1 - 9 横浜中華街、木野ビルディング

 駅に向かう。まともに動いている路線はひとつもなかった。舌打ちをひとつして、普段は使わない方のスマートフォンを取り出した。響野は3台のスマホを使い分けている。プライベート、友人や家族と連絡を取るためのもの。会社から支給されている業務用のもの。そしていざとなった時に使用するものだ。


 今、響野は、命を担保にしている。


 社屋ビル最寄り駅の改札前で10分ほど待った。クリームホワイトのフライトスーツに身を包んだ人間が、黒いバイクを駆ってやって来た。

「響野憲造」

「ちす。木端こばさん」

「うちの上司がご立腹。電車が動かんからってヤクザを使うとはどういうご身分です?」

 フルフェイスのヘルメットを片手に、長身の女──木端が呆れ声を出す。金色の坊主頭、切長の目を強調する黒いアイライン、くちびるは燃えるような赤だ。彫りの深い美形である木端に威嚇されると、さすがの響野でも少しは慄く。

「ごめんて。俺もバイクで出勤してれば良かったんだけど、今日はちょっと電車に乗っちゃって」

「このバイクでどこへ?」

「横浜」

 即答した響野と木端の身長は同じぐらいだ。真っ直ぐに響野の目を覗き込んだ木端が「横浜」と小さく呻いた。

「あんた、まさか」

「いや。でも今回は木端さんとか木端さんの上司には関係ない件だと思うし。とにかく今の俺はアシがほしかっただけで」

「今朝、幾つの路線で自殺者が出たんでしたっけ。あんたも乗り合わせていたんですね」

「まあね」

「横浜に何を持ち込む気です」

「それ伝えたら、木端さんたちも参加する羽目になっちゃうよ」

 大きく舌打ちをした木端が、ヘルメットとバイクの鍵を投げて寄越した。

「横浜でもどこでも、お好きなように」

「ありがとう。バイク、四谷に戻せばいい?」

「歌舞伎町でいいですよ。取りに行きます」

 フライトスーツに黒いバイカーブーツを履いた木端は、もう響野に背を向けている。

「木端さん、どこ行くの?」

「寿司でも食って帰りますわ」

 響野の勤務先は、かつて巨大な魚市場があった土地にある。


 木端から借り受けた黒いバイクを走らせて、横浜──中華街に向かった。首都高に乗ったら1時間もせずに到着できた。コインパーキングにバイクを置き、平日の真っ昼間だというのに観光客で溢れ返る大通りを突っ切って街の最奥に向かう。

 そこには、小さなビルがある。

 ビルの壁全体を青い蔦が覆っている。中華街感は、まるでない。どちらかというと小ぶりなビルの階段横に、『木野きのビルディング』という錆び付いた看板が掛かっている。だが、たとえこの街で暮らす人間であっても、ビルの名前を正しく知る者はそう多くはないだろう。木野ビルディングは、邪道の巣だ。

「失敬」

 階段を駆け上がり、3階に辿り着く。看板と同じぐらい青錆の浮いた扉をノックし、響野は声を上げる。

「予約もなく申し訳ない。響野です。響野憲造です」

 応答はない。無理もない。

 響野は予約をしていない。招かれざる客だ。木野ビルディングのあるじは実に偏屈な性格をしている。招かれていない者は、絶対にもてなさない。歓迎されない。

 小さく溜息を吐く。

 バイクで借りひとつ。もうひとつ重ねなくてはいけないのか。

「失敬! 予約もなく申し訳ない! の孫、響野憲造です! 『秋』に面会を希望する!!」

 沈黙が落ちた。

 扉が開く。


 扉の向こうには長い廊下がある。木野ビルディングの内部は、外観から受ける印象よりもずっと広い。響野の前には、小柄な女性が立っていた。まだ高校生ぐらいではないだろうか。シックな白い丸襟に黒地のワンピース、ふんわりと丸い袖から伸びる腕は白くほっそりとしている。両手首に巻かれた包帯からは目を逸らしつつ、「響野憲造です」と小さく頭を下げる。

「どうぞ」

 明るい緑色の髪をひとつ揺らし、少女がいざなった。長い長い廊下。その両脇には無数の扉。その中の幾つかには響野も足を踏み入れたことがあるが、今も扉の内部が変わっていない保証はない。少女の小さな背中を、黙って追った。廊下のいちばん奥にある、飴色の扉に用があった。

「どうぞ」

 ドアノブを握った少女が、繰り返した。「ありがとう」と述べて、部屋の中に足を踏み入れる。

 飴色の扉の中には、まず大きな窓がある。そして壁中に本棚がある。本棚には無数の書籍、書類、ファイル、図録ととにかく大量の紙が押し込められていて、響野自身が本棚に触れることは禁じられている。響野だけではない。木野ビルディングのこの部屋に通された人間は、部屋のあるじに許可されない限り、呼吸をすることさえ許されない。

