05

 それから、なるべく仕事帰りに日本橋まで通う日々が続いた。

 芸を売る職種の方が仕事が終わるのが遅いので、圭祐が出版社に迎えに行くより、満穂がキネマ座に向かう方が効率が良い。売れっ子の兄は朝も昼も夜も口演を持つ日は珍しくなく、活弁としての仕事振りを舞台袖から拝聴して帰る日もある。

 ただ、流石に毎日というのは無理があった。圭祐の仕事が終わってから帰宅するとなると今までよりも大幅に時間が遅くなり、夕餉の支度も銭湯に行くのも就寝するのも遅くなる分、翌日に影響が出る。

 また、出版社で働く満穂と活動写真館で働く圭祐では休日が違う。圭祐にとっての休演日は、満穂にとって平日である。――そしてそれは、逆も然り。



「満穂。出掛けても良いけど、人通りの多い道を歩くんだよ。決して夜遅くまで出歩かないように」


 ここで「出掛けるな」と妹の行動を制限する真似をしないところが圭祐である。だからこそ、満穂も出来る範囲で兄の心配を妨げないよう努める気持ちになるのだ。


「判ってるわ。もうそろそろ行かないと朝の口演に間に合わないわよ」


 嫌な予感はまだ続いているのか。満穂としては、兄の心配は嬉しいけれどいい加減杞憂だと言ってやりたい。

 圭祐を送り出し、満穂は早速襷がけをした。本日は久々に和服である。

 呉服屋に嫁ぐ予定だった事、また登一が洋服に顔を顰めるから着物ばかり着ていたけれど、洋装にはずっと憧れていた。今は洋服を自由に着ても誰にも咎められないので普段は洋装ばかりだが、登一が苦手と言っても和服まで嫌いになった訳じゃない。

 濃淡の違う緑系の滝縞模様は、スッキリ短い髪と白いうなじが、瑞々しい満穂の活発さや清潔感をより際立たせて美しい。

 女給時代に制服として支給されていたエプロンは退職の際に頂いたので、家事をする時、満穂は白いエプロンを着ける。


「良い天気だから、早めにお洗濯しましょ」


 カチューシャーで前髪を留め、洗濯用石鹸と洗濯物をドサッと入れた盥を両手で抱えて近所の共同井戸まで運ぶ。既に何人かご近所の妻女や娘達が同じように洗濯しに来ており、井戸端会議で和気藹々と華やかな声が楽しそう。


「おはよう御座います。私も洗濯、良いですか?」

「あらぁ、満穂ちゃんじゃない」

「何だか久し振りねぇ」

「あれ? 珍しいですね、洋服じゃないなんて」

「暫く見ない内に、また髪が短くなってるような…最近切りました?」

「そうなの、よく判りましたね。――それに、着物だって好きですよ、私」

「満穂さんの髪型、小気味良いくらいサッパリと短いから、何となく注目しちゃうんですよね。私も短くしたいんだけど、お父さんもお母さんも反対するから切れなくて」

「髪はねぇ…。私も長い方が女らしくて好いって考えで育ってるから、満穂ちゃんの髪型は似合ってると思うけど、よそのお嬢さんだからそう思えるだけかもしれないわ。娘が短くしたいって言ったら、私も反対しちゃうかも…」

「そういうものですか」

「そういうものよぉ」

「ちぇー。満穂さんほどじゃなくて、肩に付くくらいの長さにしたいんだけどなー」

「勝手に床屋に行って切っちゃうと、不良娘って言われかねないし」

「難しいわよねぇ」


 街中に行けば満穂と同じくらい短い髪のモダンガールを見かける事もあるけれど、この辺に住む女性達は皆押しなべて長い。

 耳に掛かる程度の長さに切り揃えたショートボブは珍しく、引っ越した当初、ハイカラな満穂の姿はこの辺に住む年下の娘達に衝撃を与えたらしく、以来、こんな風にウットリ見つめられたり憧れらたりしている。

