母よ、輝く心の喜びよ - 6
とある女
――――――
目を覚まして、浮かんだ言葉は悪夢だった。
視線を彷徨わせると薬を煎じている束ねた白髪の背中が見える。天井を向けると見覚えのある景色なのでわたしのテントであることがわかる。どうやらあの後わたしは気絶したらしい。
その場で彼を呼べばすぐにこちらに体を向けるが、「まだだるいです」と言えば「雨の中薄着でいるから」と叱りながら、細指の手を首元に手を当てた。
「……まだ熱い。安静にして」
額に乗せられていた布巾を濡らし、再度わたしの額に乗せる。
彼がわたしに甲斐甲斐しく世話をするのがなんだか不思議な気分に思えたが、ポツリと呟いた。
「……あの子は、わたしの姪でした」
手が止まる。わたしは彼と目を合わせないまま、淡々と話をつづけた。
「あの子の両親は……わたしの弟妹達は思い出せませんが、随分前に死んでいたはずです。わたしも……彼らの忘れ形見としてあの子を可愛がってました」
「……」
「歌を歌ったのです。秋の終わりにみんなが歌っていた詩を、魔力を捧げながら。途中傷も付いてしまったので、もしかしたら血も捧げていたかもしれません。……その時思い出しました」
淡々と話して、彼に顔を向ければその瞳は色々な感情を押し殺さんと色が揺らめき、最後にバツの悪そうな顔で視線を逸らせば、「……ごめんなさい」と唇が動いた。
百面相する彼を見るのは新鮮だった。
「やったのはナルシサスじゃないでしょう?」
「……え、あぁ」
わたしは彼らがずっとわたしを密かに監視していたのを知っていた。そういう役目だったのだろう。
だけどわたしは誰に行き先を言わずただ「魔石を獲りに行ってきます」と告げて行ったのだ。監視する者がいないタイミングを敢えて狙ったので彼に落ち度はない。
「でも……」
「……これ以上は聞きたくありません」
その後ヴァイオレットがどうなったのか聞いてみれば、「あの場に埋めたらしい」と返された。
「あの子から、魔石は取れましたか?」
「……もう、お前は休め……」
額に手を当てる彼の垂れ下がる長い白髪を手に取った。イキシアは短いのにネモフィラとナルシサスは二人そろって豊かな白髪を切らず伸ばしていたからすぐに手が届いた。
「雪のようだと思ってましたが、触ってみると白い
「……やめて、くれ……恥ずかしい」
あからさまに照れる彼が何だか面白くて、触れるのをやめなかった。
髪は綺麗だけど、やはり私の知っている白髪とは少し違う。
「わたし、この集団から出ようと思います」
「……!」
「わたしは、家族を愛していました。記憶を取り戻した今、もう彼らと一緒にはいられない」
「……明日にでも長老に言って欲しい」
その日わたしは誰にもわたしの本当の名前を言わなかった。
明日、長老に話せば行く宛はあるのかと問われた。故郷へ帰るから南の方へ向かうと答えた。長老は終始気絶しなかったのが気になったが、予め伝えていたのだろうと自己完結したのだった。
―――
民から抜けるのは皆がこの土地を離れる当日の朝の予定だ。つまり今週中。あと数日である。
勝手に作った様々な道具や薬草などの素材は捨てる事にする。加工前の薬草や脂などがあればナルシサスに押し付ければ彼が勝手に煎じてくれるだろう。
冬の時に貰った革紐は折角だから編んで腕輪にしてしまおう。針を使わない大雑把なやり方なら私できるだろう。
他の寝具やテントも元々は借り物だから民の者達が有効活用するだろう。もしかしたらイキシアとネモフィラが夫婦の家として使うかもしれない。
しかし片付けるにしても、実際に整理してみればあっさりと終わるものだ。元々すぐにでも抜けられるよう木札以外多くを残さなかったのだから当たり前なのであるのだが。
やりたい研究もあったことを思い出す。古文書の修繕と保存の魔術を考えなければ。木札に図案だけ書けば他の者が読み解いて箱に描いてくれないだろうか。
