2023/**/**

隣の布団から腕をのばして、母は眠れぬ私をかまって頭をなでてくれた。

知らない宿先。なれない布団と枕。髪をなぜる手のひらの感覚がとても懐かしく、おちついた。

いつかそのうち、この手が失われると思うと恐ろしくなる。


いつか、わたしの母が病気で病院のベッドに伏せているのを目の当たりにするときのことを思う。

わたしは、母に二度と会えなくなることと、母が痛みとともに孤独に死ぬことを痛ましく思い、悲しくなるだろう。

それだけならよい。

母も、元は死ぬことを悲しみなどしなかった。

しかし、母はわたしが悲しんでいるのを見てひどく悲しむのだ。母が泣きだしたらきっとわたしは耐えられない。悲しくて、涙がとめどなく零れた。


糊のきいた、知らない匂いのする隣の布団で先に寝入ってしまった母を起こさぬように、みなれぬ木の天井の模様を見つめては、また目を閉ざしながら、目の縁に水が溜まって暖かく頬をくだり、耳と生え際を濡らしてゆくのを感じながら、わたしはゆっくり息をした。

わたしは、鏡だ。

愛する人が、そうと思っているだろうと己が心に写したものと、同じ気持ちになる。

母を愛している。母が悲しむことがひどく悲しい。そして母も、私を愛しているという確信があった。

久々に会った親戚の、まだ五ヶ月の子どもをあやす母の顔。にこにこと機嫌よくわたしをあやしている母の表情。わたしにおしみなく与えられたもの。

わたしたちは愛し合っている。母が喜ぶことがわたしの喜びであるから、わたしは母のために、人間として幸福な人生を送りたいのだと思った。子どもを産みたいとは思ったことがなかったけれど、ふと頭をよぎる。きっと母は喜ぶだろう、わたしに、子どもというこの上なく愛せる存在が生まれたことに対して。

和泉式部の母親が、子はまさりけり、と詠んだあまりの哀しさを思う。


愛は人間にする。

愛する人がいるから、人は人間たろうとするのだと眠りながら気がついた。

プラトンが対話を重視していたことをふと思い出す。

一人の愛では不均等で終わりがある。ゆく所がない。けれど二人の愛なら互いを高め合うことができ、どこまでも遠くへ行ける。

遠くに行くことに本当は意味はないけれど、ただ、どこまでも愛は遠くへ届く。それを涙を流して口で息をしながら静かに直観した。

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# 概念薄理化 @eranthis

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