04
「――登一君が? また来てたのかい?」
「そうなんだけど…。多分、もう大丈夫だと思うわ」
「求婚でもされたのかい?」
「えっ! どうして判ったの?」
「そりゃあ、登一君が満穂に用事なんて、それくらいしか俺には思い付かないもの」
「ちゃんと断ったわ。私、登一さんの事本当はずっと苦手だし…。そもそも、登一さんにはもう新しい許嫁がいらっしゃるじゃない。なのに私を娶ろうなんて、無理に決まってるわ。愛人にするつもりかしら」
「まぁ、ただの妾というより、登一君としては明治初期にあった
「権妻って確か……正妻ではないけれど、正妻とほぼ同格の権限と扱いを認められたお妾さんの事よね?」
「そうそう。戸籍法で籍も入れて貰えるし、いわば第二夫人だね」
「……そりゃあ、ただのお妾さんよりはマシなのかもしれないけど、でも権妻制度はすぐに廃れてしまって今は何の法的処置もない訳だし、結局愛人なのには変わりないでしょ。――許嫁の令嬢が気に入らないにしても、登一さんもどうせ思いきるなら好きになった人に求婚すれば良いのに」
「……それをして、玉砕したって訳かぁ…」
「えっ? もしかして登一さん、既に本命に振られた後? それで自棄になって私にあんな申し出を?」
「そうじゃないよ。…ただ、登一君は素直じゃないし、意地っ張りで矜持の高い子だから……自業自得とは言え、ままならぬものだね、男女の仲は。現実でも創作でも」
ふぅ、と登一を思い浮かべて苦笑した圭祐の顔は、満穂からすれば見慣れた兄の顔でしかないが、繊細な文学少年がそのまま成長したような美青年ぶりは、妹の目から見ても中々に悩ましく、篤正とも登一とも違う魅力がある。
声も素敵だ。母が病弱だったので乳母に育てられた満穂だが、読み聞かせは兄にねだる事が多かった。芝居や落語が好きな兄は本を情感たっぷりに読むのがとても上手だったし、声も優しくて、変声期を遂げた今ではボーイソプラノ時代にはない大人の男の色気が爽やかなテノールに違和感なく溶け込んで、このたおやかな美貌と声に女性ファンがたくさん居るのも判る気がする。
お陰でこうやって、度々土産を持って帰って来てくれるほどには稼ぎも悪くない。ファンからの差し入れもよく頂く。
「それにしても、
「それは良かった。牛は胃もたれするからたくさん食べるのは無理だけど、元気が出るし力も付くから、食べられるならもっとお食べ」
「兄さまもちゃんとお食べになって。また身体が細くなってるわ」
「気のせいだよ。お前こそ、ちゃんと食べなさい。この間髪を切ったばかりだから、痩せると首の細さですぐ気付くぞ」
圭祐は平民になっても嘆くどころか活動弁士として生き生き仕事に邁進しているし、旧友との付き合いも続いている。
かつては満穂と同じように許嫁が居たけれど、祝言間際に身内が起こした騒動で満穂同様、婚約は破談になってしまった。けれど優しく気立ての好い兄ならば、その気になれば嫁などいつでも迎えられると思うのに。
それを言うと、「だったら口煩い小姑が先に片付かないとね」なんて冗談交じりに返されてしまう。兄嫁になる女に口煩い小姑みたいな真似なんぞしないと言っているのに、揶揄うように煙に巻かれてしまうのがオチで。
かつての実家に比べればオンボロだが、今はここが兄と暮らす二人の家だ。この自宅に連れ込みたい女性が居るなら、自分だって気を利かせて一晩くらい帰らずにどこかで風雨を凌ぐのに。
身内の恥なのでとても口には出せないが、東明家は義妹がやらかした事件で帝から厳しい沙汰を下され、結果没落したようなものだ。そんな満穂だけれど、有難い事に女学校時代の友人とは今でも付き合いがあるのだから、宿を取らずとも一夜なら泊まらせてくれると思う。
そう主張してみると、圭祐は糠漬けに箸を伸ばしながら言った。
「そういうお前こそ、好いた男は居ないのかい? せっかく花嫁の生け簀みたいな女学校を誰にも見初められる前に卒業出来て、もっといろんな男達を吟味出来る立場になったのに」
「女学校の事、そんな風に思ってたの?」
「だって、女学校の授業参観なんて、年頃の息子を持った親か独身の男が嫁を探しに来る為の口実じゃないか。実際、そうやって見初められて退学して嫁ぐ同級生は多かったんだろう?」
「それは否定しないけど…。そもそも私、あの頃は登一さんの許嫁だったから、見初められたところでお断りするしかないでしょ」
「そういう意味では、登一君に感謝しないとなぁ。見初めた娘を自力で振り向かせられない男に、大事な妹をくれてやる気はないからね」
花嫁の生け簀、なんて兄の言い方は身も蓋もないが、その通りと言えばその通りだ。
