1 - 6 響野
「妙な話だなぁ」
カウンターの中から感想が飛んでくる。この店のマスターの声だ。
「じいちゃんちょっと黙ってて」
響野の手元では取材用のボイスレコーダーが音を拾っている。祖父の声が紛れ込むと、文字起こしをする時に無用な混乱をすることになる。
「けどよ、憲造……」
「じいちゃんの感想は後で聞くから! ……で、猫田さん」
「はい」
同僚女性のBの身に起こった異変を語り終えた猫田は、神妙な表情で背筋を伸ばす。
「幾つか質問をさせてください。個人情報だから答え難い、とかもあるかもしれませんが、そういう部分は記事にしません。他にも、答えられるけど本文には載せないでほしい、とかそういう要望は遠慮なく伝えてください」
冷たくなったコーヒーをひと息に飲み干し、響野は手元のメモ帳を確認する。
「Bさんは独身ですか?」
「はい」
「恋人は?」
「今はいないって聞いた気が。7年も一緒に仕事してるんで、彼氏がいた時期もあるはずなんですけど」
「彼氏。Bさんの恋愛対象は男性ですか? 女性も含まれます?」
「男……だけだと思います、詳しくは……」
「了解です。──BさんからDV被害について相談を受けたことは?」
「え?」
猫田の形の良い眉が大きく跳ねる。驚いている。それはそうだろう。
ちょっと失礼しますね、と断って煙草を咥えた。カウンターの中から紙マッチが飛んでくる。
肺を紫煙で満たし、大きく吐き出してから響野は続けた。
「今お話を聞いた上での想像、いや妄想と言っても過言ではないかもしれませんが。Bさんが現在、もしくは既に別れた過去の恋人に、性的暴行を受けた可能性はありませんか?」
「ああ……そういう……」
──『入ってくる』『出てって』
それに服をすべて脱ぎ捨て、嘔吐反射が起きるまで自分の口の中をいじり回す。
響野とて、別に確信がある訳ではない。だが、Bさんが無断欠勤の日に必ず、男性から性暴力を受けていたとしたら? 精神的に追い詰められて、信頼できる猫田のいる店に逃げ込んできたのだとしたら?
これは怪異や幽霊が絡んでくるような話ではない。人間が起こした犯罪だ。
しかし、猫田はゆっくりと首を横に振った。
「俺も、Bの親御さんから聞いただけなんですが──その、俺が職場でも特にBと仲がいいからこっそり伝えておく、っていう理由だったんで、記事にするのはNGなんすけど」
搬送先の病院で検査を受けた結果、Bの体にはそういった暴行を受けた痕跡はなかったのだという。性的暴行だけではなく、殴られたり蹴られたりといった乱暴を受けた傷跡もなく、体の中も外もとても綺麗だった。ただ、異常な窶れ方をしていて、栄養失調に近い状態ではある、という話をBの両親から聞かされていた。
「栄養失調」
「はい。俺も──その、スタッフルームであいつが服を脱ぎ始めなかったら気付かなかったと思います。なんていうんですか、その、古い絵とかで時々見かける、肋骨が浮いてて、腹だけがぽこっと膨らんでる……」
「
マスターが口を挟んだ。猫田と響野は揃って顔を上げる。
「これだろ?」
マスターがスマートフォンを突き出してくる。『浮世絵 餓鬼』の検索結果画像が、そこにはあった。
「ああ、これです! そう、こういう感じ。髪が抜けたりはしてなかったけど……」
餓鬼、とメモ帳に走り書きを残し、響野は首を傾げる。
生身の人間による暴行事件の線は一旦消えた。良かった、と思う。だが、だとしたら、Bさんの身にはいったい何が起きているというのか。
「入院後は一度しか顔を合わせていないんですよね?」
「そうですね。あまり良い状態ではないから、ご両親とあと弟さん以外は面会謝絶ってことで」
「弟?」
「はい。幾つって言ってたかな……結構年離れてるらしくて。可愛がってるみたいで」
今、Bに交際相手がいるのであれば当該男性から話を聞こうと思っていた。だが猫田の証言を信じるならば、そういう相手は存在しない。
弟。
年の離れた弟。
ふと、カウンターの向こうに視線を向ける。
祖父が顰めっ面でこっちを見ている。
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