 部屋の真ん中には丸テーブルがある。丸テーブルを挟んで、ひとり掛けのソファが二脚置かれている。丸テーブルの上に、その人は腰を下ろしている。

 紅茶色のボーカラーブラウスにブラックデニム、足先にはサンダルを引っ掛けて、丸テーブルの上にあぐらをかいて響野を睨み据えている。


 ──あきだ。


 木野ビルディングのあるじ、横浜中華街の悪魔、地獄の人材派遣業と名高い化け物バケモノ

「響野憲造、何をしにきた?」

 高くもなく低くもない、平坦な声が秋の薄いくちびるから溢れ出た。

は現在休暇中だ。聞いてないのか?」

「それは……知らなかった。申し訳ない」

「申し訳ないでは済まない。わたくしどもが休暇を取る機会など10年に一度あるかないかだ。それを──」

 命を担保にしている。

 殺されるかもしれないと思う。

 秋は人殺しではない。殺し屋でもヤクザでもない。だが、人を殺すことができる。殺し屋を、ヤクザを、情報屋を、数え切れないほどに抱え込んでいる人物、或いは存在、それが『秋』だ。秋がそうしたいと望めば、響野憲造の人生は今ここで終わる。

 しかし、『秋』が休暇を取っているという話は本当に初耳だった。今初めて聞いた。だから響野は深々と頭を下げた。

「本当にごめんなさい。でも、秋以外に誰に頼って良いか分からなかった」

「黒いバイク」

 デニムの膝に片手を付いて、秋が唸る。

から借りたろう」

 何もかもお見通しだ。そう。木端はだ。殺し屋が命を奪った遺体のを請け負う『掃除屋』の筆頭。それがあの木端という女だ。

「掃除屋の上には玄國会げんこくかい。そっちを頼れ」

 玄國会とは、関東圏を取り仕切る反社会的勢力の名前だ。関東玄國会。関東圏に存在するすべての組織──ヤクザたちは皆玄國会の傘の下にいる。非合法な遺体処理を行う掃除屋たちもまた、玄國会に叛くことはない。

「それは無理……」

「無理? 理由は?」

「バイクを借りたことでもう1ポイント使っちゃってる」

「ポイント制だったか?」

「いや……」

 ポイント、というのは響野が勝手に言っているだけだ。響野は3台目のスマホをできるだけ使いたくない。ヤクザたちの取り立てが執拗だからだ。バイクを1台借りた時点で、響野は彼らに返さねばならない恩を作ってしまった。これ以上借金を膨らませたくない。

は──」

 どこから取り出したのか煙草を咥えながら、秋が唸った。

 白銀色の髪がさらさらと揺れる。清一を思い出した。

「知ってます」

「払えるのか?」

「払います。というか、たぶん、秋も気になる案件だと思う」

「今日起きた同時多発列車飛び込みの件だとしたら、興味はない。どうでもいい。死にたい人間が多かったというだけの話だろう」

 紫煙を吐き出しながら秋が唸る。秋が男性なのか、女性なのか、それすら響野は知らない。

「それに近い件ではあるんですけど……これを」

 仕事用のバックパックを床に置き、中から今朝回収した髪の毛が入ったジップロックを取り出した。「くさい!」と秋が大声を上げる。

「ゲロの匂い! 響野、おまえ、休暇を邪魔した上に嫌がらせか!?」

「違う違う、違いますって! これ、おかしいんですよ。人間の口から出てきたんです」

「抜毛症の人間が嘔吐したんだろう! 片付けろ!」

 抜毛症の人間。そういう可能性は響野の中にはなかった。なるほど、と呟き片手に提げたジップロックを見下ろすが、

「いや、違いますね。妙なことが起きてるんですよ!」

「こっちに持ってくるな! ばか! おい、誰か! 誰か来るんだ!」

 秋の喚き声に応じるようにして、姿。真っ黒いスーツを身に着けた長身のふたり。片方は雪のように白い肌に坊主頭の男性で、もう片方は捥ぎたてのレモンのような色で顔半分にタトゥーを入れた黒髪の女性だった。

「バカが変なものを持ってきた! 回収!」

「失礼」

 タトゥーの女性が響野の手からジップロックを取り上げる。

「処分しますか」

「捨てて!」

「いや待って!」

 困る。捨てられては困る。響野には、警察との繋がりがない。正当なルートを選んでいては、髪の毛の正体も、『出てけ』の謎も解くことができない。

 だから木野ビルディングを、秋を訪問した。から乗り込んで、謎を解くために。

「説明するから聞いて! 変なことになってるんですよ、今、色んなことが……」

 無表情な黒スーツのふたりと、憤懣遣る方ないといった様子の秋を前に、響野は猫田から聞いた話を舌に載せた。守秘義務は守らねばならない。だがここは既に魔窟だ。人間のルールは通用しない。

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