そもそも女学校なのに殿方しか着けないネクタイを結んであげる作法が授業内容にある事からして、「男女平等の教育を」「自立した女性の改革を」と謳ってみても、結局男の為の教育に過ぎない事は入学して早々に悟った。
じゃくっ、と瑞々しさの残る葉物の漬物を噛みながら、圭祐は続ける。
「それに、話を逸らさない。――俺がお前に訊いてるのは、女学校の内実なんかじゃなくて、お前に好いた男が居るかどうかだよ」
「…居ないわ、そんな人」
不意に脳裏をよぎった面影は一瞬でかき消えて、満穂は兄に微笑んで話を切り上げる。
「……ふーん?」
納得したのかしてないのか、圭祐は妹の顔を見てそれだけ返すと、次は煮込んだ大根に箸を伸ばした。
「満穂。暫くは俺と一緒に帰ろう。仕事帰りに俺の職場まで来てくれ。座長に話をして、楽屋に通してもらえるようにするから」
翌朝。いつものようにスラリとした細い体躯に洋装とパナマ帽を身に付けた兄が革靴を履いて出勤するのを見送ろうと玄関に赴いたら、思い出したかのように振り返った圭祐にそう言われた。
「え? どうして?」
「可愛い妹なのに恋人も好きな男も居ないようだから、不憫な妹の為にこの兄が一肌脱ごうと思って」
「余計なお世話なんですけど」
「まぁまぁ。――良いかい? 勝手に一人で先に帰ってはいけないよ。どうしても俺の仕事が終わるまで待てないなら……同僚に家まで送ってもらいなさい」
「どうしたの? 急に過保護になるなんて、兄さま変よ」
「心配なんだよ。嫌な予感がするんだ」
「嫌な予感?」
「二階建ての飯屋には誘われても行かないように」
「二階建ての飯屋さん…」
「鰻屋とか、蕎麦屋とか、色々あるだろう?」
「判ってる。……二階建ての飯屋さんは、お二階が出会い茶屋みたいになってるんでしょう?」
箱入りの華族令嬢だった頃は知らなかったけれど、今の満穂はただの庶民で、出版社に勤めて世間もそれなりに見知った大人の女性だ。二階建ての飲食店は大抵二階の各部屋に布団が敷いてあり、そこで男女がまぐわうのだという事くらいは知っている。
「ちゃんと理解してるなら安心だ。…陽が長い時期は、ついつい遅くなりがちだろう。夜道には気を付けなさい」
二十歳過ぎでそれなりの家柄に生まれ育ったのに恋人も居ない満穂は嫁き遅れだが、明治後期辺りから女性の平均結婚年齢は上がっていて、満穂のように二十歳を過ぎても未婚の女性は意外と居る。登一には「薹が立ってる」と言われたし否定はしなかったものの、世間一般から見ればまだ充分「年頃の娘」と言える。
そんな身内を持つ家長として、兄のそれは当然の心配ではあったけれど、「どうして急に」という疑念がよぎる。
「兄さま、」
「行って来ます」
パナマ帽の鍔を軽く上げて微笑んだ圭祐の優しい瞳は、いつもと変わらない。
兄から惜しみなく愛情を注がれ、満穂は今日も清く正しく美しい妹として、彼に守られて生きている。
二十歳も過ぎた大人で自立したモダンガールともあろう者が、兄にいつまでも守られているなんて…、と思う気持ちもあるけれど、「嫌な予感がする」と心配している兄の気持ちを無下にしたい訳ではない。
満穂は半分圭祐に育てられたようなものだから、自覚はないもののブラコンであった。
退勤した満穂の勤める出版社は銀座、兄が勤める活動写真館は日本橋。距離としてはそんなに離れておらず、仕事帰りの徒歩でもさして疲れないくらいには近い。市電を使うのは金が勿体ないので、満穂はいつもと違い、日本橋方面へと足を向けた。
日本橋周辺は、銀座とはまた違う賑わいを見せる。花街の色が強く娯楽の揃った街だからか、活気があって精力的な空気に満ちている。
キネマ座に近付くと、出待ちの女性客がズラリと列をなして弁士の退勤を今か今かと待ち構えていた。若干の気後れを感じつつも、満穂は切符売り場に歩を進める。顔馴染みの売り子に声を掛けると、顔を見ただけで「あぁ、東明の妹さん!」と売り場から出てきた。
「東明から話は聞いてますよ。東明の出番は今日はもうおしまいだからね、こっち」
「はい」
建物の裏手の楽屋口から内部に案内され、靴を脱いで廊下をトタトタ歩いて行けば、一つの畳敷きの部屋に通される。何度か入った事もある兄の楽屋。
「兄さま」
「満穂か。お入り」
姫鏡台の前に座っていた圭祐は上着を脱いでネクタイを緩めてボタンも二つ外し、寛いだ格好をしている。髪も少し乱れて、汗で湿っているのをふわりと掻き上げる仕草も様になっており、東明圭祐弁士のファンが見たら卒倒しそうなほど色っぽい。
仕事中は熱弁するから、口演の後は冬でも暑くなると言っていた。そんな彼の手には小さな竹製の容器があり、中には苔色と象牙色の金平糖がコロコロと詰まっている。
