森の少女

 自分の甘さを痛感する。

 今日、何度目だろう。


 シェリアーに言われた通りだ。

 魔族は恐ろしい存在。人族を家畜以下にしか見ていない。気まぐれで人族を殺戮さつりくし、暇だからともてあそぶ。

 アステルに助けられるまで、どれだけ魔族を恐れ、怯え、憎んでいたのか。


 今更ながらに思い返す。

 そもそもが、魔族になんて頼ってはいけなかったのだ。アステルにしても、神具を貸してはくれたが、危険極まりない魔獣の討伐に行かせて、自分を弄んで笑っている。


 魔族が「い人」なわけがなかったのだ。

 であれば、最初からこの件でアステルやシェリアーに頼るのはお門違かどちがいだったわけだ。


 神具だけは借りておこう。

 そして、自分の力で化け物を討伐してやる。あわよくば、討伐した後にここから逃げだそう。


 そうだ。そもそも素直に帰る必要はない。

 監視役のシェリアーは居なくなった。

 自分は今、自由の身なのだ!


 屋敷で少しだけ世話になった人たちのために、化け物はどうにかして討伐する。ただし、その後は自由にさせてもらう、と決意するトリス。


 シェリアーはすでに、来た道を戻ってしまい、姿は見えない。


 よし、行こう。

 決めたら即実行!

 まずは北か南、どちらの道に進むかだ。

 北に向かえば、アステルの屋敷に近づくかもしれない。ならば、南に進もうか。

 草木が腐って出来た道を、トリスは南へと進むことにした。


「よっしゃ。行くか!」


 油断なく進む。

 神剣をしっかりと握って構え、道の先だけでなく周りにも注意を払う。

 移動を始めてすぐに、太陽は西の先へと落ちてしまった。

 アステルから夜間の灯り用で渡されていた携帯照明を取り出す。贅沢なことに、油ではなく魔晶石ましょうせきを光源にしたものだ。


 魔晶石とは、魔物を倒したときに体内から取れる、宝石のような石のこと。魔物の魂の塊とも言われ、人族だけでなく魔族や他の種族の生活にも必須の物とされている。

 不思議なことに、魔晶石は属性を持っている。そして、宿る属性は色でわかる。水色の魔晶石は水属性。赤い物は火の属性など。

 さらに驚くべきことは、魔晶石の効果だ。土属性の魔晶石を砕き、畑に撒く。すると、肥料よりも高い効果で作物が育つ。水の魔晶石を濁った水に入れて半日ほど待つと、飲めるほどに浄化される。

 魔晶石は、なくても生活に支障はない。ただし、持っていれば楽に大きな効果を得られるため、人々は余裕のある限り魔晶石を利用していた。


 トリスが取り出した携帯照明もまた、光の魔晶石を利用したものだった。


「まさに、金持ち貴族の道具だよな」


 非常に上質な光の魔晶石を使っているのか、トリスの周囲を昼間のように明るく照らす。

 貧しい隠れ里で育ったトリスには、それがとても贅沢な物に見えた。





 静かだった。

 いや、静かすぎた。

 動物の鳴き声どころか、虫のさえずりさえ聞こえてこない。

 トリスの耳に入る音は、自身のはずんだ息と、腐った道を歩く不愉快な足音だけだ。


 道の先に、きっと化け物がいる!

 トリスは確信していた。


 さらに慎重に歩みを進めていくと、なにやら不気味な音が、トリスの耳に届き始めた。ずるずると、重い何かを引きずる音。さらには、低いうなり声も聞こえはじめる。

 トリスは右手の神剣を握りしめ、たしかな手応えを確認する。左の腕にしっかりと盾を固定し、携帯照明で前方を照らす。

 そうして、慎重に慎重を重ねて進むトリス。


 音は不気味さを増し、化け物が近いことを伺わせた。

 トリスは、腐った道を真正直に進むのではなく、道の脇の、腐っていない木々の陰に隠れながら進む。すると突然、化け物の身体の一部が灯りの中に現れた!


 どうやら灯りが強すぎて、外側の暗闇の視認性が余計に悪くなっていたようだ。


 最初に見えたのは、尻尾だった。ゆっくりと左右に揺れる尻尾は、青紫色の不気味な色をしていて、至るところが傷つき、そこから赤黒い血が絶えず流れ出していた。

 血が落ちた地面は、見る間にどろりとした液状に変わり、その場所は腐っていく。

 腐敗した道は、この化け物が流した血によって作り出されたものだった。


 あまりのおぞましい光景に、トリスの足はすくむ。

 魔都で魔族相手に体当たりをしようとしたときよりも、恐怖を感じている。

 それでも勇気を振り絞って進むと、徐々に化け物の全体が見えてきた。

 灯りに照らされて浮かび上がった化け物の姿に、トリスは戦慄せんりつを覚える。


 腐龍ふりゅうだ!


