1 - 8 響野
結局、『元週刊ファイヤー編集部』の面々に、正午より早く出勤できた者はいなかった。響野がオフィスに辿り着いた時点でデスクに着いていたのは同世代の女性社員だけで、重役出勤が常の
「っす」
「っす、じゃないだろう。全員揃って人身事故の電車に乗り合わせるなんて……おい、響野おまえ、なんだその
そういえば電車の中で嘔吐した男性を介抱した、そのままの格好で出社してしまった。念の為手袋とマスクは装着したものの、ジーンズや開襟シャツにも汚れが付着していたらしい。臭いに慣れてしまったのか、指摘されるまで気付かなかった。
膝丈のチノパンに、先日猫田に貰ったバンドTシャツを身に着ける。服を着る前に両手を肘の上まで良く洗い、顔にも水をかけ、髪の毛の先端も軽く濯いだ。響野の髪は意外と長い。オフの日にリーゼントにするためだ。そういう髪型が割に似合う顔をしている。
(なんだったんかねー、今日のアレは……)
汚れた衣服をビニール袋に詰め込みながら考える。同時多発人身事故。加えて嘔吐して昏倒した男性の口から出てきた髪の毛。全部を回収するのは汚れや臭いのキツさから諦めたが、こっそりと数本をバッグの中に入れてあったビニール袋に包んで回収していた。担架に乗せられて電車から連れ出される男性の口の中にはまだまだ大量の髪の毛が残っていたから、何かの病気や、もしくは事件や事故だとしたら警察が出てくるようなことにもなるだろう。そして響野は、警察に繋がりがない。反社会勢力とは不本意ながら太いパイプを持っているのだが、警察に対してはからきしなのだ。だから、響野にはこの髪の毛の正体を知ることができない──正当なルートでは、無理だ。
だが、邪道を選ぶのであれば、手段はいくらでもある。
オフィスに戻ると、満員電車からほうほうの体で脱出してきたらしい同僚たちがそれぞれデスクに着いていた。
「はよっす、お疲れ様っす」
「おー響野ちゃん。おまえ早かったのな」
「まあ」
「ていうか何その格好? 直帰?」
「あー。電車ん中でゲロ吐いたおっちゃんがいたんで、ちょっと」
「介抱したん? 優しいな〜おまえ」
「いやいや。ははは。お陰で俺もゲロまみれですよ。着替え持ってて良かったぁ」
ノートパソコンを開く男性社員と言葉を交わしていると、正面の席に座る丸眼鏡の四十路記者が、
「ゲロ吐いた客、俺の電車でもいたよ」
「え、そうなんですか」
「乗車率120%の電車に閉じ込められたらそりゃ気分も悪くなるだろ、とは思ったんだけど」
歯切れが悪い。響野はノートパソコンを開く同僚と顔を見合わせ、
「なんかあったんすか?」
「俺は見てねんだけど。遠かったからさ、距離が」
と、四十路社員が丸眼鏡のレンズを眼鏡拭きで磨き、
「自分で吐いたゲロの中にぶっ倒れて、大声で喚き散らしてて」
「喚き……何を言ってたか聞きました?」
「全部は聞き取れんよ。でも、『出てけ、出てけ』って言ってたなぁ」
「『出てけ』……」
思わず眉根を寄せる響野を、ノートパソコンの同僚が訝しげに見上げる。
「心当たりある感じ? オカルト担当の響野ちゃん」
「オカルト、他の誰も担当してくれないから俺がやってるだけですって。いや、でも……」
人身事故に加えてこんな共通項が出てくるとは思わなかった。『出てけ』。いったいどういう意味だ?
「倒れたのって男の人です?」
「いや、たぶん女。声しか聞こえなかったけど」
「女性」
どうしても猫田の証言を思い出してしまう。猫田の同僚のBという女性の件だ。
だが、この件はまだ記事にはできない。同僚たちに伝えることも。
「ちょっと……気になるタレコミがあって」
「マジかよ。頑張れ響野、おまえの記事が人気出ればファイヤーも復活できるかもしれん」
「え、そんな話出てるんですか?」
「おまえ読者投稿見てないの?」
四十路社員が呆れたような顔をするが、残念ながら響野にはその権限がない。元週刊ファイヤー編集部の記事に対する反応はすべて草凪が取り纏めており、彼の判断でダメ出しをされたり、稀にお褒めの言葉をいただいたりする。その程度だ。
「俺一応見れるんだけど、読者投稿」
「ファイヤー係長権限〜」
草凪が部長で、四十路社員は係長。元週刊ファイヤーのメンバーの中では唯一の役職付きだ。ノートパソコンを閉じた社員が目をキラキラさせながら四十路社員を見詰めている。何か面白い言葉が飛び出すことを期待している顔だ。
四十路社員が、声を潜ませて言った。
「増えてんだよ」
「え?」
「身の周りで妙なことが起きてるから調査して欲しいって投稿が」
「は……」
妙なこと。というのは。
「心霊現象だわな。信憑性は正直微妙で草凪さんが全部握り潰しちまってるけど」
「でもそれって、響野ちゃんのオカルトコーナーが好評ってことすよね?」
「そうなるな」
知らなかった。全然。
目をまん丸にした響野は数秒沈黙し、
「それ、握り潰さねえで見せてほしいっすね……」
「気になるのか?」
「ガセネタだとしてもネタはネタだし。それにほら、ファイヤーはガセネタにもまともに取り組む雑誌だったじゃないすか」
以前の社長の方針だ。読者の求めには取り敢えず応じる。それがどれほどまでにいい加減なネタだったとしても、編集部は真摯に動く。そういう風に響野たちはやってきた。
鞄の中に突っ込んだままのジップロックの中身を、放置していてはいけないような気持ちになってきた。
四十路社員が声だけ聞いたという女性の口からも髪の毛が出ていたのだろうか。分からない。
「ちょっと出てきます」
「今出勤したとこなのにもう外に?」
「で、直帰します」
「何か思い付いたのか?」
四十路社員の丸眼鏡を見詰めて、響野は少し笑った。「はい」と答えた。
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