2 - 5 間宮
ヒサシが連絡を取っていた相手、探偵には響野も心当たりがあった。
翌日、響野のバイクの後ろにヒサシを乗せて、間宮探偵事務所を訪ねた。仕事は休んだ。というか、「休め」と周りに言われた。口うるさい草凪もダウンしているし、週刊ファイヤー編集部の面々はうっかり羽根を伸ばしていた。地鎮祭で昏倒したヒサシは傍から見ても本調子には映らなかったようで、係長を含む同僚全員に「元気になるまでゆっくりしろ」と迫られた。
ゆっくりした結果が──市岡ヒサシの助手というポジションなのだが。
「ヒサシ、それに響野、ご無沙汰だね。調子は?」
「俺はトントン。響野くんは最悪」
「へえ?」
髪を燃えるような赤に染め上げた探偵はアンダーリム眼鏡の奥の目を悪戯っぽく瞬かせ、
「怪奇現象の記事ばっかり書いてるからじゃないの?」
「なんで、間宮さん……」
「そこはそれ。響野とは昨日今日の仲じゃないじゃない。友だちが記事書いてる雑誌ぐらいチェックするわよそれは」
友だち。と呼べるような距離感ではない。間宮と響野も。それに間宮とヒサシも。
来客用ソファに勝手に座ったヒサシは、丸い木製のローテーブルの上に置かれた煎餅の袋を開けて食べ始めている。聞けば「急いで出たから朝飯食いっぱぐれた」「おねえさん怒ってっかも」とのこと。この場合のおねえさんとは実の姉ではなく、ヒモのヒサシの衣食住を保証してくれる奇特な他人のことだ。
「間宮さん、助手は?」
「助手? ああ、今日は定休日。毎日出勤されたら給料払えないから」
「助手さんの生活も厳しいのでは……」
「あいつのことはいいから。それよりヒサシ、依頼の件。これでいい?」
言い募る響野を鬱陶しげに睨め付けた間宮が、探偵事務所所長として使用しているスチールデスクの引き出しからA4サイズの茶封筒を取り出した。バリバリと音を立てて煎餅を食い散らかしているヒサシに封筒を押し付ける間宮の右手の小指は、第二関節から先が欠けている。
「あいや仕事が早いなぁ間宮さんは」
「請求書本当にお兄ちゃんの方に回すけど大丈夫?」
「だって俺現金ないもん。この件自体、全部解決してもお金にはならなさそうだしねぇ」
手に付いた煎餅の粉をパッパと払い落としたヒサシが、その場で茶封筒の中身を取り出す。封はされていなかった。「座りなよ」と促され、響野もヒサシの隣に腰を下ろした。
間宮は部屋の奥にあるキッチンに消え、ペットボトルのお茶を3本手に戻ってきた。冷蔵庫から出したばかりらしい。良く冷えている。
「はい、好きなのどうぞ」
「俺烏龍茶!」
「緑茶もらいます」
「じゃ私はジャスミン……で、ヒサシ。この人、入院患者がいったいどうしたっていうのさ?」
「いや〜」
響野とヒサシの正面に腰を下ろした間宮は優雅にカーキ色のカーゴパンツの脚を組み、手元の煙草に火を点ける。間宮探偵事務所は全面喫煙可能だ。
「守秘義務がぁ〜」
「ヒモにも守秘義務とかあんの? 初耳なんだけど。どうなってるのよ、響野」
「ええっと……」
確かに守秘義務は存在する。雑誌記者や探偵には特に。だが、ヒモにはどうだろう。市岡ヒサシには守秘義務などないのではなかろうか。
「そもそものきっかけは俺の取材先だから、俺から詳しく説明は難しいっていうか……でもヒサシには守秘義務ないんじゃ? 厳密には……」
「──そういえば、そうかもね!」
間宮が調べてくれた『何か』が書かれている書類に目を通し終えたらしいヒサシが、楽しげに口の端を歪めた。
「ヒモには守秘義務ないわ、そういえば」
「そうじゃん」
呆れた様子で間宮が紫煙を吐いた。
市岡ヒサシは探偵間宮
五橋典子は現在も入院中だ。容態はあまり良くない、らしい。間宮がいくら腕の良い探偵でも、赤の他人の病室に入り込むことはできなかった。そこで病院関係者や、猫田を除く五橋典子を知る人間(幸いにも面会や見舞いを希望して病院を訪ねている関係者に遭遇することができた、ということだった)から五橋典子がこのような状態になる以前の話を聞き出した。
