ふたつ におい

2 - 1 市岡兄弟

 気が付くと、そこは病院だった。

「おはよう」

 響野が横たわっているベッドのすぐ傍にパイプ椅子を置いて座っているのは、市岡家長男、稟市だった。

「調子は?」

「……腹減った……」

「胃の中身を全部ぶち撒けたみたいだから無理ないですね。今は正午。そろそろあなたのおじいさんが来てくれるはずです」

 右手首の時計を見ながら稟市が呟く。

「じいちゃん……」

「記憶は?」

「……変な、女、いた……」

「俺も見た!」

 ベッドを囲む白いカーテンを開いて飛び込んできたのは、市岡家次男・ヒサシだ。ふたりとも既に狩衣姿ではない。紺色のネクタイを締めた稟市は夏用のジャケットを羽織っており、ヒサシは橙色の派手なTシャツに膝丈のパンツ、リネンのジャケットを小脇に抱えてニコニコと笑みを浮かべている。

 180センチ超えの長身のヒサシの肩口で、赤い紐で軽く結えた髪が揺れている。

 あの女のことを思い出す。

 真っ黒い髪、真っ白い服、空っぽの眼窩。

 腹が疼く。

「っ……!」

「おっと」

 腕を伸ばしたヒサシの手のひらが、白い布団をかぶったままの響野の下腹部を軽く撫でる。

「嫌な暗示だなぁ」

「え……」

「響野くんが見たアレは神様じゃないよ」

「だが、亡霊、幽霊、悪霊、すべてに当てはまらない。人間の気配がしなかった」

 ヒサシの台詞に、稟市が低く付け加える。

 神様ではない。幽霊でもない。

 稟市が唸った。

「がい……ねん?」

「他の表現が今は思い浮かばない。概念」

 抽象的過ぎる。ヒサシに下っ腹を撫でられながら、響野は記憶に残る女の姿をどうにか脳内から消し去ろうとする。あまりにも不穏すぎる。あんなものには関わり合いになりたくない。

「響野くん、覚えてないかもだけど」

 ベッドの右側、兄の対岸に移動しながら、ヒサシが言った。

「めちゃくちゃいっぱい吐いてたからね」

 背筋が冷たくなる。少し体調が落ち着いたような気がしていたのに、胃液が迫り上がってくる気配を感じる。

「おーちついてー。もう吐くもの何もないでしょー?」

 歌うようにヒサシが言う。慰めたいのか追い詰めたいのか、どっちなんだ。

「あれはどうやら、移動するみたいですね」

 稟市が口を開く。響野が意識を取り戻す前からずっと、稟市は手の中のスマートフォンに視線を落としている。誰とやり取りしているのだろう。

「移動……?」

「伝播する、とでも言えばいいのかな」

 スマホの液晶画面をスライドしながら稟市は呟く。響野に聞かせようとしているというよりは、自分の中の情報の整理を試みている様子だ。

「『月刊海音』」

 ヒサシに腹を撫でられながら、響野は大きく目を見開く。

「売れている雑誌です。病院、美容室、喫茶店なんかにも良く置いてある」

 その通りだ。月刊海音は響野の勤務先・鵬額ほうがく社が発刊している雑誌の中でも、上から数えた方が早いほどの刊行部数を誇っている。

「その『月刊海音』に、最近オカルト記事が掲載されるようになった。最近、といってもここ一年以内のことですが……まあでも月刊誌ですからね。一年でも記事が掲載された回数は12回。それほど多くはない」

 何が言いたい。何を言っている。

「私の事務所にも置いてます、『月刊海音』。それで、気になったんですよね。最新号の『ライブハウスビルに潜む悪霊』。どうも、これまでの記事と毛色が違うな、と」

「……」

 毛色が違う。それはそうだろう。最新号に至るまでは、学校の怪談に尾鰭を付けたような内容しか掲載していなかった。読者からの感想や投稿も響野の視界には入っていなかったから、SNSを使って最近バズった怖い話をかき集めたり、そこで知り合ったオカルト好きのフォロワーから聞き出した経験談を許可を得た上で記事にしていた。

 今回は違う。

「どう違うんです?」

「今回は……編集長が、読者からの投稿を、調べてみろって……」

 そうだ、編集長の草凪が。

 読者から送られてきたというメールを印刷した紙を突然に手渡してきたのだ。

「そろそろ本気の記事書いた方が盛り上がるだろ」

 とか言って……。

「編集長」

「株式会社鵬額社、本社ビルってひとつだけだよね?」

「そう、だけど、ヒサシ?」

! 俺ちょっと行ってくる!」

「は!?」

 起き上がろうとしたが、体が動かなかった。響野の腹から手を離したヒサシが、ものすごい勢いで病室を出て行った。スマートフォンからようやく視線を上げた稟市が、深く長く溜息を吐いた。

「感染する、の方が分かりやすいですか?」

 何も分からない。

 ただ。

 ヒサシが飛び出して行った白いカーテンの隙間から、あの女が覗いている。


 絡まり合った艶のない黒髪、薄汚れた白いワンピース、そしてヘドロのようなものが溜まった空虚な眼窩。

 女がゆっくりと腕を上げる。響野を真っ直ぐに指し示す。

 人差し指の先端に──いや、すべての指の先に、爪がないことに響野は気付く。


「おまえ」

「余計な」

「ことを」

「して、」


 稟市の名を呼びたい。

 稟市、

 稟市さん、

 助けて、

 おかしい、

 そこに、

 女が、

 いる、


 稟市はまたスマホの画面に視線を向けている。

 髭の剃り跡さえないつるりとした顎に指を当て、どこか眠たげな目をして。

「り……」

 稟市さん、

 稟市さん、

 た、すけ、


「見ると伝染するんだよなぁ」


 大声だった。

 稟市は振り返らない。

 だが彼は確かに──女に向けて声を放っていた。


「だから俺は、見ないよ」


 女は消えた。

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