03

「それでは、失礼します」

「お疲れ様、東明さん」

「夜公演まで後半刻もないわよ! 急がなくっちゃ」

「そうね。せっかく東明弁士の初日の切符を融通してもらえたのに、遅刻なんてしたくないもの」

「じゃあ、満穂ちゃん、切符本当に有難う!」

「私達、キネマ座に行って来るわねー!」

「はい、お気を付けて」

「満穂さんはお兄さんの仕事ぶり、観に行かないの?」

「家で毎日練習してるから、新作の内容は公開前から覚えてしまうんです。だからいつも、日を置いてから観に行くようにしてるんですよ」

「身内が活弁だとそういう弊害があるのね…。じゃあ、途中まで一緒に帰りましょ」

「はい」


 まだ編集作業の為に残っている同僚達から労いの言葉を掛けられ、頭を下げて従業員用の裏口から外に出ると、空は夕焼けの名残こそあれどすっかり陽が沈んでいた。昼間は丁度良かったワンピースも夕方近くになると少々肌寒く、念の為に持って来ていた臙脂色のボレロを羽織る。

 仕事の間、邪魔な前髪をスッキリ上げる為のカチューシャを外した頭にはリボンが付いたクロッシェを被り、洋靴の踵を小さく鳴らして颯爽と歩く姿は、誰が見ても快活なモダンガール。

 そうして、途中の十字路で家が反対方向の同僚と別れてからは、とっくに抵当に入れて手放したかつての実家――東明邸を通り越し、旧いが手入れして人が住めるようになった元空き家の自宅を目指す。

 職場から徒歩二十分ばかりで着く現在の自宅は、女が兄と二人暮らしするには少し広いものの、二束三文ですぐに手に入る物件が偶々これしか見付からなかったし、満穂自身、住むには何の問題ないので掃除だけは手が空いた日に纏めてやっている。道中に市がある為、よほど夜遅い時間でなければ仕事帰りに食材や日用品を買えるのも助かる。

 自宅が見えてくると、玄関前に誰かが立っていた。目を瞠った満穂だが、その後ろ姿に心当たりがある分、無下にも出来ない。静かにため息を吐いて、声を掛ける。


「……。こんな時間に、何の御用でしょう? 登一とういちさん」

「満穂」


 すっかり大人になった登一は、綺麗に撫で付けた七三の髪から椿油の匂いが仄かにする。

 老舗呉服屋の跡取りである彼は常に和装だ。今日も錆御納戸色の着物に濃紺の角帯がキリリとしながらも落ち着いた色味で、神経質そうな面立ちの彼によく似合っている。

 満穂より一つ年下の彼は、卒業してから家の事業に携わるようになったと聞く。随分羽振りが良いようで、洗練された佇まいや雰囲気から、素人目に見ても彼がどこかの御曹司か高貴な生まれの青年だと見抜けるだろう。


「こんな時間、は僕の方が言いたい。貴女はいつもこんな時間まで帰らないんですか? 妙齢の女性なのに、こんな時間まで…」

「働いてますから。こんな時間になるのは仕方ない事でしょう?」


 黄昏時で、夜というほどでもない。夏ならば空だってもっと明るい。今は秋口だから陽が沈んでしまっているだけで。出版社の社長や編集長は「夜道は危ないから」と女達を決して遅くまで働かせる真似はしないので、良心的だと思っているのに。


「男爵令嬢とは思えないな。働くなんて、令嬢にとっては屈辱的で恥ずべき事ではないのか? よくも平気な顔をしていられる…」

「今はもう、男爵令嬢でも何でもありませんから。登一さんともとうにご縁は切れましたでしょう? 今更私に用など何もないはずですから、そろそろ訪ねて来るのをおやめ頂きたいです」


 彼が満穂を訪れるようになって、もう二ヶ月ほどになる。

 今日で三回目になるが、顔を合わせる度にねちねちといやらしい。満穂にはどうしようもない事を言ってくるから、我慢しているものの鬱陶しくて辟易しているので、いい加減これで最後にして欲しい。

 そんな気持ちがつい言葉に滲み出てしまったようで、いつもならそこまで言わないのに今夜はつい口からまろび出てしまった。案の定、高飛車で気難しい面のある登一は満穂の言い分にカチンときたのか、不快そうに顔を顰める。


「満穂、貴女は今までそんな発言はしなかった人なのに、いつの間に可愛げのない事を言うようになってしまったんですか? やっぱり、女は社会に出るとロクな成長をしないな…。あんなに綺麗だった髪もそんなに短くして、その格好も嘆かわしい。足をそんなに出して…何がモガだ」

