1 - 10 横浜中華街、木野ビルディング

 髪の毛が入ったジップロックは鑑定に回された。秋はようやく丸テーブルから降り、ひとり掛けのソファに腰を下ろす。黒服のふたりは現れた時と同じぐらい自然に去った。代わりにシックなロングスカートに身を包んだ小柄な女性が現れて、先ほどまで秋があぐらをかいていたテーブルの上を綺麗に拭き、それからティーポットとカップとソーサーを残して去った──いや、去ったかと思えば再び現れ、大量のスコーンが乗った白い皿をテーブルの上に置いていなくなった。

「座れ」

 秋が溜息混じりに呟いた。響野は従った。

「食べろ。秋はこんなにたくさん食べない。口の中がパサパサするし……」

 命じられるがままにまだ温かいスコーンを手に取り、取り皿の上でふたつに割る。添えられていたクリームをたっぷり塗り、大きく口を開けて齧り付いた。響野の姿をちらりと見た秋が、薄く笑う。

「どうしようもない男だな」

「何がです」

「あんな話をした後に食事をする。正気とは思えない」

「そうですかね」

「餓鬼のように腹が膨れた女。電車の中で嘔吐する男の口から溢れる人毛。これだけで秋は十分食事する気を削がれたよ」

「はあ……」

 ふたつ目のスコーンに手を伸ばしながら、響野は曖昧な声を出す。そんな風に言われても今日は朝食も昼食もろくに食べていないし、腹は減る。それで、目の前に焼きたてのスコーンが山と積まれていて「好きに食べて良い」状態なのだから、我慢できるはずがない。

 イチゴジャムを塗り付けたスコーンを咀嚼する響野を眺めながら、

「他に」

 と秋は呟いた。

「他に伝えるべきことは?」

「……」

 あるだろうか。もうない。全部話した。いや。どうだろう。

「ちなみにわたくしどもはこの雑誌を定期購読している」

「えっ」

 不意に立ち上がった秋が本棚から抜き出したのは、『元週刊ファイヤー編集部』が記事を寄せている月刊誌だった。

「月刊海音うみおと……釣りの雑誌かと思っていたらファッション誌だった。驚いたよ」

「まあ、俺もそれは……」

「創刊者が海好きだったのかな? まあ誌名なんかはどうでもいいんだが、これ、このというペンネーム。これは響野憲造、おまえの記事だな?」

 先月号の記事だ。Xビルの記事。響野は神妙な顔で首を縦に振る。

「いつから……」

「週刊ファイヤーは関西圏限定で販売されている雑誌だったが、すべて取り寄せて読んでいた。廃刊になると聞いて大変残念に思っていたが、編集部ごと買い取られたと聞いてね。すぐに定期購読の手続きを行った」

「秋さん、愛読してくれてたんですね」

「ポジティブか? 関西圏の裏側の情報をウキウキと記事にしてるような頭のネジの緩んだ媒体は週刊ファイヤーだけだったんだ。情報収集の一環だよ」

 それでも読者がいたというのは嬉しい。いや、今でも読者でいてくれるのだ。嬉しい。思わず頬の緩む響野の鼻先にティースプーンを突き付けた秋は、

「Xビル。解決してないな」

「まあ……そうですね」

「解決していないものをなぜ記事にする? それにこの記事、半分以上は嘘だろう」

「それは」

 仕方がない。場所や個人を読者に特定されるようなことが起きてはいけない。フェイクを混ぜ込むのも仕事のひとつなのだ。

「解決できる事象を解決しない、これを怠慢という」

「え……」

 月刊海音を響野に投げ付け、煙草を取り出しながら秋は吐き捨てた。

「今もこのビルには女の霊が出る」

「は」

「出るんだ。わたくしどものところにも依頼が来ている」

「どう、いう……」

 意味が分からない。

 木野ビルディングのあるじ、秋は関東圏の裏社会の事情に精通していて、殺し屋、情報屋、それにもっとシンプルにヤクザといった人道を外れて生きる者たちを手足のように使って仕事をする。幽霊騒動は、秋の仕事の範疇外のはずだ。

「状況はあまり良くない。響野。おまえ投げ出しただろう、途中で」

「な、投げ出したなんて、そんな人聞きの悪い」

灰沖はいおきとかいったか? この記事にも少し出てくる、バーの店主……」

 、と秋は呟いた。響野は絶句した。


 死んだ? 灰沖が?


 なぜ? いつ?


「一応は自殺ということになっている。こう、口に、大量の髪の毛を詰め込んで」

「ま、待ってください! 髪の毛? 灰沖さんが、口の中の髪の毛を……!?」

「まあ聞け」

 秋は笑っている。だが、目は、怒りに燃えている。

「おまえが見捨てた依頼人の話だ。どうなったって構うまいよ。そうだろう。おまえは雑誌記者で、厄介ごと請負人ではない。依頼者から話を聞いて、そんな風に、」

 ──と、秋は響野の手の中の雑誌を火の点いた煙草の先端で指し示し──

「面白おかしく記事にして完結だ。依頼人がその後どうなろうが、関係あるまいなぁ」

 それは違う。そんなことはない。

 言い返せなかった。

 灰沖と最後に交わした会話を思い出す。彼は、自分にも黒い髪の女が見えると言っていた。怯えていた。そんな彼に自分は何と言った?

(Q県に──)

 そうだ、Q県に行けと。Q県の神社。響野が唯一信用しているホンモノの祓い屋がいる狐の神社。


(神社行ってください神社。Q県分かります? 特急乗って2時間。Q県の山ん中にある神社、狐の神社なんですけど、俺が知ってんのそこだけです)

(Q県? いや、でも……)

(いいから! 灰沖さんも死にたいんですか!?)


 ──それきりだ。それで終わりだ。

「灰沖……さんは。行かなかったんですか。Q県に」

「Q県には辿り着いた。だが駅で死んだ」

「なんで秋が、そんなこと知ってるんですか」

「Q県の祓い屋から報告があったからさ」

 睨み合った。秋と揉める気はなかった。だが、秋はあまりにも、知りすぎている。

「どうして、先に、俺に」

「祓い屋を呼ぶか? 本人から説明させようか?」

「それは」

「要するに響野憲造。おまえには覚悟が足りんのだよ」

 スコーンを鷲掴みにし、口の中に放り込みながら秋は言った。咀嚼するための間があった。

「依頼人の心に寄り添うこともしないし、アフターケアもない。自分の記事のために依頼人を使って終わり。響野憲造、おまえは真実を見ようとしない」

 目を、と秋は続けた。

「開け。きちんと見ろ。向き合え。関西にいた頃のおまえはどこに行った? 何遍ヤクザに監禁された? 殴られた? 骨を折られた? ヤクザだけじゃないな。西を跋扈する殺し屋連中のブラックリストにもおまえは入っていた。良く生き延びた。拍手喝采。しかし今のおまえは──違うなぁ?」

 返す言葉も、なかった。

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