2 - 6 響野

 仕事中であるはずのくぬぎ曜子ようことはすぐに連絡を取ることができた。

「うちも電話しようと思うとったとこなんよ」

 と曜子は言った。

 ──猫田と連絡が取れないのだという。

「連絡が取れないぃ?」

 探偵間宮が素っ頓狂な声を上げる。

「マジで? 響野の友だちだし疑うわけじゃないけど、私がキッチンのおんちゃんから証言取ったの昨日よ?」

「ですよね……俺も曜子ちゃんにはその旨伝えたんですけど」

 もちろん、探偵を『Bさん』こと五橋典子の入院先に送り込んだなどとは言わない。ただ、曜子が紹介してくれた猫田という男性から聞かされた奇妙な出来事がどうもおかしな方向に向かっているようなのだが、彼とは最近顔を合わせたか、と尋ねたところ──

「焼肉屋には出勤してる。でも、ヨーコちゃんとは顔を合わせてない」

 咥え煙草のヒサシが唸った。

「ヨーコちゃんと猫田氏は、どういう状況で知り合ったのかな?」

「ええと……SNSでバンドやりたい人探してどうこうって言ってたような……」

 そうだ、猫田がドラムを叩いていたあの日。あの日が曜子と他のバンドメンバーとの初ステージだった。ギターとベースは響野の知り合いで、ドラマーだけがなかなか決まらなくて、結局SNSでドラムを叩いてくれる人間を探したのだ。

「じゃ、個人的に会ったりご飯食べたりお茶したりっていうのは──」

「ない! と思う……なくあってほしい……」

 本心だ。響野と曜子は清一も含めての関西時代からの友人だが、響野個人としては曜子に対して友人以上の感情を寄せている面がある。清一には伝えていない。その曜子が猫田と個人的な交際を、と想像するだけでゾッとする。冗談じゃない。何がなんでも阻止しなければならない。

「響野くんの個人的な気持ちはちょっと横に置いとくとして」

「そうだね。あんたが曜子さんラブなのは良く分かった。横に置いとこう」

 ヒサシ、間宮の年上ペアはドライである。だが言っていることは間違いではない。曜子には「猫田に連絡を取ろうとしないで」と強めに言い含めて通話を終えた。訝しげな声で「分かった」と言ってくれたので、一旦は大丈夫だろう。

「いつから連絡が取れないって?」

 手元にメモ帳とICレコーダーを置いて間宮が尋ねる。

「俺の……じいちゃんの喫茶店に猫田が来て焼肉屋の話をしてったんですけど、それ以降何も、って言ってました」

「地鎮祭より前か」

 腕組みをしたヒサシが呟く。

 そう。地鎮祭より前。

「間宮くん」

「うん、一応チェックはしてある」

 ヒサシの声に間宮は応じ、ローテーブルの上にスマートフォンをスッと差し出す。

 おそらく病院の待合室で撮影したものだろう。患者の時間潰し用にと新聞、週刊誌、それにコミック雑誌などが無造作に突っ込まれている空色のラックが写っている。

 その中に。

「海音……」

 思わず呻いた響野に「最新号」と間宮が平坦な声で応じた。

「人気雑誌だからねぇ。院内を見て回った感じ、入り口入ってすぐの総合待合室……ここ以外にもそれぞれ各科の待合があるんだけど、全部の雑誌置き場にぶち込んであったよ」

「か、回収を、会社に言って雑誌を──」

 発した声はまるで悲鳴のようだった。だが響野には、もうこれしか思い付かなかった。

 Xビルの記事が載っている雑誌を回収する。そうしなければ、被害が拡大する。

「無理でしょ。まず響野、あんたの社内の立場ってどの程度なの? 『怪奇現象が起きてるから雑誌回収してください』って言って通る? 無理でしょ」

「それは」

 無理だ。間宮の言う通りだ。分かっている。月刊海音の最新号に掲載されたXビルの記事が理由で怪奇現象が起きている、という証拠さえ存在しないのだ。入院中の草凪を無視してもっと上の立場の人間に訴えたところで、鼻で笑われるか、さもなくば叱責を受けるのがオチだろう。

