1 - 7 響野

 猫田の証言にはインパクトはあったが、記事にするには少し弱い。それに幾許かの嘘を交えて文章に起こしたとして、この内容では店も人間も特定されてしまうのがオチだ。

 猫田も、どうやら同僚の身に起きた異常な事態を第三者に聞いてほしかった、というのが本心であるように思える。話を終えた猫田は喫茶店でのんびりと煙草を吸い、マスターとボードゲームの話などをし、他に何か新しい情報が入ったら曜子を経由して伝える、と言い残して去っていった。曜子を経由しなくても、響野と猫田は既に連絡先を交換しているというのに。

「はい、じゃあじいちゃんの感想タイム」

「回さないのか? それ」

 カウンターの上のICレコーダーを指差す祖父に、響野は肩を竦める。

「じいちゃんの感想は俺の仕事には関係ないし」

「寂しいこと言うなよ」

「素人の推理ほどアテにならないものはありません!」

「おまえだって素人だろうがよ、オバケに関しては……」

 祖父と孫、ふたりきりの狭い店内にそれぞれが燻らす煙草のけむりが満ちていく。

「性暴力事件じゃなくて良かったとは思ったけど、俺は」

「それについては同感だ」

 しかつめらしく首を縦に振る祖父の顔を眺めながら響野は首を傾げ、

「『入ってくる』『出てって』って何の話なんだろう?」

「それを調べるのが記者の仕事じゃねえんか」

「俺は記者だけど探偵じゃあないんで……」

「だが──猫田っつったか? あのにいちゃんはおまえに期待してるみたいだったぞ」

「そうねぇ……」

 それこそ、Q県の霊能者の出番だろうか。あまり呼び付けたくはないのだが。だってそれでは、記事にならない。

 いや、逆に考えよう。Q県の霊能者を呼び付けて事態を収束させる。その上で嘘と真実を2:8ぐらいで混ぜて記事にするのだ。それなら入院中のBさんも助かるし、猫田の気持ちも軽くなる。

「呼ぶか……霊能者を……」

「呼ぶのか? あの連中を?」

 祖父もQ県の霊能者たちのことは知っている。は兄弟で、その弟の方が以前良くこの店にコーヒーを飲みに来ていたのだ。

「自分ではもう調べなくていいのか? 憲造?」

「ううーん……」

 響野憲造は雑誌記者だ。正義の味方ではない。

 正直な話、万が一Bさんが命を落としたとしても、そこまで衝撃を受けたりはしない。

 それよりも面白い記事を書くためには『早めに霊能者を呼ぶ(自腹で)』『もう少し調べてから霊能者を呼ぶ(自腹で)』の二択のうちどちらを選ぶかの方が重要で、どちらにせよ霊能者を呼び付けた場合には響野の財布が爆発する。


 猫田との面会を終えた旨曜子に連絡をしたところ「どうにかなりそう?」という質問をされた。響野の友人の曜子は、事件当事者であるBさんの友人の猫田のバンドメンバーという、限りなく他人に近い関係者なのだ。「もうちょい調べてみる」と返したところ「無理せんでな」という優しい響きが鼓膜を擽った。曜子に心配してもらえるというのなら、頑張ってみる甲斐もあるというものだ。


 その晩、響野は、夢を見た。

 


 全身に冷たい汗をかいて飛び起きた。良く覚えていないが、大きな声で叫んでいたかもしれない。比較的壁の厚いアパートで暮らしている。隣人には迷惑をかけてはいないと思うが。

 黒い影に、孕まされる夢。

 両腕に鳥肌が立っている。寝癖の付いた髪を掻き回した手で、寝巻きの上から下っ腹を撫でた。

 夢の中では、ここに、赤ん坊がいた。

 響野憲造は男性なのに。子を孕むことなどできないはずなのに。


 いつもより早く家を出て、満員電車に飛び乗って職場に向かう。家にいるのが嫌だった。今夜は祖父の家に泊めてもらおうかとすら思う。それほどまでに気色の悪い夢だった。シーツも布団も枕も捨ててしまいたい。

 仕事道具が入った鞄を抱えて溜息を吐いていると、キキーッという耳障りな音と共に車両が大きく揺れ、止まった。

 顔を上げると駅だった。だが、扉が開かない。

『お客様にお伝えいたします──』

 震え声の車内アナウンスが聞こえる。

『ただいま──線路内に、立ち入り、が──』

 自殺だ。すぐに気付く。周りの乗客たちもそうだろう。慌てた様子でスマートフォンに何かを打ち込み始める者。大きく嘆息し、勤務先に電話をかける者。明らかに気分を悪くした様子で両手で顔を覆う者──と反応は様々だが。

