第7話 ランチメイト
今すぐ帰ろうとしていた小熊は足を止めた。
どうやらこの竹千代という女は、自分と春目に昼飯を振舞ってくれるらしい。
小熊の背後でいそいそと出かける支度をしている春目はともかく、自分は一食の飯に釣られるほど飢えてはいない。
家に帰れば米が充分にあり、冷蔵庫には先日の特売で買い溜めた鮭の切り身がある。味噌汁の具にちょうどいい塩漬けじゃない生のワカメも、安価な充填豆腐じゃない地元の豆腐屋で作られた豆腐も、先日南大沢駅前のスーパーで買った物がある。
塩鮭に更に粗塩を振ってジップロック袋に入れた自作の辛塩鮭も、そろそろ冷蔵庫の中で食べ頃になっているだろう。
家に昼飯を食べに帰るまでもなく、大学には安い共済食堂があり、それとは別にハンバーガーとパイが美味なカフェダイナースタイルの学食がある。アニメで見るヒロインがそのまま出て来たような赤毛のウエイトレスも、自分以外の客には愛想がいい。
小熊は頭を頷かせて、竹千代のご相伴にあずかる意志を示した。
特に明確な理由があったわけでは無い。ただ、昼飯の米と汁とおかずを揃えていたが、ちょうど飯にかける卵を切らせていた。
この辺りで良質な卵を手に入れるには、大学と自宅を結ぶ通学路から大きく外れた町田市北部の鶏舎にある販売機まで行かなくてはならず、卵無しの昼飯を食うのも、近所の安売りスーパーで売っているブロイラーの卵で済ませるのも少々侘しい気がする。第一その卵を買いに行き、家に帰るカブが竹千代の軽バンに足止めされている。
こんな手間のかかることをわざわざするからには、竹千代に何らかの意図があるんだろう。それに乗ってみるのも悪くない。昼飯さえ奢ってもらえるなら損をした気分にはならないだろう。
もっとも、シャバの昼飯を当分食べられないような面倒事に巻き込まれる可能性もあるが、その時は春目を身代わりに据えればばいい。きっと彼女は塀の中で、今よりずっと豪奢で安全な暮らしが出来るようになる。
あれこれと考えながら、小熊は自分が竹千代の目論見に乗ったもう一つの理由があることに気づいていた。
夕べ、夜中のハンバーガーショップで見かけた、桜色のカーディガンを着た孤独な少女。彼女と関係があるのか無いのか、その時の自分の頭を過った思考。自分には友達が一人も居ないということ。
少なくとも今のところ、それに不便や不満を感じていない、でも、これから先においては変わってくるかもしれない。バイクだって普通に乗っていれば不備の無いバイクが、仕事での運用やスポーツ走行をした途端にバンク角が浅いとかパーツの供給が乏しいなどの不具合が明らかになることがある。
もしかしたら将来において自分は、友達という存在を必要とするのかもしれない。
本当にそうならば、それは改善すべき生活の問題点。今の自分の暮らしを守るには、表面化し、可視できる問題を解決するだけでなく、まだ水面下にあって認識できない問題についても、対処の準備を事前に整えておいたほうがいい。
そのため自分は何をすればいいのか、とりあえず友達を作るという難事は、現実的とは言えないので除外する。
バイクに乗っていて自分はこんな時にどうしていたか考えた。小熊は自分の乗っているカブのトラブルを解決する時、いつもカブでより良く快適な走りを出来るように改善するより先に、カブで事故や自走出来ぬ故障を起こさないように不調の芽をこまめに摘んできた。
いい所を伸ばすよりまず悪い所を潰す。今までバイクに乗って生き延びてきた自分自身の法則に従うなら、友達とかいう物が出来た時の幸福について楽観的な思いを馳せるより、その友達が自分に不幸をもたらす可能性を考えるべきだろう。
そのためには、まず絶対に友達になってはいけない類の人間をよく見定めること。
小熊がその基準に当てはまる人間として、真っ先に思いついたのはただ一人。竹千代という女。将来における自分の幸福な人間関係のため、この人物の行状をよく見なくてはいけない。
小熊は軽バンのドアに手をかけながら言った。
「昼食はどこで?」
竹千代は相変わらず彼女の本当の心がどこにも見えない笑顔を浮かべながら答えた。
「徒歩で行こう、きっと小熊くんが気に入るランチをご馳走できるだろう」
竹千代は、大学敷地に人工的に植樹された森の中の小路を歩き出した。
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