 シェリアーの言う通りに、引き上げるべきだった!

 腐龍の恐ろしさは、トリスにだってわかる。


 年老いた竜族が死にきれないままに、身体を腐らせながら、もだえ苦しみながらも生き続ける存在が腐龍だ。

 生まれ育った隠れ里の老人から幼い頃に聞いた話を思い出す。遥か東には「竜峰りゅうほう」と呼ばれる壮大な山脈地帯があるという。そこに住む竜族の話だ。


 腐龍は、元々は竜族である。魔族や神族でさえも適わぬほどの並外れた生命力と破壊力、知性を兼ね備えている。それが、腐っていく身体の苦痛により、凶暴化しているのだ。

 人族はおろか、魔族や神族が束になっても手に負えないような、恐るべき化け物。


 シェリアーは、もしかすると化け物の正体に気づいていたのかもしれない。

 狒狒さえ簡単に葬るような、手に負えない化け物ならば、関わり合うべきではない。こちらからは干渉せずに、化け物が別の場所へ去って行くのを待つしかない。

 シェリアーは、そう判断したのだろう。


 しかし、トリスは気づかなかった。


 やはり、判断が甘いのだ。

 くややむが、すでに遅い。

 灯りに照らされ、腐龍もトリスに気づく。


 ゆっくりとトリスの方へ振り向く腐龍の顔は、肉が半分腐れ落ち、骨が剥き出しになっていた。

 腐龍は低く唸りながら、真っ赤な瞳でトリスを睨む。それだけで、魂を持って行かれそうな恐怖に襲われた。


 逃げるか、戦うか。

 選択肢は二つあるが、迷うことなく前者一択だ!


 たった一日ではあるが、世話になった人たちのために一役買いたい、とトリスは思っていた。だが、相手が悪すぎる。竜族でさえ人族では手も足も出ないというのに、それがさらに凶暴化した化け物だ。戦いになんてならない。一方的に殺されるだけだ!

 逃げることに躊躇いはない。

 ただし、どうやって逃げるか。


 腐龍に睨まれ、恐怖で身体が動かないトリス。

 腰が抜けていないだけまし。いいや、違う。腐龍を目撃して魂が砕けていないだけましなのだ。しかし、どちらにしても絶体絶命の危機には変わりはない。


 重りでも付いたかのような足をなんとか動かし、一歩下がるトリス。

 腐龍も同時に動く。顔を天に向け、半分以上骨だけになった口を開く。

 大きく裂けた口の隙間から、紫色の煙が漏れる。


 絶体絶命、危険度最大!!

 トリスにでもわかる。


 しかし、足が動いてくれない!


 腐龍は、トリスに向かって顔を突き出した。

 紫色の煙の塊が、トリスめがけて放たれる!


 必死の思いで、半分倒れこむように、腐った道の脇に逃げ込むトリス。しかし一瞬遅く、左腕が紫煙の塊に巻き込まれた。


「うわああぁぁっっ!!」


 紫煙の塊は地面に着弾すると、一瞬で全てのものを腐らせた。

 恐ろしい光景に、トリスは巻き込まれた左腕を慌てて確認する。

 アステルから借りた神造の盾が、じゅうじゅうと嫌な音を立てて腐り始めていた。


「うわあああっ」


 悲鳴をあげながら、急いで腕から盾を外し、あさっての方角へ投げ飛ばす。

 左手で持っていた携帯照明や左腕自体は、なぜか無事だった。


 今の一撃は、盾が防いでくれた。

 神造しんぞうの武具は、負の力に高い防御力を発揮し、装備者を守る。

 神造の盾を装備していたから、助かった。盾がなかったら、左腕どころか全身が腐敗していただろう。


 しかし、盾はすでに失われた。

 次は助からない。


 腐龍は、攻撃を避けたトリスを見定める。そして再び、顔を天に向けて紫煙しえんを口に溜めはじめる。


 逃げなければ! と思うが、恐怖で身体が動かないトリス。

 倒れ込んだ姿勢から上半身を起こすのが精一杯だ。


「くそうっ!」


 右手に握った神剣を、無意味に振る。

 すると、振った剣の軌道から光の刃が生まれ、腐龍に向かって放たれた。


 光の刃は、腐龍の胸あたりに命中する。

 小さな裂傷れっしょうを与えた。

 傷口から赤黒い色の血が流れる、しかし、腐龍は気にした様子もない。

 腐龍の口に溜まった紫煙の塊は、今にも放たれそうだ。


 逃げなければ、次は確実に死ぬ!

 焦れば焦るほど、下半身に力が入らない。


 大きく口を開く腐龍。

 トリスは完全に腰が抜けていて、立ち上がれない。

 紫煙の塊がトリスに向かい、勢いよく放たれた!


