐ったような臭いがしますね?」

「嫌な予感がする。その、腰に帯びている神剣を抜いておけ」


 トリスが神剣を構えたことを確認すると、シェリアーは歩き出した。





 鬱蒼とした茂みの奥に進むにつれ、腐臭が強くなる。

 森の奥で命を落とした獣の死骸しがいが、腐敗でもしているのだろうか。

 どうやら、腐臭の発生元にシェリアーは向かっているようだ。

 今回の魔獣討伐と、何か関係があるのだろうか。

 徐々に、シェリアーの歩みは警戒で遅くなっていく。

 トリスも神剣を構えて、周囲に気を向ける。


 中剣とはいえ、そこは神剣。思いのほか軽く、よく手に馴染む。生まれ育った隠れ村では、自身の身は自身で守ることが鉄則だったトリスにとって、武器の扱いくらいは慣れたものだ。そんなトリスの握る神剣は、これまで手にしてきたような鉄や銅の剣とは違い、手にしているだけで十分に実力を発揮できそうな気持ちにさせる。


 トリスは、手に握る神剣が気に入っていた。

 魔族が嫌がる武器、というのが大きな理由だが。


 神剣を右手に、盾を左手に持ち、シェリアーの後を追ってゆっくりと慎重に進んでいくトリス。

 胸の鼓動は緊張で激しく鳴っていたが、心は冷静でいられる。


 シェリアーの進んでいった茂みを神剣で払う。枯れた枝葉が抵抗もなく切断されて、神剣の斬れ味に驚く。これなら、そこらの相手には後れを取らないだろう。

 トリスは前方をさえぎる茂みを、神剣の感覚を確認しながら薙ぎ払っていく。

 すると程なくして、茂みを抜けた。

 鬱蒼とした茂みの先は、少し開けた空間になっていた。ただし、その光景は異常だった。


 腐っていた。

 全てが。


 樹木は幹から腐れ落ち、草はどす黒く変色し、地面にしなびて折れていた。

 ずいぶんと暗くなり始めた森の中で、見えるもの全てが腐敗した風景は、異常なほど不気味なものだった。

 草木が腐り、一部の地面は液状化して、ときおりぶくり、と不気味な泡を吹き出す。

 そして、吐き気をもよおす臭いと風景の中心に、大きな死骸が横たわっていた。


「うげぇ、なんだこれ?」


 あまりにも気持ち悪い死骸の様相に、顔をしかめるトリス。


 巨大な狒狒ひひの死骸だった。


 ただし、原形をとどめているのは上半身のみ。胸部から下は、周りの風景と同じように腐り果て、異臭を放っている。

 狒狒の死骸は、胸より上の部分だけで人の子供くらいの大きさがある。全身では、相当に大きな狒狒だったに違いない。


 シェリアーは狒狒の死骸に近づき、なにやら調べていた。


「どうやら、村の者が言っていた魔獣とはこいつのことだろうな」


 あまりにも醜悪な惨状に足がすくんで動けないトリスのもとに戻って、シェリアーは言う。


「狒狒は非常に狡猾な魔獣だ。討伐に来た村人をけむくことくらい造作もない。まあ、これを発見できていたとしても、人族ごときには討伐どころか傷さえ負わせられなかっただろうがな」

「でも、この魔獣は死んでいますよ?」


 トリスの指摘に、シェリアーは短く鳴く。


「それが問題だ」


 言ってシェリアーは、瞳の動きでトリスの視線を誘導する。

 全てが腐敗した空間の北と南側。狒狒の死骸が横たわる場所ほどではない幅で、草木が腐って出来た道があった。


「何もかもを腐らせる化け物と狒狒がここで出くわし、狒狒が負けたのだろうな」


 シェリアーの推理通りだ、とトリスも思う。

 しかし、狡猾な魔獣の狒狒が得体の知れない何者かと遭遇し、あっさり負けるとはどういうことなのか。相手が自分より格上であるのなら、村人が捜索したときのように姿をくらませれば良かったのではないだろうか。


「縄張り争いだろう。上位の魔獣になると縄張りを誇示する傾向がある。それが原因で、侵入してきた他の魔獣と争いになることがある」


 トリスの疑問に、面倒くさそうではあるが答えながら、シェリアーはもと来た茂みへ向かって歩き出した。


「村の者から討伐依頼のあった魔獣は死んでいた。さあ、帰るぞ」

「はいっ!? ちょっと待ってくださいよっ」


 用事は済んだ、と帰るシェリアーを慌てて引き留めるトリス。


「たしかに狒狒は死んでいましたけど。それを倒した奴がまだ残っているじゃないですか!?」


 狒狒を倒した化け物を討伐しなければ、根本的な解決にはならない。

 しかし、トリスの抗議はあっけなく却下される。


「狒狒でさえお前の手には余る相手だというのに、それを倒せるさらに厄介な化け物なんだぞ。いくら神剣を持っているとはいっても、お前に勝ち目はない」

「いや、でもっすね。俺が勝てなくても、シェリアー様なら……?」

「他者を頼るな!」


 強い口調で叱責され、トレスは驚いて首をすくめる。


「そんなこと言ったって、村の人たちが困っているんだから、討伐しないといけないじゃないですか」

「だとしても、力のない者が行っても無駄死にするだけだ」

「だから、力のあるシェリアー様にお願いしているんですよ!」


 自分が力不足なのは、この惨状を見て十分に理解している。そして、シェリアーの力は昨夜に見ていた。

 化け物がどれほどの相手なのかはわからない。しかし、ひと鳴きで屋敷どころか周囲の森までもを吹き飛ばしたシェリアーならば、勝てるように思えた。

 だが、シェリアーは冷たい視線をトリスに向ける。


「愚か者め。お前は勘違いをしている。私は魔族だ。人族が困ろうが死滅しようが、知ったところではない。身近に気安く話せる魔族がいるせいで、考えが甘くなっているようだな? 本来、魔族であれば低級であれ人族程度と会話なんぞしようとも思わない。アステルが特殊なだけだ」

「そ、そんな……」

「今回も、私はアステルのわがままに仕方なく付き合っているだけだ。個人的には、お前が死のうが村が化け物に滅ぼされようが、どうでも良い」


 冷たく言い放ったシェリアーは、茂みの中へと消えていった。

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