片付けの途中、わたしは袋から目覚めたばかりの頃に着ていた服を取り出した。この土地でも対応出来るように魔術陣の刺繍をしたものだ。
「……あの、ちょっといい?」
彼女がテントの向こうから話しかけてきた。わたしは特に隠す物もないため、その場で「どうぞ」と招き入れる。
入ってきた彼女はどこかよそよそしくも、空いている場所に座り、わたしが先ほどまで手にしていた衣装を見て目を細めた。
茶葉の持ち合わせが無かったのでとりあえず木製のカップに白湯を入れて渡す。彼女はそれを無言で手袋越しに受け取る。
わたしももう一つのカップに白湯を口にすれば、彼女はそれに釣られるように口にした。ほっと一息入れた後、彼女から漏れた言葉は謝罪だった。
「ごめんなさい」
「……それは、何に対しての謝罪ですか」
彼女はそっと視線を逸らし、彼女は外さない手袋越しに両手にあるカップで手を温める。
「貴女の婚約者がイキシアだって言ったの。その……悪かったって思ってる」
「……わたしを民の一員として受け入れるなら、確かに婚姻するのが自然でしょう。彼の立ち位置も考えればそう思うのもおかしくありません。
それに、イキシアと仲が良かったじゃありませんか。長老はそれを考慮してくれたのでしょう?」
彼女はそれにこくりと頷く。
事実を述べているだけなのに自ら傷を付けにいっている。最悪な気分だ。
彼女はそっと白湯を一口飲み、前を見据える。こちらの方が重要な話のようだ。
「……あと、あなたには謝らないといけないことがもう一つある」
心当たりがないので首を傾げつつも、わたしは無言で続きを促した。
「私、両親が死んだとき寝込んでて、見てたのはナルシサスだけだったのよ。私達の両親が死んだ時、魔獣に襲われた事故だって聞いてたから、寂しくても諦めることが出来た」
「待ってください……!」
彼女は突然話を遮られたことに身体が強張る。
嫌な予感がした。正直これ以上聞きたくない。でも彼女に何かを悟られるのは嫌で、自分の白湯を飲むと「ごめんなさい、続けて」と促す。
「……10歳の時、ナルシサスから両親が死んだ理由を聞いたの。魔獣に襲われたって言われてたんだけど、本当は獣人だったの。狩りの事故でこちらが間違えて穿ったのを報復されたって」
「!」
『儀礼的なものですよ。狩猟する場を違えば、こちらが獣と間違えて矢を射るかもしれない』
ナルシサスのあの言葉はただの脅しではなく本当にあったことだった。あの村との因縁はかなり根深かったようだ。
イキシアやネモフィラ達の獣人嫌いにも納得がいく。
「獣人を誤って殺した時、一緒にいた獣人の子供がいたらしいわ。それで私達の両親がその子供の報復を避けられ無くて殺された。……だから、ずっと獣人が憎かった」
「それはつまり――」
「……矢を放ったのは、私よ……」
聞きたくなかった。彼女の表情は固く、覚悟を持って話に来ているからかしっかりとこちらを見ているが、その瞳の色は揺らいでいた。
「あなたが飲み込めなかったのは、両親が獣人に殺されたという事実でしょうか。それとも両親が誤って穿ち殺した獣人の子供への罪悪感でしょうか。それとも子供でありながら大人に報復した獣人への恐怖でしょうか。
それとも……その獣人への復讐心?」
「……感情に任せて、矢を放ったのは悪かったと思ってる。き……あなたが、この集団から離れるのも、私に引き留める権利はない」
何もかもがバラバラと土砂が崩れ落ちるように壊れていた。
「……あなたの誠意は分かりました……謝罪だけ受け取りましょう」
流石に許すことは出来なかった。彼女もそれに頷きテントから出て行った。
―――
夕食の時、長老から話してもらい、わたしが集団から離れることが伝えられると、色んな人から引き留めの言葉をもらった。
