1 - 12 響野

 清一の義父は吉平よしひらという名前である。吉平よしひら和佐かずさ。元ヤクザだ。関西東條組を破門になり、血の繋がらない息子である清一を連れて逃げるように上京してきた。幸いにも横の繋がりがあったらしく、今は老舗建設会社の幹部に収まっている。左手の小指は中途半端な長さで欠けている。清一が職人紛いの仕事をしているのは吉平の影響だ。

は働かんでもええって言うてくれるんやけど、それやと俺が落ち着かんし。それに俺、コンビニバイトとか向いてへんし」

 と清一がくちびるを尖らせるのを響野は何回も見かけている。

「女のオバケ?」

 祖父が訝しげに尋ねる。清一が肯く。

「憲造、アレじゃないのか、また井戸……」

「井戸はなかったんです。これはほんまです。響野くんからXビルの話聞いてから、やっぱ井戸は気にせんとあかんなって思て。オジキにも伝えたんです。そんで、今回のとこは、ほんとにほんまの平地で、前に墓があったとかそういうんもなくて、どっちかっていうともともと畑で……」

 要するに祟られる心当たりはないということだ。「井戸?」と木端が小首を傾げている。清一が眉をぎゅっと寄せ、

「お姉さんあんま知らん感じですか。井戸には神様がおるから、潰す時にはお祓いせなあかんのです」

「そうなんだ。知らなかった。お祓いしないと何か問題が起きるんですか?」

「せやから、オバケ……」

 堂々巡りだ。それに、清一が祖父を訪ねてきた理由も分からない。ずいぶんと切羽詰まった様子だから、響野に記事にしてほしいとか、そういう呑気な動機ではないだろう。

 手元の紅茶を一気飲みした清一が、追い詰められた獣のような目で言った。

「祓い屋さん、呼んでもらえませんか!」

 祖父が無言でこめかみに手を当てる。「そう来たか」と顔に書かれていた。


「祓い屋って、例の」

「ああ、木端さんはご存じでしたね」

「あいつら、普通のお祓いもするんだ」

「しますよ。ていうかそっちが本業ですよ」

「本業は弁護士とヒモじゃないの?」

「ああまあ……いや木端さん良く覚えてますね……?」

「そう簡単に忘れないでしょ。あんなバケモノみたいな連中のこと」

 清一と祖父を喫茶店内に残し、木端と響野は地上階に出ていた。バイクに跨った木端がフルフェイスのマスクを被り、呆れたように呟く。

「ま、厄介ごとはご勘弁。祓い屋がどうのこうのって話は聞かなかったことにしますよ」

「そらどうも」

「バイク代、後日請求回しますから」

「お手柔らかに……」

 バイクを借りた時とは違うブルーデニムに白いTシャツ、それに黒いレザージャケットという格好の木端は旋風のように去って行った。祖父に何か用事があったのではないだろうか、と思ったのだが、いなくなってしまったものは仕方ない。階段を降りて喫茶店に戻る。祖父が、カウンターの中に置かれている黒電話の受話器を置いたところだった。

 この店の黒電話は、響野にとっての3台目のスマートフォンと同じ意味を持つ。

「憲造」

 祖父が呼ぶ。

「明日、祓い屋が来るぞ」

「……休み取る」

「そうしてやれ」

 業務時間外であるということは承知で、草凪に直接連絡を入れた。怒鳴り散らされたがそれどころではなかった。

 清一をバイクで家まで送った。数年ぶりに清一の育ての親である吉平と顔を合わせた。

「祓い屋を呼びました」

 言えば、右の眉毛の上に大きな傷がある吉平は顔を顰めて、

「本気で言うとんか?」

「本気です」

「……言うとくけどな、うちの会社かて地鎮祭ぐらいはちゃんとやっとるぞ」

「分かってます」

 短く刈った黒髪をかき回した吉平が「おい、風呂入って寝ろ」と清一に命じる。清一は「ほな、明日」と言い残して、吉平の腕の下を潜って家の中に入ってしまう。

「明日? おまえも来るんか、響野憲造」

「まあ、一応そういう流れすね」

「記事にするんか?」

 吉平は左頬を引き攣らせるようにして笑っている。笑えているうちはまだ大丈夫だ。

「しませんよ、ホンモノを記事にしたら俺の方が損する。あの人たち高いんです」

「ホンモノ?」

「また明日、吉平さん。おやすみなさい」

 言い残して、吉平と清一がふたりで暮らすアパートを後にした。明日。すべては明日だ。


 夜が明ける。朝風呂を使い、髭を綺麗に剃り、単車に乗って清一の職場である建築現場に向かう。吉平が幹部を勤めている会社からも何人か職人が参加しているはずで、現場に出てこない現場監督はたしか他社の人間だったはずだ。

