第6話 掌
小熊は竹千代の顔を見るなり、慌ててコートを着て逃げ出そうとした。
この黒く仕立てのいいシルクのワンピースを着た女は、この大学に経済学部の三年生として在籍しているセッケンの部長。竹千代という名を称していることは知っているが、それが本名かどうかさえ怪しい。
他にこの女について小熊が知っていることがあるとすれば、彼女が非常に知性に優れ、美麗で、そして悪辣だという事。
この女に係わるとろくな事が無いという小熊の予感は、今まで外れたことはない。竹千代は黒真珠のような瞳で悠然と小熊を見つめている。
「ここでの用は終わった。帰らせてもらう」
そう言った小熊の顔は歪む。
彼女の運転してきた軽バンは、プレハブ前に駐めた小熊のカブのすぐ近く、前輪から数ミリの位置に駐められていた。
小熊がこのセッケンの部室で、何か頂戴出来る物は無いものかという助平心が働き、両輪を接地させ車体を傾けて駐めるサイドスタンドではなく、車体を直立させ後輪を浮かせるセンタースタンドで駐めていたことが災いした。横風や不意に人がぶつかった時の衝撃による横倒しに、サイドスタンドより幾らか弱いセンタースタンドは普段は給油かメンテナンスの時くらいしか用が無いが、後部のボックスに重い荷物や嵩張る物を積む時は、センタースタンドのほうが積載作業をしやすい。
この状態で軽バンに前輪をぶつける事無くカブを出すには、重い後部を持ち上げてセンタースタンドを外し、車体を後ろにずらすしか無い。
小熊は以前、高校時代に小熊のカブの面倒を見てくれていたシノさんという中古バイク屋店長が、同じことをした瞬間にギックリ腰になったところを見たことがある。
竹千代の車など思い切りぶつけたほうがスっとするとも思ったが。前輪が歪みでもしたら、スポークの張り具合を調整し直して歪みを修正する、凄く面倒な振れ取り整備をすることになる。それに何より、所有し乗っている人間がどんなに悪どい人物だったとしても、車に罪は無い。
カブの構造を熟知した足止め方法。それを竹千代に教えた人間が居るとすれば一人心当たりがある。小熊は振り返って春目を見た。
春目は両手を拝み合わせ、済まなそうな顔をしている。彼女は途中までしか行けなかった高校時代、カブで各戸を走り回る広告チラシのポスティングの仕事で生計を立てていて、人を使い捨てる過酷な勤務環境の中でカブの扱いに熟練することとなった。
竹千代が今すぐ張り倒したくなるような微笑みを浮かべながら言った
「春目くんに小熊くんを足止めする方法を聞いたところ、喜んで教えてくれたよ、こうやって停めればカブを出すのがとても面倒になる、後ろに重荷でも積んでいればほぼ無理だってね、車のほうに頼んでどいて貰うしかないと」
振り返ると、春目が今にも消えてしまいたそうに体を小さくしている。小熊は春目のほうを張り倒したくなったが、春目には以前、小熊が急病になった時、カブの後ろに縛り付けて病院まで搬送して貰ったという恩がある。春目が苛酷な配達業務で得た卓越したカブの操縦技術が無ければ、急性の腸イレウスとなった小熊は処置が遅れ危ない状況だった。
そして、大学進学と共にカブ90に乗り換えた今、小熊が高校時代に乗っていた50ccのカブは整備し、仕事先に取らされた小型二輪の免許を所有する春目に譲渡されている。
命の恩という理由もあるが、状態が悪く壊れそうな自転車に乗り、山野草や街のゴミを集めて回っている彼女の、今にも崩壊して失われそうな脆弱な生活レベルを向上させたかった。何か彼女にとって大切な物を持ってほしかった。
小熊のそれらの行動が全て竹千代の掌の上だとは思いたくなかった、もうしそうならその指の骨を何本か折ってやろうと思った。きっと釈迦の掌の上から飛び去った積もりが、目の前に釈迦の指があることに気づき己の限界を知った孫悟空も、目印を失って飛び去っていくだろう。
春目はポスティング業務に従事していた頃、同じ境遇で苦労を分かち合った友人を失っている。彼女はそれを思い出させるカブに乗ることを拒んでいたが、小熊があげたカブは自分のアパートに保管し、たまにエンジンをかけたり磨いたり、近場の外出に使ったりしているらしい。
小熊は春目の褐色がかった頭をひっぱたいた。それはそれ。腹の立つ物はしょうがない。
脳天を平手打ちされた春目が「小熊さんの手…強くて逞しい…」と呟くのを背に、小熊は次はお前の番だとばかりに竹千代に詰め寄る。
竹千代は張り倒す手に今すぐ鉄の爪を生やしたくなるような澄ました笑みを浮かべながら言った。
「友人たる君たちとランチを共にしたくて、急いで帰って来たんだ。小熊くんも春目くんも、昼食はまだだろう」
この女が友達だなんて何の冗談だ、と思った。小熊は春目を振り返る、彼女はつい先ほども見た仕草で首を振っている。
竹千代は友達じゃない。少なくとも小熊にとって、実益や利得で繋がった人間関係は、友達と呼べない。
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