「私は好きな髪型にして好きな服を着ているだけで、登一さんには関わりない事かと。…今日は疲れていますので、玄関から退いて下さいませ。これでは家に上がれません」


 風呂敷に包んで提げた大根や塩が重い。

 そろそろなくなりそうな塩まで買ったのはついでだったが、まさか登一が来ているなんて。こんな事なら明日買えば良かった。


「僕も上がらせてくれれば良いだけの事だ。話があると言って訪ねてきているのに、満穂はいつも僕を帰そうとする」

「私は登一さんが先ほど仰ったように、妙齢の女性です。少々顔見知りなだけの他人をこんな時間に、まだ兄が帰宅する前で自分だけの自宅に招き入れるなんて、殿方でなくても怖くて出来ません」

「他人…? 僕を他人と言ったのか」

「他人じゃなかったら何です? だって実際、登一さんは私の身内でも何でもありませんもの」

「……っ、許嫁だ」

「元、が抜けてますよ」


 間髪入れずにそう返してやれば、神経質そうな顔に益々不快を示す眉間の皺が刻まれた。けれども、満穂とて本当の事を言っているだけだから、一々不機嫌になられても迷惑だ。

 登一は家同士が決めた許嫁――正しくは、元許嫁である。

 これといって特徴のないただの男爵令嬢だった満穂と、華族との繋がり欲しさに老舗の大店の跡取り息子である登一が家同士の思惑などから婚約したのは、およそ七年前の事。

 婚約期間は三年足らずだったが、遅くに生まれた跡取りだからか蝶よ花よと育てられた登一はこんな風に居丈高なところがあり、人前では満穂を許嫁として丁重に扱っているように見せながらも、言葉に端々に皮肉や嫌味めいたものを乗せてくる。許嫁が年上という事実も気に食わなかったようで、満穂をただ運良く華族に生まれただけの少女と見ているのか、軽んじるような発言も多々あった。

 悪気があるのかないのか判らないにしろ、夫唱婦随たれと躾けられた満穂であるが伴侶になる少年から小馬鹿にされるような言動を取られる度にしんどくて、義妹のやらかしで爵位を取り上げられ没落してしまった東明家や家族や使用人達の事を思えばとても喜んではいけない事と判っていたけれど、正直、彼との婚約が白紙になった事だけはこっそり胸を撫でおろしたほどで。


「とにかく、登一さんとのご縁は既に絶たれています。何のお話があるのかと以前お待ちした事もありましたが、口を開けたり閉めたりするばかりで、結局何も言わずに帰ってしまわれるじゃないですか。今更お話する事もあるように思えませんが…」

「う、五月蠅い! ……満穂は、そうやって男に楯突くような言動を控えれば理想的なのに、勿体ないですね」


 結局、何が言いたいのだろう。登一は肝心な事を言わないから、いつも困る。

 今日もこんな風に、何が言いたいのか判らないまま変な押し問答を続けた挙句、グダグダになって登一が顔を赤くして怒りながら「また後日、仕切り直します」とか訳の判らない事を言って帰るのか。その間、自分は重い大根と塩を包んだ風呂敷をずっと提げたまま突っ立っていなければいけないのか。勘弁してほしい。


「…もうお帰り下さい。私、本当に疲れていて、早く床に就きたいんです」


 実際は夕餉の支度をするくらいの元気はあるが、そう言って玄関前から退かすのがいつもの手だ。

 登一も少々嫌味なだけで、平民になって暮らしがガラリと変わってしまった満穂を心配する気持ちは一応あるらしい。

 華族の令嬢だった元許嫁が慣れない労働で身をやつしているように見えるのか、「疲れている」「早く床に就きたい」という発言には弱いらしく、今夜も名残惜しそうではあるものの、陣取っていた玄関の前からやっと身をズラした。