喋りたがりの人間が多かった。「五橋の遠縁の知り合いで」というギリギリの設定を誰もが信じた。理由はすぐに分かった。五橋典子の勤務先での奇行を知っているのは、猫田だけではなかったからだ。響野に話を持ってきた際猫田は「すべて自分とBのあいだで起きたことで、他の人間には知られていない」というような物言いをしていたが、それこそ嘘だった。焼肉店の正面入り口に髪を振り乱して飛び込んできた五橋を見て心底ゾッとしたという証言をしたホールスタッフもいた。「五橋さん、化粧にもこだわりがあるっていうか、食品関係の接客業だからって清潔感重視のお化粧をしてる人で……私もここで働き始めて、五橋さんにコスメとか色々教えてもらったり、入社記念にってプレゼントしてもらったり、本当にお世話になったんです。それなのにあんな風に……正直、怖くて、何があったのかもバイトには誰も教えてくれないし……」肩を縮めて語る女子大生バイトの発言を手元のメモに書き残しつつ、ICレコーダーでも録音した。他にも、猫田とともにスタッフルームに五橋の様子を見に行ったというキッチンスタッフがいた。猫田は五橋の奇行と裸を見たのは自分だけであるかのように語ったが、違った。「あの……こんなこと言ったら怒られるかもしれないから、内緒にしてもらえます? マジで。俺ら、えーっと、キッチンの方の契約社員とかバイトの仲ではネコさんと五橋さんって付き合ってるってことになってたんですよ。いや、本人たちから聞いたわけじゃないんすけど。でもあんな仲良くて、五橋さんが無断欠勤するようになってもネコさん黙々とフォローしてたし、ただの同期だったらあそこまでやんないんじゃない? みたいな感じで……」猫田より年上であろう契約社員だという男性キッチンスタッフは、親族以外面会禁止とされている五橋の病室に入ることを諦めた様子で、病院の待合室に置かれたベンチに座って語った。その日の総合病院は、妙に空いていた。それを幸いに、間宮も特に場所を移動することなく証言を集めることができたのだが。「それであの日、五橋さんがその……ヤバい感じで店に入ってきたじゃないですか。んでネコさんがスタッフルームに五橋さんを放り込んで、しばらくして様子見に行くとか言って、みんな痴情のもつれだと思ったんですよ。知ってます? ネコさんって音楽やってるじゃないですか。バンド。あのー……ほんとにオフレコにしてくださいね? 五橋さんの親とかにも言わないで……ネコさんってすっごいんですよ。ライブハウスで知り合った子すぐ持ち帰っちゃう。そういう話平気でキッチンでもするし、五橋さんも知ってたんじゃないかな。だから、ついに五橋さんがキレちゃったんじゃないかって……」眉を八の字にして語るキッチンスタッフにスタッフルームで起きたことを見たかと尋ねると、彼は大きく首を縦に振り、「見ました。おかしかったっすよ。あの……五橋さんもだけど、ネコさんも変だった」どこが?「五橋さんがどうだったかは……ああ、ネコさんが人に話したのか。ふつう言わないと思うんだけどな。自分の恋人があんな、裸で叫びまくって、ゲロ吐いて──あの、俺、結婚してるから、って理由もおかしいけど、妊娠した女の人って悪阻で苦しむじゃないですか。俺の嫁さんもそうだったんですよ。妊娠前は好きだった焼肉の匂い嗅ぐだけで吐いちゃって。ほんと可哀想で。あ、うちは、はい。無事に生まれました。ああ、そうだ、そうなんです。だから俺、思ったんです。ネコさんが五橋さんを──その、孕ませたのに、責任取んなかったのかなって。だから五橋さんキレちゃったのかなって。裸、見ました。腹がすごく大きくて、腕とか脚はガリガリで……悪阻って妊娠の初期症状なんですよね? あの腹の感じは初期よりもっとって印象だったけど、人によって違うじゃないですか、体の反応って。だから俺、救急車呼んだんです。はい、俺が呼びました。ネコさんは──変だった。ぼんやりしてるっていうか、ぼんやりの割には目が鋭いっていうか、床を転げ回って苦しむ五橋さんをじっと見てて……え? 写真か動画? そんなの撮ってる余裕ないっすよ! 結局救急車にはネコさんも一緒に乗ってって、その日閉店しても戻って来なかったんだけど……」猫田と五橋が勤務していた焼肉店は、今も通常通り営業しているのだという。猫田もまるで何事もなかったかのような顔で勤務を続けていて、キッチンスタッフはそれが気色悪くて、今は転職を考えていると言っていた。
「響野くん!」
「いま電話します!」
間宮の聞き込み結果には僅か1日しか時間がなかったとは思えないほどの情報が詰め込まれており、その上で響野は私用スマホを取り出して友人の櫟曜子に電話をかけた。勤務先で粛々と電話番を行っているであろう曜子には傍迷惑な話かもしれないが、友人をこのまま放っておく気にはなれない。猫田という男は危険だ。怪異とは別の意味で。曜子は、友人の響野から見ても端正で魅力的な容姿の女性である。そんな彼女の傍に、ライブハウスで知り合った女性を平気で連れ帰る猫田がいるというのは──絶対に良くない。
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