1 - 5 猫田とBさん

 翌週。

 響野は曜子の所属しているバンドのドラマーと顔を合わせていた。

 待ち合わせ場所は任せると言われてしまったので、いつもの歌舞伎町──祖父が経営している喫茶店の住所をメールで送った。ドラマーは、響野は店に着くよりも早く入店して、マスターである祖父と楽しげに歓談していた。

「お、来たな」

「ああ、曜子のお友達の……」

「響野と申します。この度はどうも、ご足労を」

「いえいえ。あ、響野さんってマスターのお孫さんなんですよね? 顔似てるなぁ」

「そうですかね……」

 ドラマーは猫田ねこたと名乗った。猫よりも豹に近い顔付きの男だった。響野よりは幾らか小柄だが見るからにがっしりとした筋肉質の体をしていて、ブラックジーンズに黒い花柄のアロハシャツといった出立ち、真っ黒い髪を後ろに流してうなじの辺りで縛っているのが印象に残った。

「えっと。今回は取材っていうことでいいんでしょうか?」

「はい。……あ、曜子はなんて言ってました?」

 曜子は。あの夜。

 と言っていた。

「あはは、あの子らしいなぁ……じゃあ、記事で。取材ってことでお願いします」

「了解です」

 他でもない曜子の依頼だ。バンドメンバー──猫田が何らかの怪奇現象に悩まされているというのなら、清一との話題にも上ったQ県の霊能力者を紹介しても構わなかった。

 だが、猫田は「実は知り合いが」と話を切り出した。


 猫田は焼肉屋で働いている。老舗精肉店が営む焼肉屋で、検索サイトに名前を入れればすぐに出てくるし、口コミもそう悪くはなくて、いわゆる高級焼肉店とは異なる意味での有名店の正社員として勤務している。

 ホールではなくキッチンを主戦場としている猫田は刃物を扱うのも得意で、祝日や休日ともなれば一日中客に提供するために肉を捌いて過ごすことになる。猫田以外にも正社員は数名いるが、(これは自慢ではないが、と前置きをした上で)猫田が捌いた肉は客からの評価も高く、基本的に悪いことを書かれることがない口コミにも「今日はキッチンにがいなかったみたい」「のスケジュールをサイトに載せてほしい」などと書かれるほどだという。


 そんな猫田とともに働く、ホールスタッフの女性がいる。彼女も正社員で、入社時期が近いこともあり、別段恋愛関係になることもなく軽口を叩き合える数少ない同志のような存在なのだという。女性の名を、仮にBさんとする。


 Bさんが、急に無断欠勤を繰り返すようになった。猫田もBさんも大学を卒業してすぐに正社員として採用され、今年で7年目になる。Bさんは女性なので、女性特有の事情で職場で動けなくなってしまったり、急遽休みを取ることも7年間のあいだに何度かあった。その度に猫田が直接対応し、休憩時間を作ったり、時には仕事の合間を縫ってBさんを自宅に送り届けたこともあった。Bさんは猫田に対しては性別の垣根を超えて自身の体調不良について素直に話してくれたこともあり、今回もまた女性特有の体調不良──生理が重くて家で倒れるなどして、無断欠勤をしてしまったのだろうと猫田は判断した。


 そう思ったから、無断欠勤の翌日出勤してきたBさんを咎めることもなかった。Bさんもまた言い訳をすることなく、普段通りに働いた。


 そう、


 少しだけ訝しく感じた。Bさんは真っ当な社会人だ。無断欠勤をしてしまった翌日に「昨日はごめんね」のひとこともなく仕事に復帰するだろうか? 他の社員やアルバイトには何もなかったとしても、何の連絡もなく休みを取ったBさんについて「事情は聞いてるけど個人的なことだから」「ホールがヤバかったら俺も出るよ」と嘘まで吐いてフォローし仕事をした猫田にだけは何かあっても良いのではないだろうか?