 満穂としては、自分がしたい恰好や髪型をしているだけなので、こんなにも憧憬の目で見られると何だか気恥ずかしい。


「それにしても、雨続きって訳でもないのに、お洗濯に来なかったねぇ。仕事忙しいの?」

「そうですね…。後、兄がちょっと心配性になっちゃって」

「圭祐君が?」

「え、何? 圭祐さんに何かあったんです?」


 圭祐はこの近辺の奥様や娘達から絶大な支持を受けている。絵に描いたような美青年なので。


「そういえば最近、不審な男を時々見かけるって聞いたわ」

「えっ? そうなんですか?」


 兄曰く「嫌な予感」とはこの事か。不審な男が出没したなんて噂を知らなかった満穂は驚いて、井戸水を汲む手が止まってしまった。


「黄昏時…暗くなった頃に出没するのよね、確か。えーと、七三で色白の若い男だそうだけど……」

「それがねぇ、結構美形みたいよ」

「えー? そうなの? 見てみたい」

「着物をいつも身綺麗に着こなして、ありゃあどっかの若旦那か御曹司じゃないかね。育ちも良さそうで、苦労を知らなさそうな感じに見えたよ」

「あれぇ? ご存知なんですか?」

「以前、この辺をウロウロしてたから、道に迷ったのかと思って親切で声を掛けた事があったんだけど、その時にね。礼儀正しいお坊ちゃんだったよ。悪い人じゃなさそうだけど……」

「……」

(その不審な男、絶対登一さんだわ…。兄さまの心配、やっぱり杞憂だったわね……)


 正体が判ると拍子抜けしてしまったが、満穂にとっては顔見知りでも、他の女性達にとっては正体の判らぬ不審な男である事は間違っていない。圭祐の懸念は杞憂と判明したが、その噂自体知らなかった満穂にとやかく言える訳がなかった。

 気を取り直して水を汲み、石鹸を泡立てて盥の中の洗濯物を擦り合わせて汚れを落とす。

 洗濯は重労働だが、お喋りに興じながらだと楽しく捗る。井戸端会議は満穂の知らない近所のゴシップや恋バナなど盛りだくさんで、出版社で扱っている情報や最新の流行などとはまた違う、身近な出来事の微笑ましさや驚きが新鮮だ。

 全部洗い終えて持ち帰り、庭の物干し竿に干す頃には、お天道様は頭上でカッと燃えており、額に流れる汗を腕で拭って一息吐いた。


「ふぅ…。やっと終わった。最近、中々洗えてなかったから今日晴れて良かったわ」


 どうしても帰宅時間が遅くなる為、洗濯は休日に纏めてやるしかなかったのである。

 長月も下旬に入り、風は心地好いものの朝晩はめっきり涼しくなってきた。昼間はまだ暑いくらいだから夕方には乾くだろうが、これから日を追うごとに気温は低くなり、陽も短くなってくる。

 やはり、このままの状態が続くのは生活面でも時間に追われてしんどい。冬になれば洗濯物も乾き難くなるし、こんな風に纏めて洗っても翌日までに乾かないだろう。


(取り敢えず、登一さんはもう私に用はないはずだし、兄さまにも言って安心してもらわなきゃ)


 書けていなかった手紙の返事をようやく書き、給料が出たばかりの財布の中身を数えながら家計簿を付け、暫く放置していた空部屋の掃除をし、繕い物をしている内に、外はすっかり夕焼けに染まっている。手元の針と糸が見え辛くなるくらい室内が暗くなっている事にようやく気付いて顔を上げた満穂は、「しまった」と時計を見た。

 昼下がりに郵便箱ポストまで手紙を投函しに行くついでに買い物も済ませる予定だったのだが、溜めていた繕い物に夢中で気付かなかった。縁側に出て仰ぎ見た空の色はまだ辛うじて暮れる前の橙色で、陽は沈んでいない。行くなら今しかない。

 本当なら喉が少し渇いてきたから湯を沸かしてお茶でもゆっくり飲んでから買い物に行きたかったが、湯を沸かす時間すら惜しい。洗濯物だってまだ取り込んでいないが、これはもう買い物から帰ってからやれば良い。どうせ今夜は雨が降る気配はないのだし。

