母よ、輝く心よ喜びよ - 4

とある女

――――――



「はいこれ」

「なんですかそれ」


 この土地に来てから二週間。彼女がわたしの住まうテントに来たと思えば手袋をはめた手で木箱を差し出してきた。箱を開ければ中身は古ぼけた本だが、保存状態が悪かったのか表紙が取れそうになっている。


「前に言ってた魔術書の代わりの古文書よ。忘れたの?」

「――……あぁ!言ってましたね!」


 季節一つも空いていたのですっかり忘れていた。しかしそんな貴重なモノをわたしに見せてもいいのだろうか。


「大事に持ってね?だいぶ傷んでしまってるけど、新しく作るにも金がかかるのよ」

「そこまで心配なら直しましょうか?表紙の補強くらいなら出来ますよ」


 革の加工程度なら出来なくもない。

 彼女も一瞬ぱっと目を見開いたけど、すぐに眉を下げた。


「必要なのは表紙じゃなくて中身よ。表紙はイキシアも作れるわ」

「なら文字は必須課題ですね。植物を使った紙なら道具さえあれは作れそうですが……」


 私は職人では無いので紙の質は大分劣るし長期保存は出来ないだろうが、情報の保全には役に立つだろう。


「相変わらずすごいわね」

「…………出来ることが多いだけです。でも、この本も希少価値が付くでしょうから、せめて保存出来る魔術を施した箱なら……」

「このまま考えるのならこの本は読まないのね?」

「読みます!」


 彼女は呆れたように溜息を吐くが、考えがまとまったら爺さまに聞いてくると言ってくれた。聞いたらあの御老人また気絶しないだろうか。


 目の前に置かれた箱を持ち上げると箱は二段に重なっていることに気付いた。本は二冊あるようだ。

 それぞれ丁重に扱われているようで、一箱開ければ緩衝を和らげる為に毛皮が敷かれており、本は綺麗な布に包まれている。

 慎重に箱から取り出すと、一冊はかなり使い込まれているようだったが、下の箱に入っていたもう一冊は反面保存状態が悪くなかった。


「この二冊は言葉は違うけど内容は同じだと言われているわ。傷んでる方は私たちも概ね読めるから、最悪写本もできなくはないけど、もう一冊は読めないから写本することも難しい。

 読める人は物好きな学者か仙人くらいだろう……ってナルシサスが言ってたわ」

「そうなのですか?」


 とはいえ原本は彼らが読めない方の本のようで、こちらの方は特に丁重に扱わないといけないらしい。だから読めない本はなるべく写本する手間がないよう丁重に扱っていたという。いい心掛けだ。

 そういうことだったので彼らが読める方の本を取り出して読んでみるが、予想通りわたしが知っている文字の形と全く違うので全く読めなかった。ページをパラパラとめくってみるが、それぞれ書かれている文字の形が微妙に違うことから、定期的に民のみんなで写本をして補完していたのだろう。


「読めません……」

「だと思った」


 絶望した顔をしたわたしを見てまた呆れる。

 だったら何故見せてくれたのかと思うが大方読めないと思えば、諦めてくれると思ったナルシサスの魂胆かとすぐに思いあたって顔をしかめたが、目の前のネモフィラはにこにこと笑みを浮かべている。狸兄妹め。


 しかしそれでわたしの手綱を握ったと思わないで欲しい。


 わたしはこっそり己の目に光と闇の魔力を篭めて一度にその情報をごっそり抜き取ると、ゆっくりと本を閉じて箱に戻した。こういった古いモノは人の感情が染み付くので、文字が読めずとも大まかな内容を読み取ることは出来る。

 だがそれにも限界があるため、やはりこれを読む為の文字の習得は必須課題だ。


 大多数が【光】と【闇】の属性を持ち合わせているこの民の者達も、念話など、人と人で日常的に似たようなことをしているようだが、わたしのこのやり方は敢えて言わないことにした。

 悪事に使う事はないだろうが、流石にここまで行けばわたしも記憶の有無に限らず本気でこの民に取り込まれかねない。


「それも読むの?」

「それが原本なのでしょう?せっかくなので」

「……分かった」


 そうだろうと思ったという顔で彼女は箱を差し出す。

 彼女は今も手袋を外そうとしない。首にはスカーフが巻かれており、この時期にしては露出が少ない。厚着であることが少々引っ掛かった。まさか風邪でも引いているのだろうかと訪ねてみるが、「薬草で肌が荒れちゃったのよ」という。兄妹で薬を作ることもあるのだろう。どおりで普段から降ろしている髪に束ねた跡があると思った。