 だが「昨日はどうしたの?」と突っ込んで質問するのも何か違う気がして、猫田は黙っていた。黙っているあいだに、Bさんは二度、三度と無断欠勤を繰り返した。


 四度目で、さすがに黙っていられなくなった。同僚やバイト社員たちも不審がっている。「猫田だけは事情を知っている」という設定もそろそろ無理が出てきた。「もしかして猫くんとBちゃんって付き合ってるの?」とまで本社から様子を見に来た上司に聞かれてしまい、このままではいけないと思った。


 それで猫田は、五度目の無断欠勤を行ったBさんの分の仕事を片付けながら、今日の仕事が終わったらBさんに電話をかけよう、もしくは家を訪ねてみよう──そう心に決めた、夜19時頃のことだった。

 Bさんが店に飛び込んできた。いかにも部屋着といった雰囲気の灰色のスウェットの上下に、足元は裸足。黒髪を振り乱し、顔は紙のように白い。出勤する際には清潔感のあるパリッとしたメイクをしているBさんの完全なすっぴんを見るのは、さすがの猫田も初めてだった。

 Bさんは店舗の裏側にある従業員用の出入り口からではなく、客が待ち時間を潰すためのベンチが置かれている正面入り口から飛び込んできた。家族、恋人、友人同士で歓談していた客たちが戸惑ったようにBさんを見詰めている。

「やめて、やめてよ! もうやだ、やめてっ!!」

 そんなようなことを、Bさんは叫んでいた。叫んでいるうちに正面入り口の黒い絨毯の上に転び、転んだまま、まるで四肢を捥がれた虫のように体をのた打たせて、

「やめて! やめてってば! ! !!」

 Bさんの絶叫は、猫田がいるキッチンにまで響いて来た。何事かと思って飛び出したのは正解だった。途方に暮れたように立ち尽くすホールスタッフたちに客の相手をするように指示し、猫田はBさんを抱えて店の奥にあるスタッフルームに連れ込んだ。Bさんはずっと、くねくねと体を捩らせ、「やめて」「出てって」と喚き続けていた。目の焦点が合っていなかった。

 幸いにも、客足が減ることはなかった。ホールスタッフをフォローに回して良かった、と思いつつ、キッチンスタッフたちに「ちょっとBと話し合うから」とだけ言い残して猫田はスタッフルームに戻った。


 スタッフルームには個人用のロッカーと、休憩時間に使うテーブルと椅子、それに猫田ら正社員たちがめちゃくちゃなスケジュールで仕事をしている時に仮眠を取るための大きめのソファが置かれている。ベッドのように使う機会が多いソファにBさんを置いてからホールスタッフに仕事の指示を出しに行ったのだが──戻ってきた猫田の目の前で、Bさんは着ていた服をすべて脱ぎ捨てていた。スウェットの上下と寝巻きらしいTシャツ、それにパンツを脱ごうとするBさんを、猫田は慌てて止めた。

「何してんだ、おまえ!?」

 厳しい口調で詰問する猫田を、Bさんは焦点の合わぬ目で睨み付けた。

「分かんないのに勝手なこと言わないで! ! !!」

 出てって、の次は、入ってくる──その奇妙な繋がりに、猫田の背筋を嫌な汗が伝う。

「B、落ち着け。何も入ってこないよ。ここには俺とおまえしかいないから、取り敢えず服を着て……」

「入ってくる! 入ってくる! 入ってくるの! やめて! やめてよぉ!!」

 スタッフルームの外にまで聞こえそうな大声で喚きながらパンツを床に落として全裸になったBさんは、右手の人差し指と中指を自分の口の中に突っ込む。

 飲み過ぎて前後不覚になった人間の口に指を突っ込んだ経験は、猫田にもあった。だがBさんの行動は明らかにおかしい。無断欠勤を繰り返すことにばかり気を取られていたが、Bさんの顔と体はひどく窶れていた。猫田はBさんを恋愛対象として見たことがなかったし、そうでなくても女性の体をまじまじと見詰めるのは失礼だと思っていたのだが、乳房が垂れ、肋骨が浮き、それでいて下っ腹が奇妙に丸く張ったBさんの肉体は異様に映った。


 指先で喉奥を引っ掻きながら、Bさんは壊れたようにえずいて──嘔吐反射を繰り返している。胃液がぼたぼたと滴り、スタッフルームの床を汚す。


 未使用の制服をロッカーから取り出し、Bさんの肩を包んだ猫田は自身のスマートフォンで救急車を呼んだ。程なくして駆け付けた救急車の担架に乗せられる頃には、Bさんは両手の指を口に突っ込んだ状態で気絶していた。


 幸いにも、命に別状はなかった。


 だがBさんは今も入院している。状態は良くなく、猫田も一度しか面会を許されなかったという。そのたった一度の面会の際にも、Bさんは「入ってくる、出てって」と虚な目をして繰り返していた。

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