「あとはねえ」

 吸い殻でいっぱいになった灰皿をゴミ箱の上に持って行きながら、間宮が溜息混じりに呟いた。

「実は──

「え?」

 響野とヒサシの声が重なった。

 空になった灰皿をローテーブルの上に戻した間宮が、自身のこめかみをトントンと叩きながら笑った。

「私にも見えている」

「それ、どういう……」

「真っ黒い髪、真っ白い汚れたワンピースに、目ん玉が溶けたみたいな空っぽの眼窩」

 間宮の意志の強い瞳は、真っ直ぐにヒサシの背後を睨み付けている。

「昨日か。五橋典子の入院先の病院を出て事務所に戻って、それからずっと、

「……なんで早く言わないの間宮くん」

 呆れたような、怒りを含んだような響きでヒサシが唸る。

「俺ならどうにかできる」

「おっと。をこんなところで気軽に使わないでよ。それに、仮に私の側から追い払ったところで、この女自体が消え去るわけじゃないでしょう」

 間宮は冷静だ。響野が見たものと同じものを見ているはずなのに、この先口から髪の毛を吐く羽目になるかもしれないのに、そして得体の知れないものに孕まされる可能性だってあるのに、ヒサシの能力をあてにしていない。

「伝播する、つったのは稟市お兄ちゃんだっけ?」

 新しい煙草に火を点けながら、間宮は続けた。

「いったい何を媒体に広がっているのかな? 海音? でもこの雑誌は売れてる。買って読んだ人間全員に感染してたら今頃もっと大事になってるよ。他に何かルールがあるはずだ」

「Xビルの記事を読んでない人もいるかも知れない……」

 最後の足掻きのつもりで唸った響野に、間宮は大きく頷いて見せる。

「私もその可能性はあると思う。でも証明できない。もっと根本を……原因を究明しないと……」

 灰沖は死んだ。不意に思い出した響野の背中を冷たい汗が伝う。

 入院中の五橋典子も、それに編集長の草凪も、もしかしたら今にも死んでしまうかもしれない。


 瞬間、左肩に何かが触れた。響野はヒサシの右隣に座っている。左側には誰もいない。生きている人間はいない。


 ──手だ。


 枯れ木のように節くれだった指、すべての爪が剥がれている指が、響野の左肩を強く掴んでいる。


「おま」

「えが」

「はじ」

「めた」


 ひび割れた声が脳を直接揺さぶる。女が、こちらを覗き込んでいる。

 血の気が引く。

 ここでもまた、語りかけてくるのか。

 ルールはあるのか。ないのか。どういうことなんだ。


「はやく」

「わたしの」

「赤ちゃん」


 痛みを感じるほどに強く肩を引かれる。振り返ってはいけない。覗き込んでくる女の眼窩を、見てはいけない。


 そこに何が映っているのかを、知ってはいけない。


 歯を食い縛る。目を閉じる。「響野くん?」と間宮が呼ぶ声がする。遠くから聞こえる。


 遠くから聞こえる。


「かえして」

「かえしてよぉ」

「赤ちゃん」

「おなかの赤ちゃん」


 女の指と声が響野の世界のすべてになる。この女から逃れることはできない。右の肩にも異様な感触があった。女が背後から、体を抱き締めようとしている。

 丸めた背中に布が触れる。女が身に着けている白いワンピースが擦れている。


 腐臭。

 いやな臭いがする。

 女が言葉を発する度に鼻を突く異様な臭いに、今にも胃の中のものをすべて吐き出しそうになる。


 もう誰の声も聞こえない。


 気を失ってしまえればどれほど楽だろう。でもだめだ。今ここには響野とあの女がいて、あまりにもふたりきりで、どこにも逃げることはできない。

 それにもし女を振り切ったとして、女が響野を諦めたとして、女の矛先が次は間宮に向かったとしたら? ヒサシが悪夢に魘されるようになったとしたら?


 出発点は分かっている。Xビルだ。響野が始めたことなのだ。


 だから。


「逃げないで」

「ねえ」


 女の気配が──消えた。


 目を開く。

 いつの間にか、事務所の中には間宮もヒサシもいなくなっていた。全身を冷や汗でびっしょりと濡らした響野は、ソファの上にばったりと倒れ込んだ。

 

 そうだ。逃げてはいけない。響野憲造には覚悟が足りない。

 覚悟して挑めば、灰沖は死なずに済んだ。五橋典子が体を壊すこともなかった、はずだ。草凪については良く分からない。

 最初に戻ろう。

 Xビルだ。

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