 何せ兄には「暗くなってから出掛けてはいけないよ」と言われているし、暗い道を妙齢の女性が一人で歩いていたら暴行や凌辱といった悲惨な目に遭うのも、悲しい事に昔からよくある話だ。圭祐の心配は娘や妹を持つ男の身内として、決して大袈裟でも何でもない。

 買ったばかりの梔子色のワンピースに違うデザインの付け襟を縫い付けていた針を急いで進めて糸を切り、満穂はエプロンを外すと、風呂敷と財布の入ったポシェットに封をした手紙を突っ込んで肩に掛け、戸締まりをした。

 そろそろ秋刀魚が美味しい時期だ。塩をまぶして七輪で焼いた秋刀魚は兄も満穂も好きなので、秋刀魚があれば買いたい。それと、せっかく給金が入ったばかりで懐が温かいのだし、久し振りにちょっと贅沢な洋食の総菜も食べてみたい。


(偶にはコロッケとか…良いかも)


 コロッケは一応満穂も女学校で習ったけれど、とにかく材料も多いし工程で面倒なので、作るより買う方が楽なのだ。もっとも、買うとなればそれなりに金子も必要な高級洋食だが、久し振りに食べたいと思ったらもう口も胃袋もコロッケを求めている。

 馬鈴薯と挽肉の旨味をパン粉で閉じ込め高温の油でカラリと揚げたコロッケは、中々手が出ないからこそ偶の贅沢だ。給料が入ったばかりの今日みたいな日に買うに限る。


(普通の馬鈴薯のコロッケも美味しいけど…。ずっと前に食べたおかぼのコロッケも甘くてホクホクで美味しかったわ。…今日はあるかしら?)


 馬鈴薯の代わりに茹でて潰した南瓜を詰めたコロッケは、馬鈴薯とは違った美味しさがあった。圭祐もだが満穂も人並みに甘党なので、南瓜コロッケは忘れられない味となっている。

 しかし、惣菜屋も旬の食材で惣菜を作る為、通年で同じ商品を提供するのは難しい。それは日頃ご飯を作る満穂にも判るから何とも言えない。甘くて美味しい南瓜を安く仕入れられなければ提供も出来ないし、南瓜は固くて場所を取るからあまりたくさん購入も出来ない。何より、南瓜は切るのが大変。

 満穂も南瓜を調理する時はいつも包丁でうっかり怪我しないか気を遣うし、圭祐に頼んで切断してもらう事もあるけれど、兄もどちらかと言うと文官タイプで非力だから、南瓜が好きなのに南瓜を調理するのが難しい為、買う事は滅多にない。

 南瓜が強過ぎて手も足も出ない非力な東明兄妹にとっては悲しい事実である。こんなに南瓜が好きなのに……。

 道端の郵便箱に今日書き上げたばかりの手紙を全部投函する。女学校時代からの友人、カフェーで仲良くなった元同僚、タイピストになる為の専門学校で知り合った同業者……。満穂は幸いにも、これだけの知人達が小まめに手紙をくれるし遊興の誘いもしてくれる。あんな事があったのに、女学校で出来た縁も幾つかはまだ切れておらず、交流が続いている。有難い話だ。

 踵を返して市に向かう。

 糠床に入れる茄子と胡瓜は買えたが、秋刀魚は魚売りに訊ねてみると旬なので今日の水揚げ分は売り切れとの事、ガッカリしたけれど遅くに買い物に出た自分が悪い。

 その代わり、行き付けの総菜屋の暖簾を潜ったら油の跳ねる音と匂いがして、丁度揚げ物をしているところだった。


「こんばんは。おかぼのコロッケ、ありますか?」

「あぁ、さっき揚げたばっかりだよ。まだ熱いから、火傷に気を付けて」

「わっ…美味しそう!」


 揚げたてというだけでも罪な味なのに、それが南瓜のコロッケとは運が良い。

 一つずつ買うつもりだったが、揚げたてならばちょっと贅沢して二つずつ買っても良いだろう。圭祐も喜ぶはずだ。

 代金を払って油紙に四つ包んでもらい、風呂敷の中にしまい込んで早く帰ろうとウキウキしながら帰途に就く。今夜の食卓に並ぶ南瓜コロッケに思いを馳せながら歩いていたからだろうか。注意力散漫になっていた満穂に、横から誰かがぶつかってきた。