どうして抜けるのか、楽しそうにやっていたではないか、なにが不満なのか。
流石に彼らに獣人もとい新種の種族たちに嫌悪している者達と一緒にいるのは苦痛だからとは言えなかった。
白木蓮の領域での出来事を知っている男衆はなにも口にすることはないが、何か察するものでもあるのか、複雑な感情を持っているようだった。
「本当にいっちまうのか……?」
「はい」
それしか返さないわたしにイキシアは右手で頭をかき、何か言いあぐねているような、言葉を探しているような表情を浮かべる。いつもは何でもかんでも素直に言う彼がめずらしい。
「マグノリア……後で、ナルシサスと話してくれねぇか?」
「なぜ?」
思わず睨んでしまったようで、イキシアはひっと悲鳴をあげて後ずさる。しかし怯んでもイキシアは考えを変えなかった。
「最後くらい会ってやれって言いたいだけだよ……前はテントに入り浸るくらいには仲良かっただろう?」
イキシアはわたしが集団から離れた後にネモフィラと結婚することになっている。
二人とも親を早くに亡くしているということもあり、親同士でどうのということはないようだが、イキシアは次代の長だ。民の女たちが盛大に祝おうと今から準備してくれているそうだ。
「……そうですか。あ、イキシア。これを」
「なんだ、腕輪?」
「ネモフィラに渡してくれませんか?花嫁の時間を取るのは惜しいので」
余りモノの革紐で編んだ腕輪だが、普段使いできる出来栄えだ。人妻の証を作るのはイキシアの役目だが、飾るモノが一つ増えたところで問題あるまい。
イキシアはわたしを見て苦笑した。
「君から渡せない、か……」
イキシアも事情は知っているのだろう。誰が矢を穿ったのか彼なら見えていたのではないだろうか。
「嫁から甲斐性なしの旦那だと思われたいのですか?」
「……分かったよ。そっちもナルシサスと話す時間作れよ?」
曖昧に笑っておく。結局ナルシサスとはわたしが出立する前夜まで話すことが出来なかった。
出立前夜、わたしは自分の手で作った紺色の衣装をたたみ、他の素材を箱に詰めるとネモフィラ達のいるテントを訪ね、それをネモフィラに渡した。少々名残惜しく感じるくらいにはわたしも愛着があったようだ。
「衣服は刺繡の縫い目はあまりいいとは思いませんが、有効活用してください」
「ありがとうマグノリア……」
複雑な表情でこちらを見ている。正直わたしも何もかも忘れてということはできない。せめて別れの挨拶くらいはしておこうと思った。
後ろではナルシサスが無言でこちらを見ているが、もう笑みを取り繕う様子もなかった。
ネモフィラは刺繍を撫でながら寂しそうな表情を浮かべる。
「……結局、貴女の名前を知ることは出来なかったわね」
「わたしの故郷は、名前ではなく花や葉などの植物を与えます。両親の名前も植物の名を冠していましたから、いろんな呼び名がありました。
……わたしの花はこの土地に存在しないのでしょう」
「そう……」
暗にわたしの居場所はここではないと伝えたが伝わっただろうか。
わたしが彼女らのテントを後して自分のテントに戻る途中、「まって」と呼びかける声がして振り返った。
「もう少し、話がしたいんだけど、いいかしら?」
彼女が緊張した面持ちでテントの前で立っていた。周囲の色が判別しづらいくらい薄暗い中、わたしは無言で頷いた。
―――
本来暗い森の中を歩くのは危険だが、今は白夜ということもありまだ空は明るい。
雪が解けたとはいえこの時期でもまだ寒い。そのため白木蓮の領域まで行こうということになった。
足元がおぼつかない状態で歩いていたので歩みは遅くなる。見かねたのか手を差し伸べられた。寒いから手袋が付けられていた。
「ここのオーロラも綺麗なのでしょうか」
「……時期が合えば綺麗でしょうね」