 いくら薬を作るためとはいえども薬草で肌が荒れるのは本末転倒ではなかろうか。ナルシサスにはあとで言っておこうと頭の片隅に置いておく。

 わたしは蓋を開けると丁寧に本を取り出し、ゆっくりとページを捲ると思わず取り乱して本を落とす所だった。


 その文字はわたしがよく見知った文字や言葉だったからだ。


「どうしたの?」

「……驚きました、読めます」

「はぁ!?」


 彼女は驚いたのかその場から立ち上がって前のめりになりそうになったが、すぐに咳払いをして座り直した。

 だがよくよく考えてみれば、儀式で皆が歌っていた歌はわたしが知っていた言葉なのだから古文書も同様である可能性があると考えるのは自然なことだった。


「……今日一日これを貸してくれませんか?ゆっくり読みたいのです」

「……分かった、でも待って!流石に読み終えるまで私もここにいるわ」

「傷付けることはしませんよ?」

「分かってる……でもそれは民の宝よ。それに……」


 彼女はなにか言い淀んでいるが、わたしはそんな彼女に気をやることは出来なかった。

 魔術とは関係のない内容だ。まさか彼女も全て読むと思わなかったのだろうが、わたしは今それどころではない。


「お茶は出せませんが、どうぞくつろいでください」

「……まったくもう」


 彼女は火をおこすと、鍋に水を入れては沸かし始めた。白湯を作ってくれるらしい。

 なにも覚えていないけれど、これはわたしが慣れ親しんだ文字だ。こみあげてくる感情で涙が溢れそうになるのをこらえ、わたしはページを進めていった。


 この本の内容はこの地に伝わる神話だった。

 儀式に使うための聖典も兼ねているのか所々に詩が記載してあり、なんやかんや興味深い内容だった。


 初めはただ真っ黒な空間に【空】の神が鎮座していた。

 だがある日【時】の神が現れその緑色の眼光で、射抜くとその軌跡がオーロラとなり、【空】の神は初めて赤以外の色を見た。

 そしてその白くて大きな体で【空】の神の元へ向かうと世界はたちまち白く輝き、神は初めて光と闇を知り、己の体が赤いのだと知った。


 この二柱が逢瀬をすると決まってその世界の色が変わる。二柱の神は過ぎていく時間の変化を感じながら幾度かの逢瀬を重ねると【光】の神と【闇】の神が生まれ、この二柱がくるくると飛び回ることで昼と夜が生まれた。


 しかし、孤独が嫌いな【闇】の神は夜になる度に【光】の神を求めて涙を流した。涙は星屑となって天の川になった。困った【光】の神は【闇】の神のために月を作りあげ、夜空を照らせば星の数は減り、【光】の神と【闇】神が共にいる時間を増やせば白い夜が続き、すると今度は【闇】の神が働き者の【光】の神を休ませるために真昼でも【闇】の神が覆い隠す時間を増やしたりもした。


 そんな空の美しさに魅入られた【時】と【空】の二柱は続けて【風】の神と【地】の神、【水】の神と【火】の神の四柱を生み出し、兄弟姉妹の神たちが地上の世界を作りあげると、全ての神の力が影響し合ったことによって、海や陸。季節や気候が生まれ、今度は【命】の神が生また。多くの生命が生まれることとなり、世界は色鮮やかに繁栄していった。

 四柱の神は彼らの力によって生まれた【命】の神をひたすら可愛がった。


 しかし【命】の神には相反する対の神がいなかったため、世界に多くの命が所狭しと溢れ、その縄張り争いや些細な小競り合いで多くの生き物が争い合うようになった。

 それらが大きくなると彼らに互いの命を亡き者にする思考が生まれてしまう。

 すると【虚】の神が生まれ、競争に勝てなかった命が虚に導かれ天に導くことでようやく世界の均衡が取れるようになった。


 程なくして【虚】の神は色んな所を飛び回る神達を見てふと疑問に思った。


 ――なぜ、我以外の神々はこんなにも色鮮やかなのに、自分は透明な空っぽな体をしているのだろう。おかげで誰も我のことを見向きもしない。


 独りごちる【虚】の神を見て【命】の神は、こう言った。


 ――其方の色は全てを吸い上げる。これから色んな色が入るのだ。これから時が経てば其方には色んな色が入るだろう。


 ――せっかくだから初めに此方の色を其方にあげよう。


 色んな神の力を受けていたために虹色の体をしていた【命】の神の言葉を信じ、【虚】の神は【命】の神の色を受け入れた。


 だがそのもらった色はたちまち混ざり合い【虚】の神は真っ黒な体に染まってしまい、権能も損なわれてしまった。【命】の神はそれを笑った。【命】の神は無作為に己が育んだ命を消す【虚】の神の存在を疎んでいたのだ。