 ――ドンッ、


「きゃっ」

「あっ…!」


 幸い、買ったものはしっかり風呂敷の結び目を握っていた為に取り落とす事もなく、相手が満穂よりも小柄でぶつかった威力も大した事がなかった為にどうにか踏ん張って転ぶのも避けられたが、たたらを踏んだ時に少し足首を捻った気がする。


「いたた…」

「す、済みません…」

「いえ、貴女こそ大丈夫でしたか?」


 満穂よりも頭一つ分くらいは背が低い。涼やかな白藍の小紋を身に付けた若い娘は、恐らく年下だろう。まだ十代と思われる。

 かつての満穂のように長く伸ばした髪を白いリボンで結った品の良さそうな瓜実顔の美少女は、不安そうに満穂を潤んだ瞳で見上げてくる。庇護欲を誘う仕草や雰囲気が、如何にも育ちが良さそうに見えた。


「お若いお嬢さんがこんな暗い時間までお独りで居るのは感心しないわ。迷子?」

「あ、あの、…そういう訳では……、いえ、そうかもしれません…」

「お家はどこ? 送って行きましょうか?」


 育ちが良さそうな割にお付きの人が傍に居なさそうなので、はぐれて迷子になったのかと思ったのだけど、要領を得ない言い方をする。とは言え、大人しく内気な少女は咄嗟に他人と会話が出来ない。箱入りなら尚更で、そういう女の子は女学校にもよく居たから満穂もあまり追求しないでおく。

 彼女はおどおどとした顔に安堵と後ろめたさをない交ぜにしたような表情を浮かべた。安堵はともかく、どこか後ろめたそうな雰囲気は何だろう。満穂に家まで送ってもらう事への罪悪感か。満穂も一応、年増とは言えないくらいには若い女なので、気持ちは判るけれど。


「お家の住所は言える? それとも、停留所までの道を案内するわ。市電には乗った事があるかしら?」

「は…、はい。……あの、えっと、足、どうかしましたか?」

「大丈夫よ。少し捻っただけで、挫いてはいないから」

「……あ、あの! ウチに寄ってって下さい、すぐそこなので…手当させて下さい!」

「え?」


 道が判らない訳ではないらしい。袖を遠慮がちに掴まれるも、表情はどこか必死だ。

 ぶつかった相手に怪我をさせてしまったと焦るのも判るし、手当てをするという気持ちも有難くはある。しかし、もうこんな時間だ。微かに痛みはあるものの、捻挫というほど酷くはないし、支えもなく歩ける程度だ。これなら帰宅してから足に湿布を宛がって包帯を巻けば十分だろう。


「あの、もし、お嬢さん?」


 しかし、満穂が断る前に少女は袖を掴んだまま停留所とは違う道を歩き始めた。

 買い物をしている間に陽はすっかり沈んでしまい、黄昏とも逢魔が時とも呼べる空色と暗さの中、満穂は彼女の厚意にあえて乗っかる事にした。

「すぐそこ」と彼女は言ったが、およそ五分ほど歩いただろうか。気付けば路地裏を通って知らない道を歩かされている。


(ちゃんとさっきの道まで戻って来れるかしら…)


 一応、彼女の後ろを着いて行きながら道順を記憶していくものの、何せ今まで知らなかった裏道を歩いているので不安になってきた。明るければともかく、周囲はだいぶ暗くなってきていて、目印になる建物なども判別付かなくなってきている。

 しかし、こんな時間帯だからこそ、可憐で育ちの良さそうな美少女を独りで歩かせるのは危険だとも思うので、満穂は彼女の厚意に逆らわず大人しく着いて行く事にしたのだ。相手の名前などを世間話のつもりで訊ねてみる。


