01
まだ在学中であった頃、諸事情により東明家が没落の憂き目に遭った。財産は殆ど消え爵位も返上、父は心労困憊の末に還らぬ人となり。
当然、女学校に通う金子どころか、生活もままならなくなって、満穂は中退して働きに出るつもりだったのだけど、四つ歳の離れた兄――
圭祐は華族の男爵令息という身分と血筋により、十二歳から学校の先輩の伝手で紹介された侍従職出仕に就き、皇室に勤めていた。侍従職出仕とは、平たく言えば帝や東宮といった尊身の近侍として身の回りのお世話をさせて頂く小姓の事を指す。
侍従は職務の内容や状況によっては後宮の皇女や女官などと顔を合わせたり話し合ったりする機会も多いが、既婚であればともかく、未婚の女官はいわば皇室男子の側室、或いは側室候補であるのは暗黙の了解だ。仕事の為とは言え過度な接触によって男女の愛が芽生えれば、仕えるお方を裏切る結果となってしまいかねない……。
そんな不祥事を起こさないようにするには、皇女や女官への御用聞きや雑用を必然的に精通を迎えていない少年が請け負うのが一番安心だし安全だ。
もっとも、帝には正妻の皇后が居るし、女官全てに手を付ける訳でもなし、自分の愛人ではない女官が誰と火遊びや恋をしようと、目を瞑ってやるくらいの度量はあるはずだが。そうでなければ既婚の女官は即座にクビになってしまう。
成長期に入って青年に差し掛かる前、身体の成長具合によって十五歳くらいで侍従職出仕は任を解かれるのが通常である。それまでの仕事振りや人格などで好評価を得られていたら、今度は侍従職として再就職の勧誘もある。
圭祐は侍従職出仕を辞めておよそ二年ほどは青春を謳歌し学業に精を出していたが、またお声を掛けられたのを機に、今度は東宮侍従に任命された。名誉な事だ。
しかし、実家の没落は身内が引き起こした恋愛沙汰が発端であり、それは上流階級の人間を複数巻き込んで、危うく皇室の人間も巻き込まれかねなかった。当時は大々的に新聞の一面を飾ったほどである。よって、東明家はお上からの処罰を下されての爵位返上、没落と相成った。
流石に身内としては、のうのうと宮内省に勤めて今までのように近侍として高貴なお方のお世話をする訳にはいかない。そこまで厚顔になれる訳がない。
兄自身の仕事振りや人柄に問題はなく、落ち度はなかったが、圭祐は身内の恥を理由に、東宮侍従をクビになる前に自ら辞職した。
圭祐が侍従を辞めたから満穂も女学校を辞めるつもりでいたのに、兄は知的好奇心の強い満穂が学問を好いていると知っていたし、今の時代、女子にこそ教育は必要だと感じているらしく、絶対卒業させてやると息巻いて、何と活動弁士を始めた。
兄のお陰で満穂は没落後、平民よりつましい暮らしでありながら、授業料だけは払う事が出来た。卒業するまで女学校に通う事が出来た。有難い事だ。
圭祐は男爵令息であった頃から芝居や落語が好きで、だから活動弁士になろうと決めたのだろう。活動写真――無声映画の上映中、そのフィルムの邪魔にならない傍らに控えて、内容の解説やセリフを滔々と喋って聴かせる職業だ。
元は華族の出であるから、言葉遣いは丁寧だし上流階級の人間の機微や風習にも詳しく機知に富んでいるので、庶民が弁じるには知識が足りず難しい立場の人物が出て来る内容でもスラスラ解説が出来る。声も朗々と張りがあるテノールで、育ちの良さから来る佇まいや繊細な顔立ちなど、女性人気も高い。
満穂の職場にも固定ファンは居て、新作の予定が決まれば、初日の切符を融通して欲しいと頼まれる。圭祐は育ちの良さからする洗練された立ち居振る舞いに、文官さながらの物腰柔らかな言動と細身で威圧感のない優し気な貴公子振りが、横柄な男に囲まれて暮らしている女子の心をガッツリ掴んでいるらしかった。
卒業してすぐに満穂は、銀座のカフェーに就職した。いつまでも兄だけに稼ぎを頼る訳にはいかない。
女給として雇ってもらい、白いエプロンを着けて注文を取り、カップや軽食を客に届ける日々に慣れてきた頃、一人の男性が来店するようになった。
偶に書生風の恰好の時もあるけれど大抵洋装の背広姿で、ネクタイを結ぶのが苦手なのか、胸ポケットに畳んで入れているもののその首元に結ばれている時は滅多にない。
あまりにも見目麗しい容貌をしているので、女性客も女給仲間も目を奪われてしまい、チラチラと視線が集中するほどの色男なので、満穂も一発で顔を覚えてしまった。