 力も失い真っ黒になった【虚】の神は【命】の神を責め、使えないその力を奪い取ると、それに飽き足らず、奪った権能で多くの魔物を作り、彼らに全ての命を殺すように命令した。それが後の魔獣と呼ばれる化け物である。


 命は白く輝き天に昇ると雲が現れ、雪が降るようになった。

 すると冷え切った川は凍り付き、大地は真っ白になり、火の暖かみが失われる。

 雲に覆われてしまった為に日の光も夜の星空も見えなくなった。


 ――許さない、勝手にやっておいてこんなのあんまりだ。


 ――汝のせいで我は生まれたのだ。我は汝の全てを喰らい尽くすまで。


 【命】の色をした世界はとても冷たく、【命】を憎む【虚】の憎悪が滲み出ていた。


 怒った神々は【虚】の神を世界の端に閉じ込め、彼が持ち合わせる権能を全て剥奪した。

 だが魔物を放流された世界は混沌へと変わってしまい、遂には神々もその渦中に入ってしまった。


 自分の子供達が争い合うのを見て【空】の神はその光景を嘆きながらも、全ての神々を天に追いやると、彼等には『人間から呼ばれない限り、地上への過度な干渉をしない』ことを誓わせた。


 そして【時】の神は判決を下しても尚、真っ白な雪に覆われた世界を見て嘆き悲しむ【空】の女神に混沌とした世界を見せぬよう、世界から隔離された島を作ると、天にいた彼女をその島に降ろして閉じ込めた。

 子供達は両親に許しを乞う為に何度も歌を歌うが、【空】の女神は彼等の声が届かないし、【時】の神はそれに気付いても首を縦に振らなかった。

 それ以降この世界の全ての生命はこの二柱によって育むことになったが、残った命は雪が降る前に【空】の女神に声が届くよう魔力を込めて詩を送るようになった。



 ここまで所々既視感とそれに対する違和感を抱きながら読んで行った。

 よく空を飛ぶと記載してあるが、この神話の神は自由自在に空が飛べるのだろうか。

 【光】と【闇】の神は相反する属性でありながら仲が良いような記載がされているが、【命】と【虚】の神は【虚】の神が唆される形で仲違いしているのは面白いと思う。


 そして最後のページを捲ると儀式で歌った歌の詩が記載されていた。


〈我が血潮、母の愛する大地へ還そう

 愛憎の果てにこの血潮は

 果てに皆を温める火となり

 果てに踏みしめる大地となり

 果てに慈愛の雨となり

 果てに風となって巡り

 闇で包み、光となって我らを導く

 生命を育み、万物を愛した

 だがその愛は我が心に在らず

 ただ一人の誰かのためにあり

 我はその愛をここで裏切ろう

 故に我は母へこの血を力と共に還す〉



 一言一句変わらず同じ言葉でつづられているが、むしろ民のみんなが話す言葉が変っても尚、違えることなく継承してきたことに驚いた方がいいのだろうか。

 一体どういう歴史の変化で今のこの言葉になったのかは分からないが、この民は言葉が変わっても尚伝統を守っているということが分かった。


(……でもこの詩だけ『血潮』なのですね)


 雨乞いや水止め、豊穣祈願などの詩には冒頭に『我が力』と書かれてあるのにこの詩だけは若干物騒だ。実際に儀式でも供え物の血液を捧げていたから尚更。

 血潮の色は【空】の赤だ。しかし混沌の世界を見たくなくて隠したのに、許しを乞う為に血を捧げるのはなぜだろう。


 気付けば目の前にいるナルシサスは「満足した?」と笑みを深めていた。


「読み終わった?」

「ありがとうございました……わたしも文字を覚えないといけませんね」


 原本が見れたが、彼らが読んでいる本の内容と同じとは限らない。彼らに聞いて分かることがあればいいのだけれど。

 しかし彼は表情を変えないままさっとわたしの手から本を奪い取った。


「文字は教える。でも君に本は絶対に読ませないよ」

「そんな……!」


 気付けば日も暮れて外は真っ暗で、隣にはランプが置かれていた。

 彼女はこのままでは夕飯の支度が出来ないと言って彼と交代したそうだ。彼は夕飯を食べるのが遅くなったと不満たらたらだったらしい。流石に申し訳なくなったので詫びをすると言えば「薬草の採取と整理を手伝ってくれ」という内容だった。



