2 - 2 響野

 祖父がやって来て、市岡稟市は引き上げた。稟市は祓い屋の一族に生まれた人間ではあるが、本職は弁護士である。

「髪の毛を吐いたって?」

 先ほどまで稟市が座っていたパイプ椅子に腰を下ろし、祖父が顔を顰める。響野も同じ顔をしていたことだろう。思い出したくもない。というか、記憶に、ない。

 市岡家の3人──父親であるさく、長男の稟市、そして次男のヒサシが勢揃いして、再度地鎮祭を行った。ヒサシは狩衣に袖を通しただけで、儀式には参加していなかったのだが。そのヒサシの視線の先を追っていて、あの女に気付いてしまった。稟市はあの女を『概念』と言った。


 ──概念?


 意味が分からない。井戸の幽霊だとか守り神が祟りに変化したものだとか言われた方がまだ納得がいく。

(おまえ、余計なことをして──)

 先ほど、女はたしかにそう言っていた。自分がいったい何をしたのか、響野には思い当たる節がない。Xビルの件を記事にしたことだろうか。それとも今日、市岡父子を招いて地鎮祭を行ったことだろうか。

 いや、地鎮祭とあの女は無関係のはずだろう。Xビルを取材していて、クラブやライブハウスの客から集めた証言から浮かび上がってきたのか『黒い髪に白い服の奇妙な女』だったのだ。実際女を目撃してしまった証言者たちは、突然の体調不良や病に襲われている。それに、これに関しては半分ぐらいが自分の責任だという自覚があるのであまり考えたくはないが、死者も出ている。Xビルを管理していたライブハウス運営会社の幹部と、一階のバーの店主である灰沖だ。特に灰沖は、響野がもっと真剣に話を聞いて、早めにQ県、いや、Q県まで足を運ばずとも東京都近郊に弁護士事務所を構えている市岡家長男の稟市や、住所不定のヒモである次男のヒサシに紹介していれば、命まで取られることはなかった可能性が高い。灰沖には妻子はいるのだろうか。それすらも響野は知らない。記事にするために必要な情報ではなかったから、聞き出そうともしなかった。

(おまえには覚悟が足りんのだよ)

 秋の台詞を思い出す。その通りだ。本当に。

 地鎮祭、そして病室にまで現れたあの女が「邪魔をした」と言うのなら、何かを仕出かしてしまったのは間違いない。無意識にやってしまった。いちばん良くないパターンだ。

 覚悟を持て。このまま続けるのならば覚悟をして、怪異の邪魔をしろ。

「じいちゃん!」

「おう、どうした」

清一しんいちは?」

「ああ、病院の前にいたぞ。吉平よしひらも一緒だった」

 吉平は関西圏の暴力団に所属していたが、祖父・逢坂にかかれば西か東かなどは些細な問題だ。大抵の反社会的勢力、ヤクザ、暴力団に属している/いた人間はには頭が上がらない。

「地鎮祭の話聞いた?」

「聞いた。おまえがぶっ倒れたあとも市岡さくさんが最後まで続けてくれたらしい。現場については、一旦は大丈夫だろうという話だった」

さくパパ、メンタルつよつよだな……」

 側で儀式を見守っていた人間が突然卒倒して大量の髪の毛を吐き始めたら誰しも多少は動揺するだろうが、逆はそうではなかったらしい。さすがは現在の市岡家で3番目に強力な力を持っているだけある。市岡家の能力は代々女性に受け継がれる。現在の市岡家筆頭は市岡逆の妻であり、稟市とヒサシの母親でもある凛子りんこという女性だ。しかし、男性である逆、稟市、ヒサシにもそれなりの能力は備わっている、という話だった。市岡家について、それ以上の情報を響野は持っていない。これは響野が不真面目というわけではなく、市岡家の男たちの口が凄まじく堅いという理由があった。職業ヒモとして地に足の着かない生活を送っているヒサシすら、市岡家とはどういう一族なのかと尋ねると貝のように口を閉ざしてしまう。