昨日貰った金平糖を二人で分けて、兄の分は小さな蓋付きの竹器に詰めて持たせておいた。兄の仕事は声が命だから、喉に良いとされる飴は有難い土産であった事は確かだ。何せ糖や蜜といった甘いものは安くない。
昨夜、歯を磨く前に一粒ずつ摘まんでみたところ、苔色は甘い中に仄かに苦味がアクセントとなって味わい深い抹茶味で、象牙色の方はスッと鼻を通るような爽快感にピリリと辛みが特徴的な生姜味。特に生姜味は有難い。甘いだけではなく生姜の煮汁も使った金平糖は、商売道具が喉の圭祐の為にあるようなお菓子だ。
飴とは少し違う食感の砂糖菓子を口に運ぶ仕草も品があり、圭祐が元華族の御曹司だった事が所作の一つひとつにも表れている。
「兄さま、早速召し上がってるのね」
「金平糖は食べ易いし、喉にも良いからね。生姜の方を多めに分けてくれたんだろう、満穂。有難う」
「気にしないで。抹茶味の方が私、好きだもの。――それより兄さま、帰りに蒟蒻と鷹の爪を買おうと思ってるんだけど」
「蒟蒻の煮物かい? 良いねぇ。ただ、お前の味付けは米がよく進むから、食べ過ぎに気を付けないといけないけれど」
「輪切りにした鷹の爪を少ししか入れてないのに、たったあれだけでピリ辛になるから入れ過ぎに注意しないといけないのよね」
昨日の大根の煮物も残っているが、二人の夕飯にするには少々心許ない。蒟蒻の他に何を作ろうか。いっそ惣菜を一品買ってしまおうか。つましい暮らしをしているものの、偶に出来合いのものを買うくらいの余裕はある。何せタイピストは高給取りなもので。
活動弁士としての兄は人気者なので、駆け出しの頃ならまだしも、今ではそこそこ給金は得ている。けれど何よりも兄が生き生きと働いている姿が満穂には嬉しい。
没落してから卒業するまで満穂を養ってくれたのは圭祐だ。その圭祐の稼ぎが高かろうが低かろうが、自分が今まで貰った分まで稼げば良いのだから何も問題はない。しかも兄は人気の活弁なので、仕事にあぶれる事はまずない分、今のところは安泰だ。
「じゃあ、俺の身支度も終わってるし、帰ろうか。蒟蒻だけで良いのかい?」
「ん-と……何か惣菜も買おうと思ってるの。私、ついつい簡単に作れる煮物料理が殆どだから、兄さま飽きてるんじゃないかと思って…」
「お前の料理に飽きる日なんて来ないけど、お前の料理をいつまでも食えると思えるほど、俺はめでたくもないよ」
「なぁにそれ」
「意味が判らないならそれで良いさ」
本当は、圭祐の言いたい意味はおぼろげながら判る。――いつか遠くない日に嫁に行くだろうから、一生妹の手料理を食べ続けられるなんて思っていない、と言いたいのだ。
自分が片付くまでは、やはり兄は誰かと所帯を持つ気はないのだろうか。とはいえ、結婚など一人で出来るものじゃなし、相手が居て初めて可能になる。ただの惚れた腫れたの男女交際でさえ、身持ちが固い満穂は軽々しく承諾出来ない。結婚となれば尚更身構えてしまう。
登一の許嫁になって、この子の妻になるのだと覚悟して親しくなろうと満穂なりに距離を詰めるべく頑張ってみた時期もあったが、一向に仲良くなれずに途方に暮れていたあの頃、いつしか結婚に夢も期待も持てなくなってしまった。
けれど、今はそんな登一とは無関係の間柄になっている。実家は没落してしまったし、父が死んだ今、現在の家長は自由で満穂の選択を狭める事を良しとしない理解あるこの兄だ。結婚相手は父か兄が決めるものだと思って生きてきた満穂は、今や自由恋愛が出来る立場であるのに、中々踏み出せずにいる。
好意を寄せられた事がない訳じゃない。寧ろ、女学生の頃から、偶に男子学生や書生から恋文を頂いた経験もある。勿論、許嫁が居るからと丁重に断っていたので、男女交際の経験など皆無だ。
没落して登一との婚約を破棄された後も、華族令嬢からいきなりその辺の平民よりも質素な暮らしを余儀なくされ、兄を支えながら生活するのが精いっぱいだった満穂に色恋沙汰が割り込む余地など全くなく。
気付けば二十一になっていた。卒業して既に三年の月日が流れているのに、職業婦人として自立もしているのに、恋愛に関してはどうにも積極的になれないのは、華族の人間にとって結婚は家の為であり相手を選べない、という前提で生きてきたからかもしれない。いきなり自由に相手を選んで良いと言われても、どうしたらいいのか判らなくて戸惑う。華族令嬢にとって、自由に選べるものなど数えるほどしかないので。
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