スキマ
が、それを引き留めたのはタロウの冷たい手だ。
「家なんて、ないよ」
「え?」
振り返ると、タロウは笑っていた。覗く歯がぎらついて、黄色っぽい。同い年くらいだと思っていたけれど、その笑顔はどうしても大人っぽくて、怖い。
「だって、華恋は「スキマ」にいるんだもん」
「どういうこと?」
スキマ? 聞き返しても、タロウはニヤニヤ笑ったままだ。
「そのままの意味。ここは、あの世とこの世の丁度スキマ。この世……太郎にはもう会えないよ」
「え? 何言ってるの?」
手を掴まれたまま、タロウは淡々と説明をする。その表情はぜんぜん分からなくて、笑ってるみたいにも見えるし、悲しんでるようにも、怒っているようにも見えた。
「太郎を閉じ込めただろう。子供は悪いことをすると、段々とこの世から離れていく。あの世に引きずり込まれるんだ」
「私が、悪いことを」
「この世とあの世は重なってるんだ。帰る方法は――」
タロウの声が段々遠のいていく。頭から血がすぅっと惹いていく感覚。悪いこと?心当たりがありすぎる。
太郎をいじめたこと、アヤとミカを振り回したこと、先生に嘘をついたこと、……ママにとっての「いい子」になれなかったこと。
「ここで一緒に遊ぼうよ。僕は華恋と遊びたい」
遊んで暮らす。そんなにも楽しい言葉なのに、どうしてこんなにも怖いと思ってしまうのだろう。
「明日にしようよ、私帰る」
うわごとみたいに、私の口が勝手に音を出す。
「明日なんてないよ」
「いや! 私は帰りたいの!」
手を無理矢理ふりほどいて、理科室を出る。ガラガラ開けたドアは心なしか重たく感じた。
家にいけば、何かが変わるかも知れない。
廊下は、口裂け女が居たときみたいな、重い空気が流れていて、不快だ。階段までたどり着かないのだろうか。それを考えても仕方がない。行かなきゃ。ここから離れなきゃ。
「学校からは、出られないぞぉ」
理科室から、さっきまでのタロウとは打って変わった、恐ろしい声が聞こえてくる。
窓の外は変な色だ。濃い紫色の雲が空を覆っている。蝉の声も聞こえない。スキマって、こんなに気持ちが悪いの?
タロウは、廊下に立ちっぱなしのまま、私のことを見て笑っている。あの笑顔、怖い。
私もきっと、太郎をいじめている時、同じ表情をしていたのだろうか。
ああ、本当に、私は悪いことをしていたんだ。
「どうやったら、帰れるの?」
「さぁね」
私が口裂け女に遭遇したとき、もう既にスキマに入っていたの?
でも、その時確かに太郎も一緒にいた。
「もう宿題もルールも何もないんだ。スキマは楽しいよ」
「私は帰ってちゃんとするの!」
あとちょっとでわかりそうなのに。タロウが邪魔をした。遠くの方からうめき声が聞こえてくる。また、化け物が沢山寄ってきているの?
「ちゃんと? どうやってするのさ」
「全部改める。謝るし、性格も直すし、いじめもしない」
「そんなの、無理さ。いじめっ子はずっといじめっ子のまま」
タロウがふんと鼻で笑う。馬鹿にした笑み。今まではムカついて、暴言を吐いていたけれど、もうその私を捨てようと思った。
「まだ変わってもいないのに!」
こんなところ、いたくない。
友達と、パパとママと、学校で、家で、私は暮らしたい。
辛くっても、悲しくっても、思い通りにならなくっても、いい。
私は、もう悪いことはしない。したくない。
「簡単に無理とか、言わないでよ!」
「………………」
私はタロウの手を握った。
「さっきは助けてくれてありがとう。でも、私帰りたいの」
怖かった。でも、もう同じ失敗をしたくもなかった。
しばらくの沈黙。タロウの表情は、全然分からなかった。うめき声が段々近づいてくる。
「僕、頑張る子は、応援したくなるんだ。僕の分まで」
「え? 何を言ってるの?」
顔を上げたタロウは、最初にあった時みたいな純粋な表情をしていた。もう、怖くない。
「ドアの前に立って、太郎を思い浮かべるんだ」
「それだけ?」
「それだけ」
理科室の扉はぴったりと閉じていて、その向こうは空っぽだ。遠くからのうめき声が段々近づいてきている。
「大丈夫、僕が全員やっつけるから」
きゅるきゅると、車輪の回る音。ずるずると、何かを引きずる音。
「見ちゃダメ。華恋は集中して」
タロウの声と重なるうめき声。
太郎のことを考える。理科室に閉じ込めた、弱々しい、あの同級生。
私をハナコって呼び間違えた、太郎。
何をしても、動じない、太郎。
太郎、太郎、太郎……!
ぎゅ、と目をつぶる。私のしてしまったこと、全部全部が間違っていた。
「またアソボ、華恋」
「ほんとうに、ごめん!」
声が重なった。タロウは何て言った?
おおきな音みたいだった。
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