2 - 4 響野
草凪が祭壇を荒らし、その場を立ち去ったのと同じぐらいの時間帯に、響野は悪夢を見て、それから例の女に「子を産め」「おまえが始めたこと」と囁かれていた。腹を押される嫌な感触も思い出すことができる。腕組みをして俯く響野の横顔を見ながら、
「アレなんなの?」
とヒサシが尋ねる。
「いや俺も知りたいっつか」
「海音のオカルトコーナー俺も読んでんのよ。Xビルとかいうライブハウスとクラブがある建物……そこに出たのが最初だったっけ?」
「え?」
「だから例の、黒髪の女よ」
「あ、ああ……」
そうだ。その通りだ。Xビルを取材しなければこんなことにはならなかった可能性もある。だが、済んだことを後悔しても仕方がない。
脳裏に浮かんだ『守秘義務』の四文字を無理やりに叩き伏せ、響野は猫田に聞いたBさんという女性のエピソードをヒサシに伝えた。
「めちゃくちゃかぶってんじゃん」
「そうなんすよ」
「Bさん──ってまだ無事なの? あとその猫田って人も」
「それは」
分からない。猫田はBさんの話を記事にしてほしいと言ってやって来たが、どれほど作り話を混ぜ込んだとしても猫田本人やBさん、それに当該焼肉店を知っている者が記事を読めばある程度は特定されてしまうだろう。だから記事にするのは難しい、と伝えたし、猫田自身も本気で記事にしてほしいと思っているよりは、自分とBさんの身に起きた奇妙な出来事を他者に聞いてもらいたい、というのが本心のようだった。
「Bさんってどこに入院してんのかな」
「え? ヒサシ?」
「会ってみないと分かんなくない? Bさんがおまえや俺と同じものを見たかどうか」
ヒサシは別におかしなことは言っていない。ただフットワークが軽すぎる。
「それに」
困惑する響野を他所に立ち上がったヒサシは、思いの外真面目な声で言った。
「Bさんって実在するのかね?」
「……は!?」
考えもしなかった。
猫田が、友人の曜子の紹介で出会った男が嘘を吐く理由がどこにもないと思っていたからだ。
「響野くんの友だちは別に嘘言ってないと思うよ、その猫田って人は実在するわけだし。でもその人が喋ったことが全部真実かどうかは……微妙じゃね?」
反論できない。目を泳がせる響野を他所に、ヒサシはポケットから取り出したスマートフォンでどこかに連絡を取っている。
「あーもしー? 俺でーす市岡弟でーす。久しぶり元気? あのさちょっと調べてほしいことがあんですけど、請求書は稟ちゃんに回してもらって……」
ヒサシの端正な横顔を呆然と見上げていると、響野のふところのスマホも震え始めた。社用スマホだ。相手は、係長だ。
「はい響野」
『おう、どこにいる?』
「草凪さんの入院してる病院前です」
『会えたか?』
「いえ」
『そうか。今、嫁さんから連絡が入ってな』
背筋が冷たくなる。まさか。
『今日中には退院できるらしい。ただ、出勤はしばらく厳しいっていう話なんだが』
「そ……ですか」
安堵する。全身の力が抜ける。
「良かったぁ」
『だな。それで響野、おまえどうする、面会してくか?』
せっかく病院前に張り付いているのだから、という意味だろう。少し考え、首を横に振った。
「ご家族の迷惑になるのもアレなんで、一旦離れますわ」
『そうか』
「奥様、なんか言ってました? 草凪さんの状態についてとか」
『それがなぁ』
言い淀む。やはり何かあるのか。
いつの間にか通話を終えたヒサシが、上着のポケットに両手を突っ込んでこちらを見下ろしている。
『妙なことを言うって困ってて……』
「どんなことですか?」
『赤ん坊がどうとかって』
「赤ん坊」
またそのフレーズか。顔を上げる。ヒサシと視線がぶつかる。
「ちょっと心当たりが……草凪さんと直接繋がるか分からんのですけど、あるんで、そっち顔出してから帰社します」
言えば、係長は困ったように苦笑した。
『響野。おまえも一応病み上がりなんだからな。無理するなよ』
「りょです!」
通話を終えた響野の肩をヒサシが強く掴んだ。
「赤ん坊」
色素の薄い瞳がじっとヒサシの顔を覗き込んでいる。
「おまえんとこの編集長にも『赤ん坊』か?」
「はい」
「偶然か? これは」
「そんなはずないでしょ。ヒサシこそ、どこに連絡取ってたんです?」
「俺は探偵。例のBさんの件、ちょっと引っくり返してみようじゃないの」
口の端を引き上げて笑うヒサシは、どこか楽しんでいるように見える。不謹慎だ。だがその不謹慎さが、今の響野には心強かった。
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