―――



 神話の本を読んでから二日。わたしは夕飯にくいっぱぐれた詫びとしてナルシサスの調合する薬の採取の手伝いをしたのをきっかけに、昼間はここに居座るようになった。

 色々話しているうちに興味深いことが次々と出てきたので、もっぱらわたしの研究はナルシサスの作る薬と一緒にやっている。

 そういうこともあり今日は数日干した薬草を薬にするのを手伝っていた。


 この民に伝わる薬は雪の多い地域性か思っていたより植物に頼る療法は少なかった。動物性の脂を塗ったり、生の肉を捻挫にあてたりするなど家畜の力を借りた民間療法が主だ。

 春から夏は植物が摘めるので、花のいい香りを楽しむことが出来る反面、それらを薬にすることも可能だ。薬草は摘み立ての時がいい香りを放つのだが、乾燥させれば保存が利くしお茶にもなる。


 ナルシサスはわたしが思っていたよりも薬の知識に長けており、彼曰く、これらの知識は魔獣に襲われて亡くなった父親からの受け売りなんだそうだ。

 ナルシサスとネモフィラの両親は幼い頃に魔獣に襲われて亡くなったと聞いているが、それからも彼なりに見聞きして試行錯誤したりしたのだろう。彼の努力が垣間見えた。


「イキシアは良い実験体だった。アイツの体は頑丈だから」


 一瞬でも彼を見直したと思ったわたしの気持ちを返してほしい。


「…………イキシアも良く生きてこれましたね」

「飲ませようとしたところをネモフィラに見られた時は泣きながら怒ってたよ。あんなネモフィラを見るのはあの時が初めてだったから驚いた。結局最初にイキシアに飲ませたのは下剤と催吐剤だったよ」


 わたしの顔は過去一番で顔が引きつっている自信がある。

 必要最低限の良識と常識はあると思っていたのに、彼の場合持ち合わせているだけで実行していなかったようだ。一つ賢くなった。


「それでネモフィラは許したのですか……?」

「イキシアはすぐ見たことない草やキノコを口にするからね。元々勘が良いから本人が過信してるところはあるけど」

「…………」


 イキシアはアレでも民の次期長だ。次期長をそんな目に遭わせていいのだろうかと思ったが本人の方にも問題があったらしい。

 この民の将来は大丈夫なのだろうか。


 イキシアの話が出たのでそういえばとわたしは先日イキシアと狩りに出た時の話をした。

 ナルシサスは一瞬眉を顰めると少し考えた素振りをしてから口を開く。


「……警戒していたんだろう。前の顔合わせの時、あのアライグマが君を見た時の反応に何か感じてたみたいだから」

「アレはタヌキじゃなくてアライグマだったのですか!?」

「……君はまず自分の心配をしたらどうなんだ」


 呆れた顔をされたが自分の身の危険なんて気にしてどうするというのだ。どうせわたしの黒髪が浮いて見えただけだろう。


 それとは別に記憶のこともあるので村の者達と話をしたいという密かな願望はあるがは、目の前にいるナルシサスも含め誰も許してくれないだろう。

 ネモフィラに話してしまったから彼らもわたしに警戒しているかもしれない。口を滑らせるのはよくない。


 休憩だと言ってナルシサスが私に薬草茶ハーブティーを振舞ってくれた。隣には蜂蜜の入った壺が置いてある。蜂蜜なんて貴重だろうに、珍しく至れり尽くせりだ。


「この土地にも蜜蜂がいるのですね」

「この辺の農村は養蜂が出来るからたまに買うことがある」

「まぁ!蜂を育てるのですか。蜂蜜の巣は加工すれば蝋燭にもなりますよ。食べても美味しいのです」

「まさか野生の蜂の巣をつついたんじゃないだろうな」

「……そうですね。そうだった気がします。あ、でも刺されないように服やズボンの裾をすぼめて帽子を被ったんですよ。でもいざ巣穴に手を突っ込んだら蜂たちが反撃してきたんです。そしたら――……そしたら……」

