みっつ 髪の毛

3 - 1 横浜中華街、木野ビルディング

「大勢で来るな!!」

 横浜中華街──木野ビルディング。

 あきは開口一番そう喚くと、ぐったりと疲れ果てた様子でひとり掛けのソファに小柄な体を沈めた。

「ごめんごめーん。ほんとは稟ちゃん連れて来ようと思ったんだけど〜」

「稟市さんなら24時間いつでも大歓迎だが、それ以外は全員お断りだ……何をしに来た市岡ヒサシ。それに響野憲造。そっちは私立探偵の間宮最だな? はじめまして、秋だ!」

 疲れ果ててはいるものの、その場にいる全員の顔と名前は把握しているらしい。赤髪を揺らして目を瞬いた間宮は「はじめましてですよね?」と呟いて、不思議そうな表情のまま肩から提げていた鞄から名刺入れを取り出す。


 響野のバイクを間宮探偵事務所の駐車場に入れ、間宮が運転する軽自動車で横浜にやって来た。通常木野ビルディングを訪問する際には必ず作法を守らねばならないのだが、市岡ヒサシにはそんなものは関係ない。

「秋さん! 市岡です! Q県の市岡稟市の弟です! 緊急事態なので入れてください!!」

 と扉の前で大騒ぎをし、中から出てきた金糸の髪をドレッドロックスにしたワイン色のスーツの男性に大変嫌な顔をしながら迎え入れられた。

 ヒサシの兄であり弁護士でもある稟市と、木野ビルディングのあるじの秋のあいだには親交がある。自分でも言っていた通り、稟市の訪問であればアポなしでも深夜でも秋は大歓迎しただろう。だが、その弟であるというだけのヒサシには、秋は微塵も良い顔をしない。どちらかというと自分のテリトリーに入り込んだ大型の虫を見るような目で一同を眺めている。

「椅子はあとふたつしかないよ。ひとつは探偵さんが使うといい」

「レディファーストですか?」

「車を運転して都内から横浜まで来たんだろう。お疲れな人を優先しているだけだ」

「ありがたく座らせてもらいます」

 ソファに腰を下ろした間宮が差し出す名刺を、秋はそれでも両手で受け取った。

「私立探偵、間宮最──お噂はかねがね」

「私も、中華街の秋さんの噂は各方面から」

「本当に? 噂になるようなことはしていないつもりなんだけどな」

 黄金色の髪を耳の上にかき上げながら、秋は小さく笑った。疲れている。見るからに。

 響野が一瞬秋に視線を奪われているあいだに、ヒサシが空いている最後の椅子にストンと腰を下ろした。

「あーっ! ずる!」

「ずるくない。年功序列」

「ヒサシって俺より年上でしたっけ? そんな変わんなくないすか!?」

「俺に敬語を使っている時点で響野くんの負けなのだ。ワハハ」

 ワハハではない。そんな呑気な状況ではない。眉間に皺を寄せて言葉を返そうとする響野を「ところで」と秋が掠れ声で遮った。

「例の髪の毛の鑑定結果を見に来たんじゃないのか」

「あ、それもあるんですけど……」

「それ『も』? あれ以上の面倒を持ち込もうというのか!?」

 眦を吊り上げて秋は喚く。灰褐色の瞳が電灯の下で鮮やかに煌めいた。

「これを」

 と、間宮が鞄の中から茶封筒を取り出す。中身は、ヒサシに手渡した書類とまったく同じだ。Bさんという通称で猫田が語った女性についての身辺調査の記録。形の良い眉を八の字に下げた秋は、いかにも嫌そうな手付きで封筒を受け取る。

「はあ、これは──」

「秋さんの情報網ならもうご存じかとは思ったんですが、念の為」

「そこにいるポンコツ記者から軽く話は聞いている。餓鬼のように腹が膨れた女のその後か」

「まだ入院している、とは思います。私が情報を仕入れに行ったのが昨日のことなので、その……亡くなっていなければ」

「死んだかもしれないな。まあ、まだの耳には入っていない」

 書類をパラパラと捲りながら、秋は皮肉っぽい口調で続けた。

「何せわたくしどもは現在休暇中なのでねぇ」

「え?」

「休暇?」

 間宮、ヒサシの順でいかにも意外そうな声を発する。そういえば中華街の悪魔・秋が現在休暇中、と呻いていたことを伝え忘れていた。

「……響野憲造」

「すみませんわざとじゃないんです」

「おまえが逢坂一威の孫じゃなければこの場で縊り殺している。血の繋がりをありがたく思うんだな」

 憎しみに満ち満ちた声で唸った秋の目は本気だった。祖父が元殺し屋だったことで得られる恩恵はそれほど多いものではなかったが、今回ばかりは救われた。秋は、秋とその一党は、誰にも知られることなく人間を完全に消してしまうことができる。そうすることが許されている数少ない集団である。響野の存在をこの世から消去することなど、呼吸をするよりも容易いに違いない──後見人として現在は喫茶店店主として穏やかに生きている逢坂一威がいなければ。

「休暇中であっても急遽持ち込まれた仕事を引き受けた以上はきちんとやり遂げる。それがわたくしども、秋なので」

 と、秋が右手を上げてひらひらと振った。壁中に本棚が設置されている小さな部屋。その奥から紺色のブレザーにハーフパンツといった出立ちの小柄な若者が現れて、銀色のトレーを秋に手渡した。