「あの…、満穂」

「何でしょう」

「……僕の家は、かつて爵位を持っていた東明家に魅力を感じてました」

「そうですね」

「でも、今は華族に多大な憧れも期待も抱いてない。華族という身分や爵位に頼らずとも商売は順調で、洋装が流行り出しても、顧客が減っている訳でもない」

「それは…、素晴らしいです」

「だから、……男爵令嬢ではなくなった満穂に、今更取り入る利点は何もない」

「そうですね」

「でも、僕は貴女と祝言を挙げるものだとずっと思っていて…、だから、今更華族に取り入る必要もないくらい家業が軌道に乗っていて、貴女を娶る事に何の不都合もない」

「……娶る?」


 聞き間違いであってほしい単語が聴こえた気がする。だって、三年半前のあの事件は、婚約が白紙になった一点だけが満穂にとっては喜ばしい出来事だったのに。

 瞠目して訊き返した満穂に、不機嫌そうな顔で登一がやけっぱちみたいに怒鳴った。


「……そうだ! 僕は結婚を申し込みに来てる! 満穂だって、僕と婚約してたんだから、僕に嫁ぐ事に異論はないだろう!?」


 ありまくりです。……とは、流石に立場上、言い辛い。

 そもそも、彼が満穂に拘る理由が判らない。婚約期間中、満穂に対して慇懃だった登一を忘れていない。好かれていると感じた時は殆どなかった。寧ろ一瞬もなかった気がする。

 家の事情で結んだ婚約が白紙になってせいせいしたのは登一の方も同じだと思っていたのだけど、実は違うのだろうか。愛はないけれど妻として御し易そうとか、そういう事かもしれない。


「ですが、登一さんは随分前にご婚約されたと、風の噂で聞きましたが」

「……っ、それは…、」


 満穂との婚約を白紙にし、別の華族令嬢と婚約したというのは小耳に挟んだ。結婚はまだのようだけど。

 別に彼の実家が殊更有名なのではなく、昨今のメディアは華族というものに憧れを持ち、特に未婚の令嬢は一種のアイドルやマドンナのように扱って、雑誌にも澄まし顔の令嬢の写真やプロフィールが掲載される事も珍しくなくなっていた。そのブロマイドを見て求婚してくる男性も多いと聞く。

 元許嫁が別の令嬢と婚約したのを知った経緯も、出版社で働いているから雑誌の記事を編集している時に偶然知っただけに過ぎない。


「婚約の件は…、僕は今でも納得してない」


 満穂と登一の婚約も家同士が決めた事で、当人の意思など確認していない。そういう意味では、自分との婚約も登一は納得しているように見受けなかったが。何せ自分の方が一つとは言え年上だった訳だし。

 もっとも、その年齢差のお陰で満穂は彼が結婚出来る年齢――満十七に達する前に婚約を破棄してもらえたのだけど。


「ですが、婚約は本決まりでしょう。結納も済ませているはずでは?」


 その上で満穂も娶ろうだなんて無理に決まっている。明治初期までと違い、現在はもう、一夫一妻制になっているのだから。妾にするつもりなのだろうか。


「今年で満穂も二十一だ、とうが立ってる。そのせいで縁談の話がないというなら、多少の責任は我が家にもあるんじゃないか。だったら僕が、」

「あの件に関しては、私の身内が原因であって登一さんの御実家には何の関わりもありませんでした。ですから登一さんがご心配される事は何一つありません。私ももう男爵令嬢ではなくなりましたし、家のしがらみはあってないようなものですから、兄にも「この人」と思った相手と人生を育んでくれれば嬉しい、と言われてます。最近は自由恋愛も流行ってますから、私も恋の一つはしてみたいと常々思っておりましたし。――ですので、今のお話は聞かなかった事にしますね」

「えっ…、じ、自由恋愛って…、恋をしてみたいって…」


 何やら感じなくても良い責任を感じていたらしい。満穂はもっと深刻な理由かと思って身構えたが、何の事はない。

 何やら呆然としている登一を置き去りにさっさと戸を開けて中に入り、さっさと鍵を掛ける。ようやく長いため息を吐いて、編み上げブーツの靴紐を解いた。

 いきなり求婚されてビックリしたし、過去の彼の言動を思い出して心臓が嫌な感じでドキドキもしたが、これで変な責任を取られずに済んだ。はず。もう大丈夫。

 圭祐も以前に待ち伏せしていた登一と遭遇していたらしく、心配はされていたのだ。でも登一の「話」も今夜ようやく聴けたし、申し出もハッキリ断れた。登一もせっかく白紙になった婚約の事など忘れて、新しい許嫁のお嬢さんを年上らしく大事にすれば良いのに。

 気鬱だった登一の来訪の理由と原因が判ったと同時に解決も出来て、満穂はすっかり気分が軽くなり、大根をリズミカルに切って水を張った鍋にボチャボチャ入れて醤油とみりんで煮炊きする。

 今夜の夕餉は大根の煮物と冬の間に漬けておいた白菜の糠漬けくらいだが、兄の圭祐が帰宅する頃には雑穀米も良い感じで炊けており、土産にと持って帰ってきたのは嬉しい事に牛肉の佃煮。おかずが一品増えたから今夜は豪華だ。

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