 午前7時。建築現場には10人以上の人間が集まっている。清一と吉平の姿もある。

「祓い屋はいつ来るんや」

「そろそろだと──あ」

 清一の金髪をかき回しながら吉平が尋ね、響野は彼の肩の向こうにスカイブルーのSUVを発見する。祓い屋の愛車だ。

「響野くーん」

 建設途中の鉄骨の前に滑り込んできたSUVから、長身の若い男が降りてくる。

「ご無沙汰じゃん。なに、お祓い?」

「ええまあ。いやほんと久しぶりっすね」

「ねー。俺だけじゃなくてお兄ちゃんとお父さんまで呼んでこいとかさぁ。人使い荒すぎない?」

「はは……」

 灰沖に伝え、灰沖が辿り着けなかったQ県の山の上にある狐の神社の出身者。それが彼らだ。市岡という苗字を持つ男が3人。SUVを背に、鉄骨を見上げている。

「着替えろ」

 運転席から降りた最年長の男が、若いふたりに紙袋を放り投げる。彼らは親子だ。父親と息子がふたり。朝の空気の中で男たちが無造作に着替え始める姿から、なんとなく視線を逸らす。

「さて」

 黒地に白い紋様が入った狩衣姿の男──父親、市岡さく──が口を開く。

「始めましょう。地鎮祭は既に行ったと聞きましたが」

「ええ、施工を始める前に……」

 艶のある黒髪をくるりと纏めた長身の逆の問いかけに、吉平がハッとした様子で言葉を返す。

「響野さん」

 逆と同じ紋様の狩衣姿の小柄な男性に声をかけられる。彼は長男。市岡稟市りんいち。普段はこの手の行事には参加しない。市岡家でいちばん強い力を持っているのは父親でも長男でもない。。市岡家の能力は、代々

 だが、だからといって男性が無力である、というわけではない。彼らにも井戸の神を鎮める能力はある。実績も。記事にしていないだけで、響野は何度も市岡の男たちの実力を目にして来た。

「あなたまた妙なことに首を突っ込んでるでしょう」

 稟市が言った。響野は笑って誤魔化そうとして──やめた。素直に首を縦に振る。

 稟市が溜息を吐く。

「あなたって人は……あのね、そんな仕事の仕方をしていたらいずれ、死にますよ」

 人間は皆死ぬ。死因も寿命も選べはしないが、確実に、死ぬ。

 しかし、稟市の言う『死ぬ』はまるで別の意味だ。

「稟市、始めるぞ!」

「はい」

 逆が長男を呼ぶ。稟市は僅かに顔を顰め「あとで詳しく聞かせてもらいますからね」と言い置いて父親のもとに向かう。既に鉄骨が存在している場所での地鎮祭は、施工に着手する前に行うそれとは手順が異なる。もしかしたら市岡家独自の手段だからこそ特殊に見えるのかもしれないが。吉平をはじめとする現場の責任者たち、それに清一を含む職人らも皆市岡父子の背後に控えて、神妙な顔で儀式の行方を見守っている。

 儀式に挑むのは逆と稟市、父親と長男のふたりだけだ。

 最初に響野に声をかけてきた長身の──次男の姿がない。

 眼球だけを動かして彼の姿を探した。ヒサシ。市岡ヒサシ。市岡家の次男坊。彼も狩衣に着替えていた、はずだ。それなのに、なぜ儀式に参加しない。

 ヒサシは、逆が作った祭壇からずっと離れた場所にいた。鉄骨にも祭壇にもSUVにも背を向けて、どこか遠くに目を凝らしている。

 ヒサシの狩衣が父と兄とは違い、深緑色に金色の刺繍が入ったものであることに不意に気付く。


 気付く。


 もうひとつ、気付いてしまう。


 女が立っている。黒い髪に白い服──白いワンピースのようなものを身に着けた女が、こちらをじっと見詰めている。


 距離がある。女はだいぶ遠くにいる。逆が朗々と唱える祝詞に阻まれて、近付けずにいるのだろうか。

 それなのに、なぜだろう、分かってしまう。空洞のような目が見ている。そこには眼球がないはずなのに、見ている。


 腹の底が疼く。

 悪夢のことを思い出す。

 孕む夢だ。黒い影が響野の腹に子どもを残す。

 吐き気がする。

 響野は男だ。子を孕む器官など備えていない。

 だが、あの、黒い影は。

 影の子どもが。


「ぐ……!!」


 両手で口を押さえた。間に合わなかった。

 朝食を摂る気になれず、コーヒーだけを飲んできたのが良かったのか悪かったのか。

 コーヒーと胃液が混ざり合ったものが、口からどっと溢れ出た。

 市岡父子はこちらを振り返らない。

 あの女がこちらを見ている。


「響野くん!」


 清一の悲鳴のような声。

 吐いても吐いても終わらない。内臓が全部飛び出してきてしまいそうだ。

 指に何かが絡む。

 何が。

 髪の毛だ。

 あの女がこちらを見ている。

 気を失う直前、市岡ヒサシの顔がこちらを向いたのが分かった。

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