3 - 4 市岡稟市

 大丈夫、大丈夫、と言いながら手洗いに消えて行ったヒサシの顔色は蒼白だった。その場にいた誰もが嫌な予感を覚えていた。稟市だけが冷静に、

「これ持ってけ」

 と使い捨てビニール手袋と、ジップロックを手渡していた。稟市のふところには底なしのポケットでも付いているのだろうか。なんでも出てくる。

 やがてげっそりとやつれ果てた顔で戻ってきたヒサシは、兄と目を合わさずにジップロックを手渡した。

「おじいちゃん、ごめん、トイレのゴミ箱に手袋捨てちゃった」

 ヒサシは逢坂の身内でもなんでもないのに、彼を『おじいちゃん』と呼ぶ。

「ああ、それは構わんが……」

「構うよ! 俺回収してくる!」

 響野には既に見えているのだ。祖父にまで伝播させるつもりはない。

 トイレに駆け込むと、確かにゴミ箱の中に透明の手袋が突っ込まれていた。祖父から受け取ったビニール袋にゴミ箱の中身を全部開け、口を硬く縛る。燃えるゴミの日はいつだったか。明日ならば雑居ビル共有のゴミ捨て場に置いて来ればいい。明朝には回収される。だが、そうならないなら、この手袋は響野が持ち帰る。

 店の方に戻る。ヒサシはカウンター席ではなく丸テーブルの方に移動し、テーブルの上に突っ伏して荒く息を吐いていた。稟市はといえばそんな弟の姿を気にする様子もなく、ジップロックの中身をじっと見詰めている。

 そこには。


 髪の毛が入っている。

 ヒサシが髪を吐いたのだ。


「予想大当たり、といったところか」

「クールねえ、拝み屋さん。弟が死にそうになってるのに推理の続き?」

 呆れたような、軽蔑したような口調で木端が言った。しかし稟市は彼女の皮肉を大して気にした様子もなく、

「そう、推理の続きです。愚弟のお陰で核心に近付いた」

「つまり?」

 清一が言葉を受け取る。大人たちが揉めることでいちばん迷惑を被るのは最年少者の清一だ。つまり──と稟市が少しだけ柔らかい口調で応じた。

「清一くん。?」

「え?」

 柔らかい口調ではある。だがそれは、清一に投げかけるにはあまりに無神経な質問だった。

「ちょっと!」

 自身の体調の悪さも忘れて響野は大声を上げる。知っているくせに。そう、どうせ知っているのだ、この男は、弁護士なのだから。この場に集う予定の人間の家庭環境を調べ上げることぐらい、簡単なはずだ。

「そういうこと、清一に……」

「ええよ。響野くん。俺は別に」

 応じる清一は、響野の知る清一よりもずっと大人びて見えた。

 19歳なのに。

「俺には血ぃの繋がった家族はいません。みんな死んだから」

「亡くなられた。ご両親が、ということかな」

「そうですね。親父とオフクロは交通事故で死にました。きょうだいはおらんので、俺ひとりです。あと、吉平のオジキがお父さんみたいな感じです」

「ありがとう。では次、間宮くん」

「私ぃ?」

 間宮がさも面倒臭そうに顔を歪める。

「きょうだい? さあ、覚えてないな……」

「ちゃんと答えないと死ぬよ……」

 口を挟んだのはヒサシだ。安定しない呼吸の中でどうにか絞り出したらしい台詞に、女探偵は一瞬息を呑む。

「……親はもういない。弟がいる」

「弟さん」

「ふたりいる。どこで何してるかは知らないけど」

「了解。では次」

「親は離婚してるから母親だけ。あとは弟」

 木端が早口で応じた。

 それでようやく、皆が気が付いた。

 ──弟?

「それで半分」

 ヒサシが唸る。

「そう、半分。ヒサシ、おまえは」

「俺には……

 その話については聞いたことがある。市岡兄弟は、本当は市岡三きょうだいだったのだと。稟市の妹、そしてヒサシの姉に当たる女性が存在した。残念ながら十まで生きられなかったそうなのだが、

「姉と弟」

 稟市が続ける。

「五橋典子さんという、焼肉屋さんの正社員の女性。彼女には弟がいるという話でしたね」

 思い出す。猫田が。五橋典子をBという仮名で呼んでいた男が、他ならぬこの店のカウンター席で、そう語っていたではないか。

 店舗で倒れたBこと五橋は今も(おそらく)入院中。家族以外は面会謝絶の状態で、その五橋には年の離れた弟がいる──。

「おそらくですが、亡くなられた灰沖さんにもお姉さんがいるはずだ」

「ちょっ……と待ってください。家族の話聞いた気がする」

 なぜもっときちんと灰沖の話を聞いておかなかったのか。灰沖のことも助けられたはずなのに。メモ帳を取り落としそうになりながら捲る響野を尻目に、

「Xビルには2種類の怪異がいた」

 稟市が淡々と言った。

「ひとつは、井戸の怪異。これはXビルを建てる際に息抜きの儀式を行うのを怠ったがために出てきた、井戸の神様といっても誤りではないでしょう。灰沖さんが個人的に息抜きを設置したお陰で、Xビル内に姿を現していた期間はそう長くないはずだ」

 灰沖もそう言っていた。灰沖はいわゆる見える人間で、オープン前のバーの中に井戸の神様がいることにいち早く気付いて手を打った。だから、彼は、言っていたじゃないか。5年前にXビル開店直前に見かけた井戸の神様と、現在Xビルを騒がせている黒髪に白い服の女は別の存在だと──。

「もうひとつ、こいつが厄介だ。想像でしかありませんが、井戸に関わりがある存在なのでしょう。人間、元人間、どっちかな。井戸には神様がいるし、灰沖さんが神様のご機嫌取りをきちんとしていたお陰で5年間は大人しくしていた。それが、最近になって姿を見せるようになったのは、なぜか。姿を見せるだけではなく、『彼女』を目撃した人間や、」

 と、言葉を切った稟市は月刊海音の表紙を指先で叩き、

「この雑誌に掲載されている響野憲造さんが執筆した記事を読んだ者の中で、ある一定の条件を満たしている相手に悪意ある振る舞いをするようになったのは、──なぜか?」

 メモ帳のいちばん初めのページに辿り着く。灰沖の証言。怪奇現象とも井戸の神様とも無関係だろうから、ちゃんと聞いていなかった。走り書きのメモ。

 灰沖には姉がいる。今は都心部から離れて生活しているという、Xビルのオーナーと結婚している。


 姉と弟。条件は揃っている。

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