5 - 3 響野
ヒサシを担ぎ込める病院は、この土地には存在しなかった。119番も機能しない。念の為110番をしてみたが、やはり無反応だ。こんなことがあっていいのか。
アスファルトの上にぶっ倒れて動かなくなった弟を見下ろし、稟市が再度舌打ちをした。何を考えているのだろう。いちばん手っ取り早く確実なのは、ヒサシを稟市のクルマに乗せ、高速道路に乗ってこの土地を去る──だ。もう真夜中だし、道もそれほど混んではいないだろう。問題は東京に戻るまでヒサシが無事でいてくれるかどうかだが、それはもう本人の体力に賭けるしかない。
スマートフォンが震えている。
「ああもう、うるさいな……!」
「響野くん、そっち出て。ヒサシは俺がどうにか」
「えっでも」
ヒサシと稟市は頭ひとつ分近い身長差がある。ヒサシの方が大きい。体格も良い。稟市ひとりでヒサシをビジネスホテルの駐車場まで運べるとは思えなかった。
「いいから出て、こいつは死なない」
弟の側にしゃがみ込み、吐瀉物で喉が塞がらないよう顔の角度を変えてやりながら稟市が繰り返す。響野は渋々、発信者不明の電話に応じることにした。
「響野ですが」
『
「木端さん!?」
『弁護士は?』
掃除屋の木端だった。驚きすぎて声が裏返る。
『記者と話しても仕方がない。弁護士は? いや、拝み屋と言うべきか?』
「稟市さんは今……ちょっとヒサシくんがヤバくて……」
『結局ヤバくなってるのか。なんのためにS県まで……まあいい』
ヤバいみたいですよ、と木端が誰かに声をかけているのが聞こえる。ヤバいのか、とのんびりとした声で反応するのは──
「え? 木端さん? いまそこに俺の」
『逢坂さんがいる。ちなみに私たちは今問題のXビルの前にいる』
木端の声は平坦だった。だが、響野はそういうわけにもいかない。Xビル。そもそもの発端。できれば誰にも近付いてほしくなかった。
(──一応質問するけど、あんたが取材した相手の中で取材後に亡くなった人間は何人いる?)
無藤絹子の言葉を思い出す。死人の数なんて、いちいち数えているはずがない。
記事にした30代のヒップホップファンの男性も、後輩に頼まれてアイドルイベントを見に行ったという女性も、今現在生きているかどうかと響野は知らない。一階でバーをやっていた灰沖国広は死んだ。心身に異常を
無藤絹代とはいったい何者なのか。
S県を、Xビルの持ち主である無藤明星を訪ねればすべての回答が提示される、と思ってたわけではない。さすがに。しかし謎が深まるとも思っていなかった。
無藤家の女性たちの証言を聞く限り、『絹代』はどうやら人間ではない。そういえば明星の口からは『絹代』という名前は出てこなかった。『絹代』の名前を明確に口にしたのは七花だけだが、母親である絹子と、叔母の初子は七花が絹代と交流を持つことに対して否定的だ。
『憲造、聞こえるか』
「じいちゃん!」
電話口から、逢坂一威の声がした。
「何してんの!? 危ないから帰ってよ!」
『そうもいかん。ここで無茶をやれるのは俺たちだけだからな』
俺たち。
すなわち。
『今から、このビルを壊す』
「はあ!?」
腹から声が出た。
「いや、そんな、勝手に」
無藤明星の許可は取ってあるのだろうか。ないだろう。こんな真夜中に。真夜中じゃなかったとしても、無藤明星が、あの気位の高そうな男が「あなたの持ちビルを今から破壊します、ご了承ください」という交渉──ですらない──に首を縦に振るとは思えない。
『
「!」
吉平和佐。響野の友人、長谷川清一の保護者であり、元ヤクザ。現在は建築会社の幹部である、彼が。
『熱も下がらんし、髪を吐く』
「髪を……」
『吉平には姉がいた、らしいな。もう死んだと清一から聞いた』
ここでも姉と弟だ。
気が狂いそうになる。
『手紙の内容な、俺は覚えてる』
「じいちゃん……」
『姉と弟のあいだにこさえたガキを、井戸に捨てたって話じゃないか。その井戸はこの、ビルの下にあるんじゃないのか』
「じいちゃん」
そうとは限らない。まだ謎はすべて解けていない。早まらないでほしい。
どんな言葉も無意味だ。祖父は元殺し屋で、今も必要とあらば躊躇いなく凶器を手にするような男だ。
その彼が、吉平和佐が危ないという理由で、Xビルを壊すと決断した。
元殺し屋、逢坂一威。彼が第一線で戦っていた頃、響野はまだ生まれていなかった。だから取材対象のヤクザたちの証言しか知らない。
──逢坂が白だと言えば、黒いカラスも白くなる。
──逢坂は使われる側の人間だったのに、彼の言葉は組長の発言よりも重かった。
『木端です』
通話の相手がまた変わる。木端に祖父を止めてくれと懇願しても無意味だと、既に分かっていた。
『東條の息がかかった解体屋が来ています。夜明けまでには終わるでしょう』
「めちゃくちゃしますね……」
『逢坂さんの命令です。断れる人間なんていない』
それでは、と木端は華やかに笑った。
『明け方、私がまだ生きていたら、連絡します』
通話は、一方的に打ち切られた。
「なんだって?」
稟市が尋ねる。スマホを手にした格好のまま、
「ビルを壊します」
と響野は応じた。稟市は驚かなかった。
「ま、それしかないだろうな」
「それしかないって」
「井戸だよ。井戸の中身だ」
ヒサシの吐瀉物をどこかで買ってきたらしいペットボトルの水で洗い流し、その場に残った髪の毛を靴のつま先で道路脇に寄せながら稟市は言う。
「無藤家の女性たちは絹代のことを知っているが、俺たちに詳しいことを喋ろうとはしない。明星については隠しているのかいないのか、それすらも分からない。だったら実力行使だ。井戸の中身をひっくり返す」
「井戸……」
うわ言のように、ヒサシが呻く。
アスファルトに片手を付いて身を起こしながら、ひび割れた声で呟く。
「稟ちゃん、そこに、おねえちゃんがいる」
ヒサシの視線の先には、夜の闇だけが広がっている。
「つるぎおねえちゃんがいる、なんで」
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