何度か訪れては珈琲と軽食を注文する彼の事を、最初はどこかの舞台役者かと思っていた。満穂もうっかりすると見つめてしまいそうになるから、いつも彼を誰がもてなすかで同僚達がバチバチ火の粉を散らすから、ここぞとばかりに彼女達に注文取りや給仕を押し付けていたけれど、給仕の最中、彼の就いたテーブルの横や前を通りすがると、声を掛けられる事が多くなって。
『――ねぇ、矢絣のお嬢さん』
『!? …はい。ご注文ですか?』
『そう。珈琲と、卵のサンドウィッチを頼めるかな』
『畏まりました』
同僚達は、彼が来店すると意気込んで注文を取りに行っていたけれど、訊きに行くのが早過ぎて「済まない、まだ決めかねていて」と断られるから、呼ばれるまで待機する姿勢に変えていたのだが、彼からすれば注文したい時に偶々通りすがった女給なら誰でも良い訳なのだから、満穂に声が掛かってもおかしい事じゃない。
けれど、何故か満穂に声を掛ける確率が他の女給達より少し多かった。とは言え、頻度としては毎回という訳でもなく、気にしなければ自意識過剰、気のせいだと思えるほどのささやかな違いで、だから満穂も自分が目当てだとは、とある申し出をされるまで気付けなかったのだけど。
とある申し出をされたのは、彼が来店するようになって半年ほど経った頃か。
『こんにちは。緑袴のお嬢さん。――注文の後、君に少し個人的な話があるんだけど、君の休憩時間を少し借りられるかな?』
『え? えぇと…、当店はカフェーですが、当店の女給は、そういった事は……』
喫茶店には二種類あって、純粋にソフトドリンク系の飲食や客同士の会話を楽しむ健全的な純喫茶と、着飾った若い女給を隣に座らせて会話しながら酒などの飲食を楽しむカフェーがあり、満穂が勤める店は、「カフェー」と銘打っているものの純喫茶寄りの店だった。
給仕に男は一人もおらず、独身の女給で統一されているのは確かだが、それは店主が、金も身分もない若い娘が身一つで働くとなると春を鬻ぐくらいしかないから、そういう事をしたくない娘達の為にそういう求人をしているだけで、アルコールを提供せず、店じまいも十八時なので中身は健全な喫茶店だ。だから圭祐も安心して、満穂がこの店で働くのを許してくれたのに。
『あぁ、違う違う。そうじゃなくて。カフェーに居ながら注文もしてないのにこういうものを出すのはマナー違反かもしれないけれど、安心して欲しいから身分だけ先に明かしておこう。――僕はこういう者です』
ス、とテーブルに出された一枚の小さな紙。名刺には近くの出版社と、彼の名前。
『きしゃ。かじあつまさ…?』
『あ、名前は、』
『もしかして、兄さまが以前お世話になった先輩のお身内ですか? 侍従職出仕の時、随分面倒を見て頂いた優しい先輩がいらしたと…。確か、お世話になった方のお名前が「かじとくまさ」さんだって……』
『えっ…と、……そうだね。僕には兄が三人居て、三人共今も侍従職に就いてるからそうかもしれない。僕は侍従職に就かず、こうして記者をしているのだけど…』
記者。加地篤正。
両手で受け取った名刺にはそう書かれていた。何より、「加地」姓で名前に「まさ」が付く。兄が十代の頃、学校は違うけれど宮内省でとても親身に仕事を教えてくれた優しい先輩がいる、とよく話してくれた人の名前と特徴が合い過ぎている。
週に二回ほど来店する眉目秀麗な男性が、兄が昔世話になった人の弟という意外な世間の狭さに満穂は名刺を手にしたまま驚いたが、その事実は満穂の緊張を和らげた。
『休憩でしたら、今から半刻後に取る予定になっております。…ですが、加地様はお忙しいのでは……』
篤正は珈琲と軽食を頼む事が多いが、あまりゆっくり飲食するタイプではない。
せかせかと忙しい感じではないので見苦しさこそないけれど、口が大きいのか、傍からはゆったりした仕草に見えるのに、珈琲も軽食も周りの客達よりも早く平らげてしまう。
記者と知った今、彼の食事の速さの理由が少しだけ判った気もする。記者は特ダネを掴むのが仕事だ。情報は新鮮であれば新鮮なほど良い。彼の仕事は常に時間との勝負なのだろう。
『否、今日は午後に半休を貰っているから、時間はあるんだ。君と話がしたくてね。えーと、いかがわしい誘いじゃないから、気負わないで安心してほしい』
『はい』
『仕事中に長々引き留めてしまって済まない。注文は、いつもの珈琲と…ビーフスチゥを』
『畏まりました』