ここに来るのは暖かい時期だ。オーロラがよく見える場所から外れたこの地域では見えるタイミングや時期も限られている。
他愛ない話でも素っ気ない。結局手を引かれながら無言で洞窟内に入れば夜になると発光する魔石があるようで、所々岩壁が光っていた。
「夜の方が魔石の採取しやすいのですね」
「今までも夜目が利く人たちで夜中に採掘してたわよ」
そうだったのか。全然気づかなかったと関心していれば、むしろなぜ皆が一斉に出かけているのに気付かなかったのかと視線を寄こされる。呼ばれたことがなかったのだ。仕方あるまいに。
歩みを進め、開けた場所に向かうとわたしは大きく目を見張った。
「ここは……」
「……」
魔石も無いのに白木蓮を中心にその空間だけほんのりと光り輝いていた。
その白木蓮の下には少しだけ土が盛り上がっている場所があり、ヴァイオレットがそこに埋められたのだというのが分かる。
「……祈りを捧げてもいいですか」
振り返れば彼女はこくりと頷く。あの事件の後わたしも立ち寄らなかったから、今行けてよかった。
わたしは両膝を付き、両手を組んだ。
「……〈我が力、我が力と共にこの祈りを捧げよう〉」
足元のわたしの魔力を感じたのか盛り上がっている土の上から芽吹き、紫色の花が咲き始める。常春の空間だからこれからはずっとここでこの花は咲き続けるだろう。
この魔力があの子の元へ飛んでいけばいい。そう願いながら白い光がきらきらと飛んでいくのを眺めた。これもわたしにしか見えていないだろう。
この常春の領域を見渡す。この地域に咲くはずのない白木蓮が咲いている。
ぱちぱちとまた頭の中で何かが弾ける。ここに来る度に頭が痛くなるのは嫌な思い出ばかりあるからだろうか。
後ろの気配を感じてすぐに避ければ、バランスが取れず地面に仰向けに倒れる。わたしの目と鼻の先には鋭いナイフの切っ先があった。
ナイフを向ける先を見つめると、今にも涙が零れんばかりの顔でこちらを睨みつけている男がいた。
「――わたしはずっとあなた達が不思議でした。恰好も仕草も、入れ替わったかのようでした」
吹き抜けの穴から月明かりが照らされる。わたしの真上にいる者の顔がはっきりと見えてきた。
「ですがこれもずっとわたしを監視するためだったのでしょう?
――ナルシサス」
月明かりで金色の瞳が輝く。
普段は一つに縛っている髪を降ろし、厚着の恰好で体形が分かりにくいようにしていたようだが、魔力の色で人を判別していたわたしにとって意味のないことだった。発光する魔力に光の明暗は関係ない。
手袋をはめた手、首元を隠すスカーフ、髪を縛った跡、感情が揺らぐたびに変わる瞳の色。
ずっと不思議で仕方なかった。顔がそっくりな双子だからそういう取り換えっこをして遊ぶこともあるだろう。
しかしやたら彼らはその偽装を徹底していたのだ。話し方もしぐさも手馴れたものだったし、気付くはずの民の者達も何も言わなかった。そういう類の魔法なのかとも思ったがそれにしても不自然だった。
ほどかれた白髪の帳がわたしの視界を覆う。
「……こんな時でも君は呑気だな」
「新種達の心臓から魔石が取れるということを知っているということは、魔力を持つ普通の人間でも同様のことが出来ることを知っていたのでしょう。だから、これから民を抜けるわたしにする事は分かり切っていました」
悲痛な表情で顔をしかめるナルシサスのそれは肯定だ。
縋るように彼はわたしにのしかかり額と額をくっ付けてきた。
そんなつもりは無かったのだけれど、いつの間にかわたしも彼に絆されてしまっていたようだ。
「ずっといてくれるなら、こんなことをする必要はなかった……っ」
ナルシサスの痛烈な感情がそこにあった。そう言ってくれるくらい、彼はわたしのことを悪く思ってなかったことに目を細めそうになるが、それでもわたしの気持ちは変えることが出来なかった。
「……そうせざる負えなかったのです」
