02

 銀座は製紙工場が幾つかあり、印刷業も盛んで出版会社も多い。

 篤正は新聞や雑誌の記者をしており、取材の為しょっちゅう県外にも出掛ける。顔を見たのはおよそ十日ぶりだった。久々と言われればそうかもしれない。


「そのワンピース、初めて見るね。梔子色か。満穂さんの健康的な清楚さと白い肌に、よく似合ってるよ」

「ふふ、有難う御座います。最近少し涼しい日もあるので、そろそろ秋らしい服が欲しいと思って、この間の休日に百貨店に行ったら一目惚れしました」


 昨年の夏、先帝がお隠れになられた為、国民の大半は祝言や新年といっためでたい日を除いて地味な色合いの服ばかり着て過ごしていた。特別な日でもない限り、日常的に明るく華やかな色味の服を着るのが憚られる空気だった。

 喪が明けて、満穂だけではなく周囲も色とりどりの綺麗な服を着るようになってまだ一月ほど。生地は夏物の絽や紗や麻に比べれば木綿だし、下にシュミーズを着ているから多少透けても問題ないし、上着を羽織るか肌着を厚めのものにすれば秋の中頃まで着られるだろう。

 付け襟がし易い広めに開いた襟ぐりと、スカートも広がり難いマーメイドラインだから「少々風が吹いてもズロースが見えてしまうほど捲り上がらないだろう」と思って買った。

 満穂は女学生の頃こそ髪は腰を覆うほど長く、着るものも殆ど和服だったけれど、今は洋服も着るし、髪なんて親が見たら卒倒しそうなくらい短い。何より、働いて身銭を稼ぐなんて、親が知ったら卒倒どころじゃ済まないだろう。……その親も、もう亡くなってしまったから何も問題ないけれど。


「…満穂さんに一目惚れされるなんて、随分と幸運なワンピースだ。僕なんて、一度もされた試しがないのに」

「まぁ、加地さんったら。本当は一目惚れなんて飽きるほどされていらっしゃるのに、おかしな方」


 思わず口元に手を当てて笑ってしまえば、歌舞伎役者にも劣らぬ白く耽美な顔の眉尻が、「降参です」と言わんばかりに情けなく下がる。

 仕事柄、人と接する事が多く取材の為に身に付けたのか、元々そういう性格なのか、篤正は甘く垂れた目尻の色男めいた風貌かつ、口が上手くて人懐こい。それでいて、馴れ馴れし過ぎない。距離感の取り方が上手い。

 秀麗に整った顔立ちにスラリとした体躯で背広を着こなす男が愛想良くニコニコしていれば、初心な小娘も世慣れた人妻も簡単に熱を上げるだろう。事実、この出版社でも部署の内外問わず時折見かける光景だ。彼自身、己の見目の良さを充分に理解して振舞っている節もある。

 だから、満穂は随分と世話になった篤正に親愛の情を向けているけれど、その言葉を本気に取らない。どんな女性にも告げているだろう軽口めいた口説き文句を受け取ってお礼を述べるけれど、それ以上の好意は出さず、いつも笑顔で躱すだけ。


「そうそう。これ、お土産だよ。あとで皆さんと食べてくれ」

「はい」


 彼の手が掲げて見せてくれた唐草模様の風呂敷包みはずっしり重そうだ。聞けば、京都土産らしく八つ橋なのだという。


「それと、これは満穂さんに。タイピストになってくれて、感謝してるよ。いつも頑張ってくれてるから」


 京都らしい、雅な和紙の小さな箱は、満穂の手のひらにちょこんと乗るほどで、気後れせずに受け取れるサイズを選んだのだろう、と判るけれど。金平糖だろうか。金平糖はじっくり時間を掛けて作られる飴だから、安くはないはず。


「そんな、わざわざ…。私がタイピストになったのは家計の為であって、加地さんのお陰だから、私の方こそお礼が追い付かなくて困ってしまいます……」

「否、本当に。君が就職してくれてから、業務が捗るって皆も喜んでるよ。教養深いタイピストが一人居るだけで、随分違うんだ。それは満穂さんが勉強を疎かにせず、常に今も新聞を読んで世情に明るくあろうと努力してくれているお陰だ。……上品な甘さで美味しかった。お兄さんと食べてくれ」

「…では、有難く頂きますね。兄も甘いものは好きですから、きっと喜びます」

「そうだね」

「それでは、私も作業がキリ良く終わったので、お昼ご飯に行ってきますね」

「…うん。――あ、少し待ってくれないか」


 立ち上がって横を通り過ぎる時、呼び止められる。


「? 何でしょう?」

「その…、少ししたらすぐにまた出掛けなくてはいけないんだが、…汽車の中で解いてしまって……ネクタイを結んでほしいんだ」

「あぁ、いつものですね。お安い御用ですよ」


 篤正は記者なだけに足が命だ。たくさん歩いて走り回るなら袴と下駄よりはズボンと革靴の方が動き易いという理由で背広を着る事が多いのに、ネクタイを結ぶのが苦手で、自分だと上手く結べないからと、いつも誰かに結んでもらうらしい。

