5 - 2 響野
友人に、
「曜子さん? 櫟曜子さん?」
稟市の呼びかけに、「はい」と曜子が思いの外大きな声で返事をするのが分かる。
「私は響野さんの友人で、弁護士の市岡と申します。……猫田さんは、間違いなく亡くなられているんですね」
スマホを稟市に明け渡した。彼の方が、話を正しく進めてくれる。
「なるほど、最後に連絡を取っていた相手があなただった、と──」
だが、猫田は音信不通になっているのではなかったか。曜子は以前、そんな風に言っていなかったか。
「実際起きていることと、目に映ることは案外違ったりもします。曜子さん、あなたのところに私の同僚の弁護士を向かわせます。
沈黙。曜子が何かを喋っている。
「なるほど。警察がどういう理由で五橋典子を犯人を見做したのかは分かりませんが、早々に報道に乗っている以上それなりの根拠や動機、証拠があったのでしょう。分かりました。曜子さんの元に警察が訪ねてくることがあるかもしれませんが、弁護士が来るまでは何も喋らないで。名前は相澤です。
小声で住所の復唱。それを片耳で聞きつつ、
「相澤くん、聞こえた? 住所。今すぐ行ってね。もう誰がどう巻き込まれるか全然分かんないからね」
と、ヒサシが兄の共同経営者である弁護士・相澤に連絡を取っている。
誰がどう巻き込まれるか分からない。
本当にその通りだ。
灰沖に続き、猫田も死んだ。彼も髪の毛を吐いたのだろうか。いや、それ以前に。
「一旦出よう」
響野の手にスマホを返しながら、稟市が呟いた。
「絹子さんの言っていた通りだ。どうもおかしい」
(──無藤ってさ、良い家じゃないから。分かる?)
艶のある黒髪を肩甲骨より下まで流し、体のラインを強調するタイトなニットワンピースに身を包んだ絹子が、一瞬真顔でそう言った。
言葉が奇妙に、鼓膜で反響する。
店の外に出る。湿気を孕んだ夏の風が3人の頬を撫でて去った。
「響野くんの勤務先に送られてきたこのラブレター」
鞄を叩きながら稟市が言う。
「これについてまともな証言を寄越したのは絹子さん、無藤明星の姉である絹子さんだけだ」
「もうひとりいるよん」
考えを整理するかのように呟く稟市に、弟のヒサシが声を掛ける。
「はなちゃん」
「……絹代さんのお嬢さんか」
「はなちゃんの証言はマジで興味深かった。まあぶっちゃけ児相案件でもあるので俺は今回の件を生きて切り抜けることができたら即通報する気持ちだけど」
長い黒髪──そうだ、ヒサシも髪が長い。その髪を手にしたゴムとピンで器用にお団子に纏めながら、市岡ヒサシは続ける。
「まずはなちゃんは絹代ちゃんのことを知っている。絹代ちゃんは庭からやってきて、祖父の仏壇がある部屋に座る。歌をうたう。歌を聴きながら眠ってしまい、母親の絹子と叔母の初子に叱られたことがある。絹代ちゃんとはなちゃんが遭遇したのは、一度や二度ではない」
喋る、喋る、喋る。
まるでこの機会を逃したら二度と言葉を発することができなくなる、とでもいうように。
市岡ヒサシの目は血走っている。24時を回った喫茶店前の路上には人はおらず、響野ら3人だけが立ち話をしている──ようにも見えるかもしれない。
本当にそうだろうか?
本当にここには誰もいないのだろうか?
視線を感じる。
だからヒサシも喋り続けている。
喋り終えたら。彼は。
「はなちゃんは無藤明星を嫌っている。理由のひとつが、彼女は『七花』という名前であるにも関わらず、父親は『絹代』と呼んでくるから、というものがある。では『絹代』とはいったい何者なのか? 俺は正直、地鎮祭の現場に現れたり、夢に出てきたりする、結構強めの怨霊だと思ってた。まあ死んだのが最近じゃないにしてもさ。心残りがあるっていうか。それこそ響野くんが記事にしてたあのライブハウスビルと関わりがある幽霊で、記事として世の中に知れ渡ったことでもう一度現世に姿を現した──的なさ。でもはなちゃんの話を聞いてると、なんだろう、どうも違う気がする」
ヒサシが咳き込んで、地面に唾を吐いた。
髪の毛が混ざっている。
響野の背筋は冷えたが、ヒサシは笑っていた。
「やべーなこれは。やべーよマジで。稟ちゃん聞いてる? まだ聞こえる? 響野くんも? 俺まだ喋ってて大丈夫かな?」
「思いついたこと全部言え」
スマートフォンの画面をタップしながら稟市が呟く。ヒサシが笑う。
「いつもは思ったこと全部口にするなっていうのにね。まあいいや。はなちゃんが言ってたことでもうひとつ気になったことがある。怒ると、実の母親である絹子よりも叔母の
また唾を吐く。今度は血が混ざっている。
そしてやっぱり、髪の毛も。
「絹代は……赤ちゃんを、なくして、いるという……その上で七花に接触して、七花が自分の赤ちゃんであればいいのにと言った、と……これ俺は最初ネガティブな意味で理解してた。この世のものではない存在が、現世の子どもを引きずり込もうとしているんだって。でもどうやら、違う。はなちゃんの証言を信じるなら」
視線を感じる。
響野が喫茶店の方を振り返るのと、ヒサシがその場に蹲って嘔吐し始めるのはほぼ同時だった。
喫茶店の窓に、大勢の人間が張り付いている。
人間。人間だろうか。
黒い髪、白い服、空っぽの眼窩。
見ている。ない目玉で、こちらを見詰めている。
ヒサシの吐瀉物には酒、それに大量の黒髪が混ざり込んでいる。
稟市が大きく舌打ちをした。
スマートフォンが震え始める。
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