 トレーの上には、あの日、同時多発人身事故の日、響野が介抱した男性の口から飛び出していた人毛──を入れたジップロックだけが置かれていた。

「中身は?」

 ヒサシが尋ねる。

 秋が答える。

 響野と間宮は顔を見合わせ、どちらともなく大きく瞬きをする。

「溶けたぁ?」

「そう。溶けた。解析も何もあったものではない。響野憲造。おまえが出て行ってわりとすぐ、この袋の中からは何もなくなった」

 それならば、連絡してくれれば良かったのに。言おうとして開いたくちびるを、すぐに閉じた。秋の、顔色が悪い。真っ青を通り越してもはや白い。

「秋、これは……」

「響野憲造。厄介なものを持ち込んでくれたな。今は幸いにも秋だけで食い止めることができているが」

 秋、というのは集団の名称であり、個人の名前でもある。今、秋が口にするは個人を示している。

 目の前で青白い顔に薄っすらと汗をかき、金色の髪を忙しなくかき上げている秋と呼ばれる人間。その人間の身に、何が起こっているというのか。

「夢を見る」

 呟くように秋は言った。

「子を孕む。悪夢だ」

「それ」

「おまえも見ているんだろう、響野憲造。まったくもって、のような人間にはこれ以上の地獄はないよ」

 吐き捨てる秋は、きっとここ数日ろくに眠れていない。アーモンド型の瞳の下に、くっきりと隈が浮かんでいる。

「子を孕む……?」

 おずおずと声を上げたのは私立探偵の間宮だ。

「それって、つまり、秋さんのお腹に」

「皆まで言うな、探偵。そういうことだ。この腹に」

 と秋は自身の薄い腹を黒いサテンのシャツの上からするりと撫でて、

「生き物がいる。赤ん坊がいる」

「膨らんではいない、ようですね」

「うん?」

 間宮の呟きに、秋が訝しげにまつ毛を上げた。

「なんだって?」

「腹が膨れてはいない。まだ取り返しがつく状態だと思います」

「……どういう意味だ?」

 秋が戸惑いの色を見せる。滅多にない光景だ。ひとり掛けのソファにだらしなく四肢を投げ出して座ったヒサシが、

「五橋典子のこと言ってんの?」

「うん」

 間宮はあっさりと首を縦に振る。先ほど押し付けられた書類に改めて視線を落とした秋が「腹が餓鬼のように膨れた女」と小さく呟く。

「探偵。この女には会えたのか?」

「いえ。面会謝絶で」

「生きてはいるんだな?」

「時間の問題だとは思います」

「ちょっと!」

 なんて不穏なことを言うのか。思わず大声を上げた響野を、秋と間宮が同時に睨んだ。

「灰沖は死んだ。この五橋という女性も症状を改善する方法が見つからない以上、いずれ命を落とすと考えて何が悪い」

「そ、れは……」

「それに響野。おまえの職場の責任者も今病院にいるな」

「……秋は、本当になんでも知ってるんですね」

 草凪のことなど、一度も伝えたことはないはずなのに。

「あの髪の毛は触媒だ。みだりに触れるとこういうことになる」

「触媒?」

「響野。おまえが書いた例の記事。それに髪の毛。もうひとつぐらいはトリガーがあるかもしれないが、巻き込まれるにはルールがある」

 丸テーブルの上をトントンと指で叩きながら秋が言った。

「おまえの書いた記事を読んだ人間全員が『こう』なっているわけではない。分かるか?」

「それは、はい」

「さりとて人身事故が起きた車内で人酔いして倒れた人間を介抱し、その結果不気味な髪の毛を持ち帰ってくる者が世の中の多数派だとは秋には思えない」

「つまり……?」

 まだ何かがある。何かが。そう呟いた秋は響野たちが入ってきた扉がある側の壁に視線を向け、それからさも嫌そうな顔で両目を閉じた。

「あっだよねー俺も思った」

 ヒサシの明るい声音が、今はいっそ不気味だった。

「女がいる」

「いるねー! 俺にも見えてる!」

「……どうにかできないのか? 

「難しい。だって対象が神様じゃない。なんなんだろう、あの女の人?」

「お言葉だけど……」

 と、間宮が床を見詰めながら小さく呟く。

「私には、窓の外に立ってるように見えるんだけど?」

「3階だぞ?」

 秋が吐き捨てる。間宮に対して苛立っているわけではない。あちこちからアプローチを仕掛けてくる、黒髪の女に怒りを感じているのだ。

「──

 何が面白いのかニヤつくヒサシ、珍しく憔悴している様子の秋、そしてどこか途方に暮れた表情の間宮を見詰める響野の口から、言葉が落ちた。

「手紙?」

 秋が訝しげに目を眇める。

「急に何の話だ?」

「ヒサシ、さあ、こないだ地鎮祭やった場所にうちの編集長が手紙置いてきたって……」

「ああ、そうそうそうだった。あれね、なんだったんだろう、あれ……んっ!?」

 どうしてこんな大切なことを忘れていたのだろう。

 草凪が何を考えていたのかは、響野にも、もちろんヒサシにも分からない。ただ少なくとも響野は草凪に、。なぜ草凪は、編集部に送られてきた手紙を抱えてあの場所に向かったのか。そして地鎮祭を終えたばかりの祭壇を荒らすような真似をして、手紙を叩き付けて逃げたのか──。

「まずい」

 ヒサシの大きく突き出た喉仏が上下するのが分かる。

「まずいな。稟市兄ちゃんに……」

「稟市さん今都内にいるの? 埼玉の事務所にいるとしたら間に合わないよ、うちの助手を……」

 さっとスマホを取り出すヒサシと間宮を黙って見比べた秋が、深々と嘆息した。

「どっちもやめろ。これ以上被害者を増やすなら、被害者になるに相応しい人物を選ぼう」

「は……?」

 これ以上怪奇現象を広げてどうするというのだ。呆気に取られる探偵、ヒモ、雑誌記者の目の前で「ああ、里中さとなか?」と秋は自身のスマホに向かって声を掛ける。

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