「…………」

「ごめんなさい……」

「気にしてない」


 茶を飲むよう勧めてきたので、わたしは木製のカップを口にした。程よく冷めた茶からは清涼な香りがする。

 蜂蜜を入れてもう一口飲めば舌触りが甘くなめらかになった。


 ナルシサスは父から薬の知識を学んだと言ったが、わたしは誰から教えてくれたのか覚えていない。なぜ自分が赤色が怖いのかすらも覚えていない。自分の名前すら覚えていない。

 知っているのに覚えていないという矛盾したこの感覚は、かなり恐ろしいのではないだろうか。


 しばらく茶を楽しんだところでナルシサスが口を開く。


「無理に思い出さなくてもいいだろう」

「…………あの場所に眠っていたのにも理由があるはずです……」


 そうだ。わたしはずっとあの場所で薄着で眠っていた。この土地が極寒であるなら、あの白木蓮の領域は眠るわたしがせめて快適に眠れるように、凍え死なないように施した魔術か魔法が仕組まれているのかもしれない。

 わたしが忘れてしまったのも、赤色が怖いのも、ネモフィラやナルシサスの雪のように真っ白な髪に惹かれるのも理由が、それに至る思い出が絶対にある。


「理由があって眠っていたなら、目覚めた今はその理由も意味がないんじゃないか?それに、君は馴染んだ言葉を聞いてから赤色が苦手になったって聞いたけど、それらの記憶が蘇ったとして、それで君がひどく傷付いて、また俺たちとの記憶を失ったら、俺たちはどうしたらいいんだ」

「っ……」


 つきんと胸の奥が刺されたような痛みを抱く。顔に出ていたらしく「ごめん。そういうつもりじゃなかった」と謝罪する。

 記憶を失うのは頭をぶつけたり、何か精神に傷を負った時になる場合があるらしい。

 だからナルシサスの言っていることも間違いではないのかもしれない。だけど――。


「わたしにいろんなことを教えてくれた師や家族がいたのなら、わたしはその人達を思い出したい」


 ナルシサスが父親から薬学を教えてもらったように、彼らにはその知識に付随した家族との思い出がある。

 そういう話を聞くたび、わたしにも優しく教えてくれた両親がいたのだろうかと思うと胸がぽっかりと穴が空いたように感じていた。


「そこまで思い出したいなら、止めはしないさ」

「誰かに止められてもわたしは止めませんよ」


 だろうなとナルシサスは諦めたようなため息を吐く。


「なら、もし君が思い出したときは、俺に君の本当の名前を教えてくれないか」

「あなたも同じことを言うのですね」


 くすりと思わず笑みがこぼれるが、ナルシサスは一瞬目を見開いたかと思えば、「ネモフィラか」と言われ、「同じことを言われました」と素直に頷く。

 「本当は思い出して欲しくないけどさ」と付け足すように呟いたことに顔をしかめるが、ナルシサスはそんなわたしを見て「気にしなくていい」と苦笑するが益々分からなくなった。


「頼まれなくても教えますよ。わたしの名前くらい」

「俺に君の名前を呼ばせて欲しいだけだ」


 この時わたしは初めてナルシサスがわたしのことを「マグノリア」と呼ばないことに気付いた。


 名前を呼ばなかったのは単に認めていないのだと思っていたが、彼なりになにか思うところがあったのだろうか。


「分かりました」

「……あぁ。それに、僕もしばらくは寂しくなるだろうから。独り身同士話し相手にはなって欲しい」

「なんですかそれ……?」


 そもそもこの男に寂しいとか誰かに甘えると言う感情があるのだろうか。なんだか普段の笑みよりも気色悪く感じるが「何か失礼なこと考えてないか?」と聞かれたが「なにも?」と笑みで取り繕う。


「それで、独り身同士とは?あなたにはネモフィラがいるでしょう」


 この双子はナルシサスが薬を取り扱っていることもあるせいか、集合テントではなくわたしと同様に今いる個別のテントで二人きりで暮らしている。

 ナルシサスはその言葉に「そういえばあの時いなかったか」と思い出したような顔をした。


「あの時?」

「君が本を読んでいた日、俺たちは夕飯を食べ逃しただろう」

「すみませんでした」


 この民の夕飯はみんなで食べることになっている。そしていつまで経ってもわたしとナルシサスが来ないから夕飯を抜きにされたのだ。働かざる者食うべからずである。


「その時に長老から発表があった。――ネモフィラがイキシアと結婚するって」


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