(俺も一応連絡しとくか……)

 草凪はどうせ今日も重役出勤だ。週刊ファイヤー時代から一緒にやっているメンバーに一斉送信という形でメッセージを送る。『人身事故 遅れます』。

 すると。


『こっちも人身! キョーノくん路線違うよね?』

『事故ってます 当分動かん』

『事故多すぎでは? こっちも今停まりました』

『この時間は勘弁してほしいな ちな俺も動けないっす 出勤できるやついるの?』


 同僚たちからの返信すべてに『人身事故に巻き込まれている』という文面が含まれている。今日は何曜日だ? 月曜日? 違う、猫田と面会したのは昨日、水曜日だ。今日は木曜日。月曜日の朝は人身事故が多いという噂を聞いたことがある。また、業務中の飛び込みは火曜日、金曜日が多いとも。どちらの噂にも木曜日は含まれていない。所詮風聞と言ってしまえばそれまでだが、この状況は尋常ではない。

(曜子さんと清一は大丈夫かな)

 と、ふたりにメッセージを送ろうとスマホをタップした、その瞬間。

 車両中央付近に立っていた響野からは少し離れた場所で、悲鳴が上がった。

「うわっ、なんだよ!」

「吐いてる、汚ねえ……!!」

 座席に座っていた誰かが嘔吐したらしい。現場を中心に大きく輪ができる。誰も彼もが吐瀉物と距離を取ろうとしているせいで、ただでさえ鮨詰めの車内が余計に狭くなっていくのを感じる。

 大きく舌打ちをした響野は、ぐいぐいと押し迫ってくるスーツ姿の男たちを掻き分けて悲鳴の主のもとに向かう。顔は見えないので年齢までは分からないが、紺色のスーツに身を包んだ男性が自身の吐瀉物の中に倒れ込んでいた。

 ひどい匂いがする。朝食に食べたものをすべて吐いたのだろう。それに胃液の匂い。酒を飲んだ様子はない。酸素が薄くなりそうなほどに混み合った電車の中で、人酔いを起こしてしまったのだろうか。鞄からマスクと使い捨てのゴム手袋を取り出し、

「大丈夫ですか」

 と男性の体を抱え起こす。50代──の数歩手前といった顔付きの男性の呼吸は、止まっていた。

 人工呼吸。いや。電車のドアを開けてもらって、駆け付けているであろう救急隊員に任せた方が正解か。

「息してません! 誰か外と連絡取ってください!」

「駅員さん! 人倒れてます! 人! こっち!」

「ドア開けてください!!」

 学生服の女性たちが薄く開いた窓の向こうに大声を上げている。線路に飛び込んだ人間への対応に追われていたらしい駅員たちが、響野らの乗る車両の扉へと駆け付けてくるのが分かる。

 響野は男性をその場に横たわらせ、口の中に指を突っ込む。残った吐瀉物が喉を塞ぎでもしたら厄介だ。響野以外に昏倒した男性に関わろうとする者がいないのを幸いに、広くなった車両の床を自由に使わせてもらうことにする。

(あー、やっぱ残ってた……)

 男性の口内から吐瀉物を掻き出しながら思わず顔を顰める。朝食を全部吐いた、程度の量ではない。なんなんだこれは。まあ、病院に運んでもらえばすぐに解決する話だとは思うが──

(……ん?)

 使い捨て手袋越しに、妙な感触がある。

 だ。

 男性の吐瀉物の中に、大量の、が含まれている。

(はあ!?)

 混乱する響野の目の前で、男性が大きく咳き込んだ。呼吸の仕方を思い出したらしい。

「おじさん、もうすぐ救急隊員の人が来るから! 死ぬなよ!」

 声を張り上げる響野を、男性が薄く開いた目で見上げる。

 焦点が合っていない、目。

 男性が、僅かに唇を動かす。何かを言おうとしている。

 その口元に耳を近付ける。酷い悪臭が鼻を突く。

「…………」

 男性が呟いた。

「…………」

 次の瞬間車両の扉が開き、制服姿の救急隊員の「大丈夫ですか!」という大声が響き渡った。

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