さらさらと伝票に書きながら、内心では背中に突き刺さる視線に、「今からカウンタァの向こうに戻らなきゃいけないのに、同僚達にどう説明したら穏やかに納得してくれるだろうか…」と戦々恐々しているけれど、顔には出さないで営業用の笑顔を必死で浮かべる。女給の鑑である。
結局、満穂はありのまま伝えるのは避けて、「兄が侍従職出仕の時にお世話になった方のお身内みたいで、もしかしたら兄の事でお話があるのかも」と言っておいた。
満穂が男爵令嬢であった事は彼女達にも知られているし、満穂は他の女給達と違って篤正に粉を掛けようとする素振りも全然ない。自分達を出し抜いた訳でもなく、満穂の美しさや気立ての良さに惹かれて声を掛けたという事であれば、悔しいけれど自分達にとやかく言う筋合いはないので、嫌味なんか言えないし、意地悪なんてもっての外。
休憩に入って、満穂は早速彼の待つテーブルの向かった。向かい側の空いた一脚に座ると、彼からは意外な申し出を受けた。
『君が男爵令嬢で、勉強熱心な生徒だった事は…君のお兄さん伝手に聞いた事があるんだ。実際、何度かこの店で働く君を観察させてもらったけれど、機転が利いて頭の回転も早くて、教養が高いと判断した』
『それは…、お褒めに与り有難う御座います。あの、でも、兄の言い分は身贔屓の発言と思って、あまり本気に取らないで下さい。お恥ずかしい……』
『否、そんな事はない。君は聡明なお嬢さんだ。――だから、スカウトをしたい』
『すかうと? …勧誘、という意味でしたか?』
『そう。ここの女給も給金は悪い方じゃないんだろう。銀座に店を構えてるからね。でも、もっと稼ぎたくはないかい?』
『それは…、叶う事でしたら』
『うん。だったら、タイピストになってみないか』
『タイピスト?』
『手書きの文章や口述をタイプライターという機械で打って清書する仕事だ。これはただタイプライターを打てるだけでも充分なんだけど、教養の高い人にやってもらうと間違った個所を修正しながら打って貰えるから、より正しい情報を記事に写せる。――重要性が判るだろうか』
『はい』
『タイピストになるには、タイプライターを扱える技術が必要なんだ。専門の学校があるから、そこで学んで、タイピストの資格を取ってほしい。そして、僕の勤める出版社でタイピストとして働いてほしい』
『学校…』
興味深い誘いだったが、学費という点で今の満穂には目指すのが非常に難しい職業だ。
『心配しなくて良い。学費は僕が出す。何なら、生活費も多少は』
『そういう訳には、』
『本当に心配しなくて良いんだ。僕にはそれだけの蓄えがあるからね。侍従職には就かなかったけど、昔取った杵柄というヤツさ。何ならお兄さんも居る場で、もう一度今の話をして、お兄さんの判断を仰いでからでも良い。……考えてみてくれないだろうか』
急な話だったので即答は避けた。何より、旨い話過ぎて警戒せざるを得なかった。
けれど、帰宅してから圭祐に説明したら、「加地先輩は女子供を食い物にするような人じゃない、大丈夫だ。俺も後でお礼の手紙を書くから、お前がタイピストを目指すなら、カフェーを辞めて勉強に専念しなさい」と告げた。加地先輩への信頼度が高いのは結構だが、相手は兄が世話になった人の弟であって、本人ではないのに。
翌日、昼下がりに来店した篤正に兄からの許しが出て、自分も興味があると正直に告げると、早速スケジュール調整に話が移った。女給の数は足りているもののカフェーを辞めるには急過ぎるし、学校の入学手続きや準備もある。
満穂がカフェーを辞めたのは話をして二週間後になり、店主や同僚達に何度もお世話になった感謝を告げて満穂は女給を辞めた。
篤正と満穂の間にはちゃんとした契約書を挟んで、その夜、持って帰った契約書に圭祐も保護者として書類に捺印した。
口約束でも充分なのに、わざわざ学費を全て用立てするという旨を書いた契約書を用意してくれる誠実さに、満穂は篤正をただの色男ではなく、本当にちゃんとしてしっかりした人なのだと見解を改めた。
タイピストになる為の試験勉強から入学、みっちりと世界情勢、国内情勢、外国語、社会風刺などを学びながらタイプライターを打つのにもすっかり慣れた頃に無事資格を取って卒業し、契約通り、満穂は篤正が勤める出版社に、タイピストとして就職が叶った。
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