わたしは心の底から母に愛されなかった。だけど母がわたしよりも愛した弟妹達を憎めなかった。だからわたしの家族と繋がりのあるはずの新種達が惨い目に遭っている状況が許せなかった。
新種を嫌う彼らと共にいるのが苦痛で仕方なかった。
どすっとナイフがわたしの顔の横を突き刺す。ひゅっと自分の喉から息が漏れる。
「もういい……」
「な、なにを――?くっ!?」
片手で首輪を付けられる。抵抗しようとしたが魔力を放出できないことに目を見張る。
「『動くな』」
「かっ……!?はっ……!?」
従属の首輪だと彼は首輪の上から押さえつけながら言った。息が出来ない。
必死に両手であがこうにもなぜか動くことが出来なかった。なるほどこれが魔術道具の効果か――。
「子供が産めないんだろう。試してみようか」
「!?やめてナルシサ――」
「『喋るな』」
「っ……!んっ!?はぁっ……!、んん――!」
無抵抗な状態でナルシサスはわたしの衣服をたくし上げ、容易にからだが暴かれていく。
手が握られたけど、ちっとも安心しない。
自分の身体なのに自分の身体じゃない。
ネモフィラの顔でわたしを見ないで。
常春の空間であるはずなのに寒い。
金色の瞳には光がなく虚ろだ。
この時間はいつまで続くの。
ぴちゃ、くちゅ。
苦しい、気持ち悪い。
ぬちゃ、くちゃ、くちゅ。
ぬめる。痛い。ぞわぞわする。
ぐちゅ、ぐちゃ、ぱちゃ、ぱちゅ。
痛い、苦しい、辛い。虚しい。寂しい。
(魔力が吸われてく……)
従属の首輪にそんな効果があるのか、それともこの空間の特徴なのかは分からない。
けれど、わたしの中の魔力が暴れなくなった分、虫食いの記憶が容易に思い出せるようになったことに気付き、苦痛と共に涙がこぼれた。
父に生きる術を教えられたこと。
母に力の使い方を教えて貰ったこと。
母と折り合いがつかなくて13歳の頃に家を出たこと。
13歳の姿のまま成長が止まっていたのを、自分の魔法で無理やり成長しているように見せていたこと。
弟妹とその家族達の集う村の管理に限界を感じたこと。
両親が何者なのか大陸の遺跡を調べたこと。
ヴァイオレットの両親である弟妹達の顔。
視界に入る白髪が綺麗だと思った。
なのに父を連想する髪と、この肌の感触の不釣り合いに吐き気を覚えて、ぎゅっと目を閉じた。
どうしてわたしは赤が苦手なのか思い出した。
母の指から滴る血。その血が入ったスープ、母の赤毛、母の赤い瞳、心中した両親の遺体が脳に焼き付いていたからだ。
赤い髪の毛をした女が私を見て言った言葉を思い出す。
『わたしは、人が憎くてたまらない。だから人に復讐するために貴女やあの子たちを産んだ。……でも、貴女は、貴女だけは、見れば見るほど人に見えてくるから、わたしが人にされてきたことを嫌というほど思い出して……貴女が醜い人間に見えて仕方ないの』
あの時わたしが初めて母の本心を聞いた日で唯一まともに話し合った日でもあった。
あの時わたしは腹を割って話し合ったにも関わらず、あの人の目を合わせられなかった。
なのにあの人の涙と、頬に触れられた手の温もりが頭にこびりついて離れない。
そうだ、眠る前のわたしはここで楽に死にたかったんだ。
動きが緩くなったと思ったら、髪を撫でられていた。唇がいろんなところに降る。塞がる。入り込む。
ナルシサスがわたしを抱き締め、涙を流していることに気付いた時わたしは、どうしたらいいのか分からなくなった。
命令のせいで動くことも言葉も紡げられない状態で、彼に対して恨みや憎しみ以外の感情を持たせないで欲しかった。
握る手に向かってわたしはただひたすら彼に向かって念じた。
お願いだから、優しくしないで。
どうか、心を読まないで。
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