「俺はいつまで入院してればいいの?」

「大事を取って今夜はここで過ごしてほしい、と医者に言われた。頼んで見せてもらったが、おまえ、ものすごい量の髪の毛を……」

「その髪の毛、長かった?」

 孫の問い掛けに、祖父は白い髭をたくわえた顎を太い指の腹で撫でる。

「ああ」

 短い応えと首肯に、響野は眉根をきつく寄せる。

「昨日、秋んとこに行ったんだ」

「それは知ってる」

「朝の電車が人身事故に巻き込まれて動かなくなって、満員電車の中でゲロ吐いた人がいて」

「そのゲロの中に髪の毛が混ざってた──だろ? 秋が言っていた。ゲロの匂いがする髪の毛を預けられたといたくご立腹だったな」

「そっか。秋は最初、抜毛症の人間がゲロ吐いたんだ、とか言ってたんだけど、俺が介抱した人は男の人で、髪の毛も短かった」

 思い出す。できるだけ丁寧に。

「それで、ずっとぶつぶつ『入る』『出ていけ』って言ってて……」

 祖父もまた、孫と同じエピソードを連想したらしい。

「曜子ちゃんの紹介で来たあんちゃんが似たような話をしてたな」

「猫田さんだよね。俺も思い出した、同僚の、餓鬼みたいになっちゃった女の人」

 沈黙が落ちる。響野は記者で、祖父は元殺し屋だ。ふたりとも探偵ではない。与えられた情報を元に何らかの仮定を組み立てるのは、得意ではない。


 店に戻って閉店作業をするという祖父がパイプ椅子から立ち上がったのは、17時を回った頃のことだった。ちょうど面会時間も終わる。市岡兄弟のどちらかが持ってきてくれたのであろう私物のバッグの中からスマートフォンを取り出した響野は、白いベッドの上に横たわる。

 伝播する、と稟市は言っていた。

 また、見ると感染する、とも。

 ヒサシは「その人も死ぬ」と言い残して病室を飛び出して行った。その人、というのはおそらく響野の上司である草凪のことで、ではなぜ草凪が死ななくてはいけないのか──


(読者からの投稿)


 そうだ。草凪しか見ることができないもの。読者からの感想や、調査依頼のメールや手紙。週刊ファイヤー出身の係長もある程度の閲覧権限を持ってはいるが、草凪はたぶん、自分と部下のあいだの明確な線を引いている。

 Xビルについての取材依頼。それが起爆剤だとしたら?


(連絡するか……?)


 3台のスマートフォンにはこれといった着信履歴やメッセージなどは送られてきていない。私物のスマホには清一からの「明日退院手伝いに行く」という簡素なメッセージ。社用スマホには何の音沙汰もない。そして3台目も、昨日バイクを借りるために宛てに響野自身が送ったメッセージが最後になっている。

 ヒサシは鵬額社の編集部に乗り込んだのだろうか。フットワークが軽いのが売りだが、何せ目立つ男だ。ヒモ一本で食っていけるほどに魅力的な容姿に意外と細やかな性格。だが、少しばかり不躾で図々しい面もある。草凪は、ああいう男は嫌いだろう──

 そんなことを考えているうちに、スマホを抱えたまま眠りに落ちていた。


 また夢を見た。孕む夢だ。黒い影の子が、腹に宿っている。

 俺は男だから。子どもを産むことなんかできないから。そういう器官がそもそもないから。何度も繰り返すが、夢の中では色々なことが歪んでいて、響野の腹は奇妙な形に膨らんでいる。

 腕も脚も見たことがないほどに窶れていて、自力では立ち上がることもできなくて、これではまるで餓鬼ではないか。

 

 猫田の同僚の女性は無事だろうか。あの女性も腹だけが異様に膨らんで、餓鬼のような姿で入院していると聞く。

 彼女もまた、黒い影の子を孕んでいるのだろうか。


(産め)


 声がする。女の声だ。


(その子を産め)


 無理だよ、だから俺は、男だから、子どもを孕めるはずもないんだから。

 これは夢なんだから。


(おまえが始めたことだから)


 女が言う。声が近い。

 薄っすらと目を開く。

 これは夢ではない。現実だ。

 頬に何かが触れている。

 髪の毛だ。

 パサパサに乾いた黒髪が、響野の頬を擽っている。

 女が。

 女が顔を覗き込んでいる。

 下腹部を強く押される。手だ。女の手が響野の下腹部を何度も押している。


(産め)


 繰り返し響く声。耳から入り込み、脳内を反響する。


(その子は、外に出たがっている)


 目を開けてはいけない。見てはいけない。分かっている。

 だがそれは、逃避ではないだろうか?

 秋に嘲られたままでいいのか? 逃げていていいのか?

 怪異の正体を、この目に焼き付けるべきではないのか?

 目を──開く、開こうとする、その刹那。

 マナーモードにしていたはずの私物のスマートフォンが、凄まじい音で鳴った。

 気配が消える。腹を押していた手も、頬に触れていた髪も、まるで最初から存在しなかったかのように消え失せる。

 全身が嫌な汗でぐっしょりと濡れている。震える手でスマートフォンを手に取った。


 発信者は、市岡ヒサシ。

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