5 - 4 響野
夜明けを待つ。それしかできることがなくなった。
響野はヒサシに肩を貸して、ビジネスホテルの駐車場までどうにか歩いた。チェックインはしなかった。3人でクルマの中に縮こまり、朝を待つことにした。
ヒサシの意識は朦朧としていた。鼻血を出した。後部座席に長身を寝かせ、運転席には稟市、助手席には響野が座った。
今、東條組関係者の解体屋がXビルを破壊している。どうか誰も死なないようにと祈った。初めて、心の底から願った。祖父が、木端が、巻き込まれて死なないように。
──井戸の底には何がある。
「赤ちゃん」
ヒサシの声がした。
後部座席に仰向けに寝転がった彼は、瞼を半分下ろした目で何かを見ていた。
「赤ちゃんがいる」
「ちょ、ヒサシ……」
彼らしからぬ胡乱な物言いに、響野は少し焦った。だが、バックミラーで弟の姿を確認した稟市は、
「なんで?」
と低い声で尋ねた。
「おまえには何が見えてる?」
「つるぎおねえちゃん」
市岡きょうだいの真ん中の娘。大人になれなかった、姉であり妹である女性の名。
「つるぎが、何を言っている?」
「赤ちゃん、産みたかった、って」
「ヒサシよ」
煙草に火を点けながら稟市が唸る。
「それはつるぎではない」
「おねえちゃんじゃないなら、誰」
「そうだな」
紫煙を吐き、稟市はクルマの天井を見上げる。
「概念かな。姉という概念」
「が……何それ。難しいこと、わかんない、俺」
「俺が思うに、姉がいる弟、弟がいる姉ほど感染しやすい。今回の化け物は」
おまえも、と急に胸を叩かれた。響野は思わず両目を見開く。
「おまえもそうだな、響野憲造」
「何、が、です」
「姉がいるな」
「……い」
いません。と答えることができなかった。
いる。
響野憲造には、離れて暮らす姉がいる。
離れて、というのは物理的な距離だけの問題ではない。響野の母は、自身の父親を忌み嫌っている。逢坂一威という人間を毛嫌いしている。理由は簡単、彼が殺し屋だったからだ。逢坂は早くに妻を亡くし、男手ひとつで娘を育てた。娘を育てるために必要なカネはすべて、人殺しで稼いだ。響野の母は、その現実を受け入れられずに一度壊れた。生まれたばかりの息子を、憲造を放り出し、新興宗教に傾倒した。ちょうど宗教問題に深く関わっていたジャーナリストの男性が、結果的に響野の母親を宗教そのものから引き摺り出すことになった。ふたりは後に再婚し、憲造には血の繋がりのない姉がふたりできることになった。だが、母は、憲造を手元に置くことを固く拒否した。殺し屋の血を引く息子を愛せないと泣いた。それで響野は、人生のほとんどを祖父とともに過ごした。ジャーナリストの男性──継父に当たる男も、血の繋がりのない姉たちも、憲造の存在を無視した。別に構わなかった。母親は最初から憲造を嫌っていたのだ。その証拠に、憲造は自身の実の父親が今どこで何をしているのかも知らない。『響野』という苗字は母親に種を仕込んだ男性の苗字だという。それだけは知っている。書類の上の響野の本名は逢坂憲造だ。
「いてもいなくても関係ないような姉でも、いるってなったら何か違うんですか」
「さあな。でももしかしたら、おまえの知らないところでおまえの姉にも何か異変が起きているかもしれない」
関係ない。どうでもいい。そう思いたかった。
だが、手が勝手にスマホのアドレス帳を開いている。
母の名前。姉の名前。継父の名前。
連絡を入れてどうなるというのか。何も起こっていなければまだいい。何か起きていた場合、響野憲造にできることなど何もないというのに。
窓の外に女の影が揺れる。
黒い髪、白いワンピース。
眼球は解けていない。目玉がある。
姉の顔をしている。
ふたりの姉のうち、年上の方の姉の顔だ。
「けんちゃん」
一度もそんな風に呼ばれたことがないのに、当たり前のように女は言った。
「赤ちゃんほしいよ、けんちゃん」
勘弁してくれ。
「稟市さん、なんかできないんですか。結界張るとか」
「俺はそういうのじゃないから。ただの狐の神社の息子だから」
「でも今、窓の外に」
「つるぎおねえちゃん」
後部座席のヒサシが体を丸めている。胎児のように。
「無理だよ俺には無理だよ赤ちゃんなんて無理だよつるぎおねえちゃんおねえちゃんはもうこの世のひとじゃないんだよおねえちゃん」
ひた、と助手席の窓に女が白い手のひらを押し付ける。
血の繋がらない姉が微笑んでいる。
現実世界では一度も、笑みを見せてもらったことなんてないというのに。
「けんちゃん」
「やめろ」
「けんちゃん、好きよ」
「うそだ」
稟市は黙って煙草を吸い付けている。
「呑まれたら置いてくぞ」
「は……?」
「おまえたちは今、絹代と相対している」
「何を……」
姉に。最後に出会ったのはいつだろう。
中学生の頃ではなかったか。憲造の母が再婚したのがちょうどその頃で。憲造は不登校だった。祖父が悪人だと、ヤクザだという噂が広まって、いじめのような目に遭っていた。
あの頃、憎んでいて、すべてを。
再婚する母親が連れ出してくれるんじゃないかと思っていた。
『憲造』
母の声が聞こえる。幻聴だ。
『さよなら』
あれから何年、会っていない?
「つるぎおねえちゃん!」
「うるせえヒサシ!」
悲鳴を上げる弟を、稟市が容赦無く一喝する。
「ここでその女を孕ませるようなら俺はおまえを殺すぞ!」
「だって、稟ちゃん、おねえちゃんが、入って、く」
姉が、眉を下げて憲造を見詰めている。
蕩けるような表情、蜜のような笑顔。
──嘘だろ。
「だってあんた、俺を憎んでるじゃないか」
窓ガラス越しに手のひらを合わせ、憲造は言った。
瞬間、姉の顔が腐り落ちた。
悲鳴を上げ続けるヒサシは、姉と良好な関係を築いていたのだろう。であれば現在のこの状況はかなり苦しいに違いない。
「稟市さん」
「はい?」
「運転席、俺が座ります」
「は?」
「ヒサシのこと殴ってやってください」
「!」
驚いた様子で、稟市は形の良い眉を跳ね上げる。
「絹代は」
「外で腐ってます」
「自力で突破するとは」
「俺に姉なんかいないんで」
稟市は笑う。笑って後部座席に移動し、弟に馬乗りになってその顔を殴り付け始める。
朝が近い。
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