解放

「走るよっ!」「っ、だれ?」


 涙が出そうになったその瞬間、誰かに手を取られて、そのまま引っ張られた。

 その声は、どこか聞き覚えのあるような、ないような、そんな懐かしい声。


「おじょぉ、さぁあぁぁああ!」


 近かった気配が遠ざかる。それと同時に「何か」がこっちを追いかけてくるような動きが見えた。

 視界の端で、見えた影。背の高い女の人だ。

 にょきっと伸びる白い手足、顔半分を覆うような、マスク。

「口裂け女?」

「ダメだよ、名前を呼んじゃ」

「ああぁぁぁあああああ」

 怖い話に出てくる、都市伝説に出てくる、口裂け女だ! 実在したんだ。

 そんなドキドキと、驚きと、色んな感情がごちゃ混ぜになって、ぼうっとしてしまう。

 私を追いかける口裂け女。それに、手を引っ張って助けてくれた、誰か。

 夢中で足を動かす。ここで転んじゃダメ。ここで転んじゃダメ!

 誰かに引っ張られながら、長い廊下を走る。すぐに階段が見えてくるはずなのに、いくら走っても、廊下の隅っこには行けない。

「あれ? 階段は?」

「気にしない、気にしない」

 手を引っ張る誰かは、走っているのにもかかわらず、息も切らさずのんびりと言う。その飄々とした感じが、不気味だ。

 廊下だけが引き延ばしになったみたいで、どこまでもどこまでも理科室の前を走り続ける。外の景色がちらっと見えた。もうあかね色の空。夕方になっている。


 え、もう?


「あんまり外を見ちゃ、いけないよ。戻れなくなっちゃうよ」

「どこに?」

「気にしない、気にしない」

 手を引っ張る人物に、初めて注意を向けた。その人は私と同じ背丈の、人だった。でも、服がなんだか変な感じ。着物みたいなものを来ている。

 髪はちょっと長くて、でも、男の子だ。

 おんなじくらいの年だと思った。でも、大人みたいだとも思った。

「あなた、は?」

「それより今は、口裂け女をなんとかしなくちゃ!」

 私の質問は、うやむやにされてしまった。あ、そうじゃん。

 後ろを見ようとすると、「前だけ見て。走って」と咎められる。どうして、と言いかけて、辞める。いっぱい話すと口の中で舌を噛みそうだった。


「まぁ、対処は簡単なんだけど」


 その人は、私の手を離した。ちょっとした抵抗がなくなって、思わず止まってしまう。


「そのまま走れ!」 


 鋭い声がして、私は思わずそのまま走り出す。それでも、遠い遠いゴール。

 廊下の端っこはいつまでたってもやってこない。ずっと片側は理科室、片側は変な天気の空。ガラスが心なしかガタガタと鳴っているような気がしてきた。台風が来る直前みたいな空。めまぐるしく変わる天気が、凄く怖い。

 階段まで、到着できる気がしない。ありえない長さに引き伸ばされた廊下も、怖い。

 一人が心細くなって、振り返ってしまう。小走りをしながら、ちらっとだけ。

 すると、着物姿の男の子の後ろ姿と、背の高い、おどろおどろしい女の人みたいなものが向き合っている。男の子越しに、その人間みたいなものは私に「オジョウサン」と音をだす。顔らしき部分が、ニタァと黄色いつぶつぶを見せた。笑ってる?


「あー、ダメじゃん。見たら」


 男の子は、強風の時みたいに顔を覆って腰に力を入れているみたいなポーズを取った。教室で男子がヒーローごっこをするときにやるポーズみたいにも見える。

 背中が大きく震えた。

「ポマード、ポマード、ポマード!」

「――キャァァァアアアアア」

 黒板に爪を引っかけたような嫌な音が聞こえ、思わず耳を塞ぐ。この音を聞くと気持ち悪くなるのに。ぎゅ、と目をつぶって深呼吸する。

 大丈夫、大丈夫。

 がくがくと膝が震えていた。

「大丈夫だよ、お嬢さん」

 気が付くと、明るさが戻っていた。いつの間にか引き延ばされた廊下も元に戻っていて、もう階段の近くまで来ていた。着物の男の子が、私の手の上から――耳を塞ぎっぱなしだった手の上――手を押さえた。冷たくて、ひんやりしている。気持ちが良かった。

 ようやく、そこで着物の男の子の顔を見た。

 それはよく知っている顔だった。

「太郎?」

「あれ、自己紹介したっけ?」

 あの憎い、太郎の顔が、そこできょとん

としていた。


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