1 - 11 響野

 秋はジップロックの中の髪の毛の解析を約束してくれた。代金は後払いで良いと言う。

「腑抜けから前払いで金をもらっても面白くない」

 響野はコインパーキングに戻り、黒いバイクに跨って東京に戻り、新宿歌舞伎町に向かった。祖父が店主をしている喫茶店が入っている雑居ビル前にバイクを停め、鍵は差しっぱなしで地下に通じる階段を降りた。疲れていた。

「じいちゃん……」

「どうした。ひどい顔だな」

 店には、祖父以外に誰もいなかった。珍しい。この店は駆け込み寺だ。響野の祖父は逢坂おうさかという名前で、響野が生まれるより前の一時期をという通り名で恐れられた無頼だ。彼は殺し屋だ。殺し屋だった。今はもう引退している。祖父は関東玄國会お抱えの殺し屋だった。だが、辞めた。もう完全に辞めている。しかし祖父は知りすぎている。関東玄國会の光と影すべてを知っている。祖父が今幾つなのかを響野は知らない。70代か、80代か。もっとか。半生を玄國会の殺し屋として過ごした逢坂は、嘗ての武器である回転式拳銃を手にしなくても、言葉ひとつで以前の所属先を傾けることができるほどの情報を脳内に詰め込んでいる。だから玄國会は逢坂を完全に自由の身にはしない。喫茶店には定期的に玄國会のヤクザたちが現れる。逢坂は彼らを客として扱う。怯えているのは玄國会だけだ。逢坂は玄國会のことをもうどうでもいいと思っている。


 響野憲造が持つ裏側へのコネクションの半分は、祖父から受け継いだものだ。

 もう半分は単身関西へ渡り、自ら築き上げたものだ。祖父が関西に足を向けることはない。関西は敵地だ。祖父は、関西圏を取り仕切る東條組という組織の人間を、数え切れないほど殺した。らしい。


「秋に怒られた」

「さっき電話があった」

「マジ!?」

「俺はおまえの仕事の仕方についてとやかく言うつもりはないが──」

「いいよ。じいちゃん。ごめん。俺が甘かった」

 横浜中華街の悪魔・秋と祖父・リボルバーの逢坂のあいだには響野には理解できない深い繋がりがある。だが、秋がこんな風に祖父に直接連絡を寄越す機会は滅多にない。よほど腹に据えかねたのだろう。自分のせいだ、と思う。響野憲造に、覚悟がなかったから。

 カウンター席に腰を下ろし、響野は小さく息を吐く。


 灰沖が死んだ。


 まずはこの件からだ。

 灰沖。Xビルのバーのあるじ。最後に言葉を交わした時、彼にも見えていると言っていた。黒い髪に白い服の女。その女の正体が分からない。清一の言う通り「井戸を潰す時にきちんとお祓いをしなかった」ことが理由で姿を現しているのだとだとしたら、彼女は神様だということになる。だが神様がクラブに遊びに来ているだけの人間に加害することなどあるだろうか。自分の棲家であった井戸を潰したビルのオーナーや施工業者を呪ったり祟ったりするならともかく。


(そうだ、オーナー)


 ライブハウスの運営会社の幹部は自死したという。灰沖もQ県までは辿り着いたが、祓い屋がいる神社に足を踏み入れることなく死んだ。オーナーはどうなっている? その家族は?

 調べなくてはいけない。責任を取らなくては。

「じいちゃん!」

「おう」

「コーヒー!」

「どうした、急に」

「俺が間違ってた。真面目に仕事してなかった」

「そうなのか?」

 都合の良い時だけ以前の上司の言葉を思い出して。灰沖や自死したライブハウス関係者のことを知ったら、彼はどれほど立腹するだろう。

「よし、飲め」

「おう!」

 目の前に置かれたふつうよりもだいぶ大きいコーヒーカップを手に取ったところで、防弾ガラスでできた扉がゆっくりと開いた。取り付けられているドアベルが涼やかな音を響かせる。

「響野」

 木端こばが立っていた。掃除屋の木端が。

「木端さん?」

 バイクなら上ですよ、と言おうとしたのだが、彼女の指先には既にキーホルダーが引っ掛かっている。

 客人は、彼女だけではなかった。

「響野くん」

清一しんいち?」

 白に近い金髪を頭の高い位置でお団子にした友人が、困り果てた様子で眉根を寄せて立っていた。

「なんで、ふたりが一緒に……」

「私はこの坊やのことは知らない。上で会っただけです」

「俺も知らん人や。でも、響野くんの知り合いやって言うから……」

 完全に偶然、入店のタイミングが被ってしまっただけらしい。木端も響野の祖父、マスター、リボルバーの逢坂とは面識がある。最敬礼をする彼女に「座れよ」と勧めながら、

「清一、どうした。顔色が悪いな」

「ああ、その……おじいちゃんに相談してええんやろか。なんか、あの、悪いことが……」

「悪いこと?」

 響野の脳裏を幾つもの情報が駆け抜ける。Xビルの黒髪の女。嘔吐した人間の口から這い出た黒髪。死んだ灰沖。餓鬼のような女。それに響野自身が見た──悪夢。

「木端。おまえも俺に用事か? 清一が先でいいか?」

「構いません。子どもを優先してください」

 カウンター席の中でもいちばん出入り口に近い席に腰を下ろした木端は、穏やかな口調で言った。彼女から見ても清一は子どもなのだ。19歳は子どもだ。

 響野のすぐ隣の席に座った清一が、

「今の現場、おかしいねん。現場監督が、女のオバケが見えるって言うて家から出てえへん」

「は……」

 清一は昼間、建築現場の職人として仕事をしている。煙草に火を点けようとしている木端が黙って形の良い眉を跳ね上げ、こちらを見ている。

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