縫子ぬいこさんと仰るのね。十六歳……一番楽しい時期かもしれないわね」

「えっと、…満穂さんは、今は楽しくないのですか…?」

「ふふっ。大人になっても楽しいわよ。知識と行動力さえあれば、女でも自分で好きな事をやって、自分で好きなものを選べるのだもの」

「好きな…」


 ――パタンパタン、キィ、パタンパタン、キィ、

 徐々に織機の音が響いて来る。そういえばこの辺りに大きな織物工場があると、引っ越した当初聞いた覚えがあった。主婦や田舎から出てきた女工などはこの工場で働いている者も多く、今日の井戸端会議で顔を合わせた近所の主婦や娘も何人かこの工場で機を織っているはず。


「今日は土曜日半ドンなのに、織機の音が聴こえてくるのね…」


 土曜日なら大抵の仕事は半日という職場が殆どだ。だから「日曜日ドンタクの半分」と呼ばれるのに。


「今、納期が近いお仕事が立て込んでまして。勿論、お休みが欲しい人には前以って希望を聞いてますが…」

「え? 縫子さんのお家がこの工場を経営してらっしゃるの?」


 だとしたら結構な社長令嬢だ。この規模の工場を経営し、たくさんの女工を抱えているとなると、かなりの金が掛かる。

 よく見ると工場のすぐそばに立派な邸が建っていた。恐らくは縫子の家だろう。


「裏に外用の階段があって…二階に救急箱があるので、そちらに案内します」

「そうなの? こっちね?」


 大した事がないと言えど、足を痛めた満穂に二階までの階段を昇るのは少々厳しい。しかしこうして歩いてみても、幸い挫いた様子もなく、少し踝の辺りがツキツキと小さく痛むだけで、これは時間を置けば自然と消滅する類の痛みだろうと楽観視した満穂は、工場の外階段を昇る縫子に従って一段ずつ昇って行く。

 せっかく揚げたての南瓜コロッケが買えたのに、しっかり油紙で包んでもらったけれど、流石に少しは冷めてきているかもしれない。兄もそろそろ帰宅している頃だ。家に妹が居なかったら、きっと心配するだろう。本当は今頃、帰って夕餉の支度をしているはずだったのだけど、不可抗力だから説教は大目に見て欲しい。

 二階に入るドアの前まで来ると、縫子はノブを回した。


「どうぞ」


 たくさんの織機の音が階下から響いてくる。一つひとつは大した音でなくても、恐らく三十台ほどの織機がそれぞれの手で動いているだろうから、重なった音は中々に響く。こんな時間まで稼働していたら近所から苦情が来そうなものだが、騒音問題にならないのだろうか。

 ドアを開けた縫子は中に入らず、先に満穂を促した。窓から煌々と灯りが漏れていた一階と違い、二階は誰も使用していないのか真っ暗で。

 恐る恐る中に入ると、床下から外からとは比べ物にならないほど織機の音がよく響く。

 ――パタン、

 ドアを閉める音が機を織る音に紛れて小さく聴こえた。


「…………あの、」

「なぁに?」

「ゴメンなさい…!」


 振り向くと、ドアを後ろ手に閉めた縫子に縫子に勢いよく頭を下げられた。あまりにも唐突な謝罪に、満穂は目を丸くする。


「縫子さん? どうしたの? 何を謝っていらっしゃるの?」


 訳が判らず訊ねると、暗闇に少し慣れた目に映る顔を上げた縫子の顔に、ありありと申し訳ないと書いてある。今にも泣き出しそうな表情に、嫌な予感がした。


「満穂」

「!?」


 背後から突然縫子ではない第三者に肩を掴まれて全身が強張る。声だけで誰だか判った。

 せっかく兄に気を付けろと言われていたのに。まさか見知らぬ少女の帰り道に付き添ったらこんな事態に陥るなんて、普通は予想しない。誘導されていると、もう少し早く気付けていれば。

 振り返った目線の先、暗くて顔がしっかり見えなくても、これだけの近距離、相手がどんな表情をしているのかも判ってしまって。


「登一さん……」


 元許嫁は、驚きに動けない満穂の肩を掴んだまま、読めない表情でそこに立っていた。

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