首ったけの標(しるし)
楸こおる
序
その指だからこそ許した特別を。
「
「はい」
紙を差し出した一回り以上年上の男の右手の側面は、黒鉛で真っ黒になっている。受け取った手書きの原稿用紙は全部で七枚。
これをタイプライターで打ち込んで清書するのが、タイピストである東明
元はれっきとした由緒正しい華族令嬢。女学校の高等教育を卒業した才媛でもある彼女は、しかし現在は職業婦人である。
タイピストは専門職で高い教養が求められるので、給金もずば抜けて良い。
だから満穂は実家が没落してしまってから、最初は女給としてカフェーで働き出したのだけど、その客の中の一人、記者だという若い男に女学校出身で元華族令嬢だからこその知識と教養を見込まれて、彼の投資を受けてタイピストになる為の専門学校に通わせてもらった。
そうして無事に試験を通過し資格を得てからは、パトロンになってくれた彼の働く出版社にタイピストとして雇用されている。
タイピストはただ記事になる前の手書きの草案をタイプライターで打てば良いというだけではなく、その文書に書かれている歴史的な事象に不備があれば訂正出来るだけの知力や教養深さ――要は校正、校閲作業も暗に求められる。新聞なら尚更情報は正しくなければ購読者からの信用が落ちる。だからタイピストは総じて高給取りではあるものの、満穂の給金の半分以上は家計の為に使われている。
実家が没落するまでは腰まで伸びていた髪をサッパリと短く切り揃え、チラリと覗く耳朶には色硝子のイヤリング。すっかり軽くなった頭には作業の邪魔にならないようカチューシャを付けて前髪を上げ、晩夏らしくまだ蒸す日が続く中にも、時折涼風が掠める秋口に相応しい梔子色のワンピースには白いレースの付け襟を縫い付けた。そんな彼女の姿は誰が見ても洒脱なモダンガール。
「満穂ちゃん、そろそろお昼よ。ちょっと休憩がてら、裏のカフェーか、斜向かいのミルクホールに行かない?」
「満穂ちゃんには今回もお兄さんが口上を務めるキネマの
「そうですね。もうすぐキリが良いところまで打ち終えますから、後で行きます。お先にどうぞ。――それと、皆さんからは切符代をちゃんと頂いてますから、礼には及びません。兄さまも綺麗なご婦人方が良い席に来てくれて嬉しいといつも言ってますよ」
「やだぁ~、お兄様ったら、お上手だわぁ」
「お口が上手いんだから」
「流石、今大人気の活動弁士ね」
「じゃあ、今日はミルクホールにしようかしら。満穂さんの分も席を取っておくわね」
「有難う」
満穂が勤める新聞社にタイピストは現在満穂一人だけなので、満穂の負担は少なくない。
けれど、記事が仕上がるまでは暇なので写植や他の雑用を手伝ったりもするので、同僚との仲も良好だ。満穂のように素早くは打てないが、中にはタイプライターを練習中で少しは扱えるようになった者も居るので、満穂も体調不良などで欠勤、早退する時はお世話になっている。
いろんな客が珈琲や茶を楽しみながら会話に興じている店で女給をしていた頃もそうだったが、たくさんの情報が集まる出版社での仕事は楽しい。女学校で勉強していた頃とは違う、もっと世界の広さを知れる。
知的好奇心旺盛な満穂に、編集長の次に草稿が読めるタイピストは性に合っている。
「じゃあ、女子の皆で先に行ってるわね。――あら、
「もうお昼ですよ。今出勤してきたの?」
「重役出勤ですこと」
「やぁ、おはよう。――違うよ、今まで取材に行ってたんだ。皆だって知ってるだろう?」
「帝都に帰ってきたばかりなら、今日はもうそのまま直帰して休めば宜しいのに」
「そうよね。そんな草臥れた風情でわざわざ出勤して来なくっても、加地さんの今回の取材の記事、急ぎじゃないって聞いたわよ」
「新聞じゃなくて来月発行の雑誌の企画なんでしょう? もう編集長に挨拶したら、今日のところはお帰りになったら?」
「困ったな。ウチのご婦人方は何故そうも僕を帰らせようとするんだい?」
「あら、失礼ね。心配してるのよ」
「取材先、京都でしたものね。長時間汽車に乗り続けていたら、腰や臀部が痛いでしょうに」
「京都から今お帰りという事は、夜汽車に乗って帰っていらしたの? 宿でゆっくりしてから朝発ってくれば良かったのに」
「……皆さん、そろそろお昼を食べに行かれるのだろう? 早くしないと、席が埋まってしまうぞ」
「あら、大変」
「行きましょ」
優しさが前提にあるとはいえ、何とも口煩く姦しい女達にやいのやいのとやり込められ、彼は肩を竦めて彼女達を扉の向こうに追いやり、ふぅ、とため息を吐いて帽子を脱いだ。
「おはよう、満穂さん。久し振りだね」
「おはよう御座います、加地さん」
二十代後半の男性らしいエネルギッシュな若さと精力を持ち合わせ、端正な顔貌に鳶色の髪と瞳がよく似合う。面立ちだけではなく、スラリとした体躯は足が長く腰の位置が高くて、西洋人にも負けぬほど均整が取れている。
まるで役者のように見目麗しい青年だが、彼は役者ではなく、この出版社に勤める記者である。
そして彼こそが、かつてこの出版社の近くにあるカフェーで働いていた満穂をスカウトし、タイピストになるまでの学費を工面してくれた男でもあった。
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