 絶望がトリスを襲う。


「にゃっ!」


 短い猫の鳴き声とともに、紫煙の塊はトリスと腐龍の中間で爆散した。

 高熱の爆炎で、紫煙が一瞬のうちに蒸発する。

 爆発の衝撃波で、トリスは無様に森の奥へと吹き飛ばされた。

 全身をしたたかに打ちつけて、悲鳴をあげるトリス。それでもなんとか顔を上げ、何が起きたのかと周囲を見渡す。

 すると、視線の先に見知った黒猫の存在を見つけた。


「まったく、面倒なことだ」


 少し離れた茂みの先に佇む黒猫、それは、シェリアーだった。

 何が起きたのか理解できないトリスを尻目に、シェリアーはきびすを返して腐龍と対峙する。

 新たに現れた敵対者に向かい、さらなる紫煙の塊を放とうと身構える腐龍。しかし、シェリアーが短く鳴くと、腐龍は後方へとと大きく吹き飛んだ。


「いつまでほうけている。さっさと逃げろ!」


 シェリアーの言葉と同時に、トリスも大きく森の奥へと吹き飛ばされた。飛ばされた先で、トリスは大木に身体を強く打ちつける。

 あまりの激痛に、またもや悲鳴をあげるトリス。しかし、全身を走る激しい痛みによって、ようやくトリスは身体の感覚を取り戻す。

 痛みからくる感覚でなんとか動きを取り戻したトリスが身体をくねらせて苦悶していると、近くにシェリアーがやって来た。


「ええい、まだこのような場所で呑気に寝ていたのかっ! 死にたくなければ、さっさと逃げろ!」


 言われて、元いた場所を見る。すると、腐龍が体勢を立て直し、こちらへ迫ろうとしていた。

 抜けていた下半身の力が徐々に戻りはじめたトリスは、慌てて立ち上がる。


「まったく、面倒な奴だ。時間稼ぎをしてやるから、早く逃げろ」


 シェリアーが長く鳴く。腐龍の顔が爆発した。しかし、顔にもとからあった肉が大きく吹き飛んだだけだ。しかも、吹き飛んだ肉は見る間に復元されていく。

 魔法に対して強い抵抗力があるのか、シェリアーの攻撃さえ効いていない。それが竜族の不幸な末路、腐龍という化け物なのだ。


 トリスは、一目散に逃げ出した。

 恐怖にかられ、森の中を必死に逃げた。後方では、激しい爆発音が断続的に続く。時折、桁違いの爆音とともに地面が揺れる。


 シェリアーは、トリスという邪魔者がいなくなったことで、手加減なく攻撃を開始したようだ。

 だが、爆発音とは違う咆哮ほうこうも響いてくる。

 圧倒的な破壊力を示すシェリアーの攻撃をもってしても、腐龍は倒せないというのか。それほどの化け物だというのか。


 トリスは全力で逃げているつもりだったが、実際には震える足でうまく走れていなかった。

 爆発音はなかなか遠ざかってくれない。

 草をかき分け、木の枝を払いのけ、無我夢中で走り続ける。

 木の根につまずき、派手に転ぶ。

 手放してしまった携帯照明を拾い直し、再び走り出そうとしたとき。


 くすくす、と笑い声がした。


 とっさに振り向いた先。大きな倒木とうぼくの上に、ひとりの少女が座っていた。

 夜闇にもえる、真っ赤な美しい髪。綺麗な衣服も鮮やかな赤。

 少女は、上品に唇の端を上げて微笑ほほえんでいた。


 なぜ、こんな森の奥に少女がいるのだろう。トリスの疑問は一瞬で飛ぶ。

 先ほどまでよりも近い場所から、爆発音響く。続いての爆風と地鳴り。


「くそったれ! 君、ここに居たら危ない。一緒に逃げよう!」


 トリスは、謎の少女に手をさしのべる。しかし、少女はくすくすと笑うだけで、トリスの手を取ろうとはしない。


 あせるトリス。

 腐龍に追いつかれてしまうと、あまりにも危険だ。

 強引に少女の手を掴もうとしたとき。


「なにをこんなところで立ち止まっているっ!」


 シェリアーが追いついてきた。

 シェリアーはトリスを睨む。次いで、トリスの側の少女に気づく。途端に尻尾を高く上げ、警戒心剥き出しで鋭く鳴いた。


「なぜ貴女様がこのような場所にいらっしゃいますか!?」


 警戒体勢とは逆に、言葉遣いは丁寧なシェリアー。


「ふふふ。ちょっと猫公爵ねここうしゃくに届け物がありまして」


 言って少女は、座っている倒木に立てかけてある、黒い布に包まれた長物を示す。


 猫公爵とは、アステルのこと。

 猫のような瞳をしていて、猫のように気分屋。しかも、黒猫のシェリアーとともに暮らしているので、魔族の間ではそうわれている。

 そして、トリスは言われるまで少女の横にある長物には気づいていなかった。


「それは……!」


 シェリアーの顔が、見る間に不機嫌そうになる。


「そんなことよりも」


 少女は、シェリアーの後方を指さす。

 茂みが一瞬で腐っていき、奥から腐龍が現れた。


 追いつかれてしまった!