 社内では一番綺麗に見栄え良く結べるのが満穂だという事で、彼は満穂が女給だった頃から、珈琲を飲みに来た際、会計する時にネクタイを結んでほしいとよく頼んできた。

 女学校は良妻賢母を育成する女子の為の学校という面も強いので、家政科では何と男性のネクタイを結ぶ授業すらあったから、満穂は夫も居ないのにネクタイを上手に結んであげる事が出来る。夫の身支度を整えるのは妻の仕事なので。

 女学校に通っていた頃に初めてこの授業を受けた時、帰邸して早々に兄を捕まえ練習台にしたから、先生にも褒められた。

 兄は自分で綺麗にネクタイを結べるけれど、出待ちのファンにもみくちゃにされて襟元がよれよれになってしまう事も珍しくなく、待ち合わせして一緒に帰る時など、時々可哀想な有様になった圭祐のネクタイを結び直してやったりしている。

 これは妹としての意見だが、せっかく優麗な雰囲気と容姿を持った兄だからこそ、出来れば常にカッコ良く居て欲しい。……我が儘かしら。

 偶々社内では一番上手く結べるから満穂に頼んでくるが、篤正の色男ぶりなら、頼まれる前から彼のネクタイを毎朝だって結びたいと女性達が列をなすに違いない。汽車の中で解いたという事は、恐らく取材先の京都に滞在していた間も、誰かしら捕まえてはこうして結んでもらっていたのだろう。


「……」


 少しだけ、胸の奥が微かに軋んだような気がしたけれど、満穂はその小さな痛みを無視する。

 ポケットからキチンと折り畳んだネクタイを取り出した篤正から今日の背広によく似合う瑠璃色のそれを受け取って、彼の襟にきゅっと結んでやる。篤正の首が窮屈さを感じない程度に、けれど決してだらしなくないように、しっかりと丁寧に。もうすっかり慣れたものだ。


「出来ましたよ」

「有難う、満穂さん」

「皆さんも仰ってましたが、お疲れなら無理して出社してこなくても良かったのでは…」

「満穂さんに一目会いたくてね。――この後も用事で出掛けなければならないし、そのまま直帰する予定だから。会うなら出社するしかないだろう?」

「ふふ。加地さんは本当にお口がお上手。まるで口説かれているみたい」

「その通りだから、そのまま受け取ってくれて構わないよ」


 こういう事を耽美な面差しに微笑みを浮かべて息を吸うようにサラリと言うから、満穂は笑って受け流すけれど内心では少し困ってしまう。

 彼は行く先々で初対面の女性であろうとネクタイを結んでもらえるほど、その手の相手には困らない。そういう容姿と魅力がある。

 そんな男に浮ついた遊びの言葉を投げかけられても、信じるのは難しい。開放的なモダンガールに見せかけても根っこの部分では「志操堅固たれ」と育てられた生粋の華族令嬢である満穂は、本気に受け取れない。


「……否、済まない。困らせたかな」

「…いいえ……」


 微笑みでは隠しきれない困惑が滲んだ満穂の表情に目敏く気付いて、篤正が反省するように淡く苦笑して後頭部を掻く。

 満穂は何と答えて良いのか判らず、緩慢に首を振って取り繕うように否定したけれど、困った顔を隠せなかった手前、それが嘘だと篤正の目にも明らかだろう。

 もう少し、世慣れた大人の女性だったら。モダンガールを気取るならば、先ほどの軽口にも動じず、あでやかに微笑みながら「嬉しいわ。本気にしたらどう責任取ってくれるの?」と同じように軽口を叩いて受け流すくらいは出来て当然なのに。

 満穂にとって、篤正はただの同僚で先輩というだけではない。タイピストの免許を取る為の学費や経費を全て会社ではなく彼個人の財産で賄ってくれた。――要するにパトロンだ。

 彼は恩着せがましい事を一切言わないし、恩を返せと強要もしてこない。満穂の転職にも口添えしてくれた。それは教養深く世事に長けたタイピストが出版社に欲しかったというのが理由だから彼にしても無償奉仕ではないだろうが、満穂にとっては恩人である事は確かで。

 だからこそ、篤正の本気か挨拶か判らない好意にも応えるべきなのか、あえて徹底的に流すべきなのか、満穂にも判断付かない。

 満穂が元令嬢で女学校での成績も良かった事を知った彼にタイピストにならないかと話を持ち掛けられた時、有難いと思うと同時に、もし見返りとして身体でも要求されたら拒否してはいけないのだろう、と貞操を失う覚悟もしていた。

 もっとも、篤正は色男だが紳士なのでわざわざ経験のない小娘を散らすほど酔狂でもないらしく、そもそも女に餓えていないから、あえて満穂に手を出す必要性を感じないのだろう。

 篤正のお陰で満穂は前の暮らしより余裕がある。

 女給も決して給料が低い訳ではなかったが、タイピストの給料はカフェーで働くよりもはるかに良い。何せ専門職なので。


「…お昼休憩、頂いてきます」


 やや気まずい空気になってしまい、満穂はビーズを編んだハンドバッグを掴むと、それだけ告げて逃げるように編集室を出た。

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