 顔面蒼白になるトリス。

 シェリアーは舌打ちすると、腐龍に対峙しなおした。


 しかし、シェリアーが鳴くよりも早く。

 トリスの目には追いきれない速さで。


 突然、地に伏す腐龍。


 一瞬のことで、トリスには何も理解できなかった。しかし、何度か瞬きを繰り返してよくよく見てみると、腐龍は地面から生えた無数のくさりによって縛られ、押さえつけられていた。

 赤黒い鎖が、腐龍の腐った肉や剥き出しの骨に食い込み、自由を奪っている。


「ああ、臭くてたまりませんわ」


 少女が鼻をおさえてなげく。

 腐龍が激しくえる。

 しかし、全身を鎖に縛られた腐龍は動けなかった。


「……恐ろしい力だ」


 シェリアーの呟きが聞こえた。


「シェリアー、これはひとつ貸しですわね」


 少女は、場の雰囲気に似合わない可愛らしい笑みを浮かべた。

 瞬間、腐龍を縛っていた鎖がまり、身体を千切る。恐ろしい断末魔だんまつまをあげ、腐龍は一瞬にして消滅した。

 腐龍の消滅とともに、赤黒い鎖も消える。

 あとには、腐龍が伏していた場所にできた、全てが腐った空間だけが残った。


 呆気あっけにとられるトリス。

 神剣から放たれた光の刃で、裂傷程度。シェリアーの魔法でさえ致命的な傷を与えられなかった腐龍。その腐龍が一瞬で地に伏し、身動きもとれないまま消滅させられた。

 殺された、ではない。死骸さえ残らない消滅。

 トリスの理解できる範疇はんちゅうを遙かに超えていた。


「消滅させても、周りが腐っていますので臭いままですわね」


 少女は残念そうに言う。


 腐龍を倒したのは、本当にこの少女なのか。

 倒木に座って微笑んでいる少女は、何かの魔法を使ったような様子はない。


「腐龍程度に苦戦とは、相変わらずご自身に制約をかけているのですわね?」

「制約をかけていなくとも腐龍には誰でも苦戦します。エリザ様が特別なだけです」


 シェリアーの口ぶりからすれば、やはりエリザと呼ばれたこの少女が腐龍を倒したのだろう。

 茫然とするトリスをよそに、エリザは倒木から腰を上げる。そして、シェリアーに可愛らしく微笑んだ。


「さあ、早速ではございますが、今の貸しを返していただきましょうか」


 エリザの言葉に、シェリアーは嫌そうな表情になる。


「先に屋敷へと戻り、猫公爵が逃げないように見張っておいてくださいませ。わたくしの気配に気づいたら、絶対に逃げてしまいますわ」

「見張っておいても、アステルは逃げますよ」

「そのときは、シェリアーに用件を押しつけますわ。拒否権なしで」


 言ってエリザは、傍らの黒い長物を見る。シェリアーは心底嫌そうにうなった。

 シェリアーには、黒い布に包まれている長物の中身がわかっているようだ。


「ああ、アステルに怒られる……」


 アステルに怒られることよりも、エリザからの用件のほうが余程に嫌なのだろう。文句を言いつつも、シェリアーは高速で茂みの先へと去って行く。


「さあ、わたくしたちも向かいましょう?」


 言ってエリザは、長物を抱える。立ち上がったエリザと長物は、同じくらいの長さだ。


「荷物を持ちましょうか?」

「ふふふ、大丈夫ですわよ。これは人族には持たせられませんもの」


 わかっていたことではあるが、やはりエリザも魔族なのだ。それも、上位魔族。シェリアーが敬語を使うくらいなので、かなりの地位なのだろう。


 エリザは長物を大切そうに抱えると、腐龍が移動して出来た腐った道を進み出す。

 トリスもあとに続いた。

 エリザは少女らしく、ゆっくりとした歩調。トリスはエリザに合わせて歩く。


 トリスは、エリザの後方を少し離れて行く。なぜか、抜き去って先導してはいけない気がした。それどころか、近づくのはおろか、こちらから話しかけられるような雰囲気でもない。

 見た目は上品で可愛らしい少女のエリザ。絶えず笑みを浮かべ丁寧な言葉遣いだが、魔族は魔族。トリスに声をかけて同行を促しはしたが、それ以上は干渉してこなかったし、させなかった。

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